「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「ハーモニカ」

2023年08月03日 | 思い出話

                   
                     宮島管弦祭   ネット拝借            遠い昔の私のアルバムから

今と違って、地震・カミナリ・火事という世の中の最も恐いものの筆頭に数えられていたオヤジさん。実際に怖かったし、あまり会話を交わすこともなかったように思う。そんなオヤジさんが何を思ったか「宮島の管弦祭に連れてってやろう」と誘ってくれた。私にとっては前代未聞の珍事である。あれは小学6年生の夏休みであった。ごった返す人混みの中、はぐれないよう父の手をしっかり握って歩いた。これもとっても嬉しい出来事だった。

表参道の居並ぶみやげ物店の一角に、金ピカに輝く管楽器を並べた楽器店があった。ガラスの陳列棚には喉から手が出るほど欲しかったハーモニカが鎮座している。「この際ダメで元々、甘えてみよう」。我ながら大胆な一大決心をして「あれが欲しいんよ」と言ってみた。陳列の中でも最も高価なブランド品である。意外や意外オヤジさんの返事は「そんなに欲しいなら買えばいい」だった。その時はただただ嬉しくて涙が出そうであった。

そっか~、管弦祭という伝統の大祭に連れ出してくれた時点で、幼い次男坊の甘えを聞き届けてやろうという気持ちであったオヤジさんの懐の深さを知ったのは数年後のことであった。ハーモニカは一日も手放すことなく吹いて吹いて吹きまくった。くちびるの両端が切れるほど吹いた。

時代は移って令和の今宵、旧暦の6月17日は「十七夜祭」と呼ばれる宮島管弦祭である。
平安時代に都では、貴族が池や河川に船を浮かべ、優雅な「管絃の遊び」をしていたという。嚴島神社を造営した平清盛はこの遊びを嚴島神社に移し、神様をお慰めする神事として執り行うようになった。そのため河川でなく瀬戸の海を舞台に雄大に繰り広げられるダイナミックな平安絵巻を思わせる海に囲まれた宮島ならではの優雅な祭りとなったと言われている。

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「4年ぶりの酒席」

2023年07月22日 | 思い出話

                                                                 
                      4年ぶりの開催となった、岩国工場定年退職者の会 

3年間のコロナ休みを経て、4年ぶりの開催となった元の我が勤務先である「岩国工場定年退職者の会」総会及び懇親会。
出席者総数を単純に4年前と比べるとおよそ70%。約3割が欠席という数字となった。
ただ、数字よりも何よりも、元気はつらつで出席した者同士、握手や肩のたたき合いなど、互いの顔を見合わせて再会を喜ぶ笑顔満開。文句なし楽しい会、楽しい酒席、話もお腹も満タンに。遠い過去ではあるが同じ釜の飯を食い、同業他社に負けない製品作りに励んだ仲間同士、久しぶりの笑顔の逢瀬となった。 

現職の工場関係者、労働組合支部長などの挨拶に続いて乾杯。ものの30分は静かに進行。司会者のアナウンスも耳に届いているが、そこらへんを過ぎるとあとはもうそれぞれの思い出話、武勇伝、過去をほじくり返す恨み節などなどボリュームは上がる一方。
あちこちのテーブルで立ち話が始まる。

特筆すべきは参加者の最高齢がなんと、100才3ヵ月という。現役の時は年が離れすぎて直接の接触はなかったのに、定年退職者の会に入ってから後、おおむね毎年参加で出席者最高年齢を更新されている先輩と言う程度であった。それが100才をクリアしてなお、両足を地につけての参加とは羨ましい限り。自分にはとても真似のできないことだとあきらめ半分で眺めている。

その一方で、3年間のブランクの間に亡くなられた人も相当数に上る。事務局が確かな数字として把握しているだけでも30数人。その中には私の最後の職場の前任者も含まれている。こんな情報を目にすると、元気で出席し談笑できる自分の今を価値あることと思いたいし、もう何回か出席できるよう自己管理に精を出そう。

