この圀の海軍人事を大角岑夫海相が握り、ロンドン条約遵守派(穏健派)を予備役に一掃して、人事を歪めたとの学説が一部にある。しかし彼の任期の昭和8年から11年の裏では、伏見宮が昭和7年から昭和16年まで軍令部総長を務め、一貫して人事権を掌握していたのである。
伏見宮は、ワシントン会議やロンドン会議で海軍省に煮え湯を飲まされたと後悔していたそうだ。伏見宮が天皇の意向に逆らって交迭を渋っていたが、そのうち伏見宮は病気になり、退任後は米内光政ではなく、好戦的な永野修身が後任となった。
ここで日米戦争の布石が一つ打たれたと見る。
昭和天皇が二人の皇族総長を交迭させた理由は、強硬派軍人たちを扶ける皇族をともかく早く交迭させたかったのであろう。
実際に、閑院宮総長は陸軍幕僚の言いなりになって畑俊六陸相に辞職を迫り、日独同盟反対の米内内閣を軍部現役大臣武官制を楯に潰してしまった。そして、軍部が操縦しやすい近衛政権の成立となった。
穏健派の多かった海軍省は、昭和7年2月以降、伏見宮軍令部総長によって人事的に牛耳られていた。
この圀の近現代史は、先の戦争に、二人の皇族が関わったことを隠したいという流れがあるようだ。
(次週へ)
【参考文献:野村実『天皇・伏見宮と日本海軍』文芸春秋】