とにかく1年に1度、こういった気持ちの中から湧き上がるドキドキ感を持ち続けられのは、心地いい刺激になる。先ずは健康であることか。  

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「太陽がいっぱい」

2023年01月27日 | 思い出話

          

懐かしい映画を観た。NHKBS3の再放送をじっくり見入った。
かつて、男が男に憧れたあのアランドロン主演の「太陽がいっぱい」。高校時代の恩師がこんな顔つきだったな~と思った遠い遠い昔の映画である。あの優しいメロディーが耳にこびりついているBGMとともに強く印象に残っているご同輩も多いことであろう。

1960年に製作された、フランス・イタリアの犯罪映画というから、なんとまあいにしえの名画ではある。
あのいい男アランドロンを、完全犯罪の悪役に仕立て上げるところも、日本人感覚では痛快に思えたのを思い出している。
貧富の差への反発や嫉妬、怒り、友から受けた屈辱への反発。如何にも若々しい青年時代の葛藤が「さもありなん」などと妙に納得した遠い昔を思い出しながらの2時間であった。

洋の東西を問わず、映画文化絶頂の時代は我々も映画館を選び、タイトルを選び、内容を吟みたものだった。
いつしか映画全盛期が遠のきテレビ時代の今は、映画館など近辺にありはしない。よほど評判の映画があれば、1日掛かりで出かけ疲れて帰る。それでも映画の内容が評判通りであったり、納得のいくものであれば大儲け(笑)

たまにこうしていい物に当たることもある。コロナ対策、寒さ対策のお家タイムのよき友ではあった。

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「28年前のあの日」

2023年01月17日 | 思い出話

東京は世田谷区三軒茶屋、静かな町の一角に佇む会社の単身赴任寮。
いつも通りに起きて、身支度を整え朝食のテーブルから見たテレビの画面。先ずこの目に飛び込んできたのは、数か所から立ち昇る真っ黒い煙、その下からメラメラ燃え上がる真っ赤な炎。周辺には大きなビルや小さな四角い建物のほとんどが傾いて、今にも倒れそうな光景。まさにこの世の物とは思えないテレビ映像。しばらくしてから我に返り、急いで食事をして一刻も早く会社に行き、状況の把握とこれからの動作について話し合おうの一念であった。
           

急いで出勤してみると言わずもがな、事務所はパニック状態。本社と全国各地に点在する工場との情報交換に追われたあの日を今も鮮明に思い出す。
新幹線が大阪でストップ。岩国工場の製品輸送が貨車から船便に変更。工場と本社の人の往来は全て航空便に変わり、羽田空港での送り迎えとなった。
そんな個人的パニックも乗り越えたあの日から、紛れもなく28年という歳月が流れた。なんと言ったらいいのか、言葉が見つからない。

何年が過ぎようと、記憶にとどめておかなければならないことはある。28年という歳月は、人々の記憶を薄れさせていく時の流れではあっても、決して忘れてはならない。1月17日午前5時46分を迎えると、一瞬にして還らぬ遠い人となった面影を偲んで涙する人も数知れない。そして今を生きる私たちは、「世の中、いつどこで何が起きるか判らない」という教訓を胸にしなければならない。

毎年のことながら、11日後には誕生日を迎えることもあって、あの日あのときの強烈な印象を思い起こし、今の幸せに感謝の念を呼び起こさせてもらっている。

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「二人目の成人式」

2023年01月08日 | 思い出話

                 
                    成人式を迎えた大学2年生

当市の成人式が1日早く、市民文化会館で行われた。正月休みで帰省中の大学2年生の孫君が、スーツにネクタイで参加した。その帰りに我が家に寄って、その晴れ姿を見せてくれた。5人いる孫のうち、2番目の彼が成人となった。本人にとっては単なる通過点であって、特別な感慨も感動も感じさせてはくれないが、何はともあれジジババにとって二人の孫の成人式は感動ものである。

我が家の前で幼稚園バスからの受取、放課後児童教室のお迎えなど、まさしくこの手で大きく支えて来た感のある孫次男坊君。お兄ちゃんに続いて先ずは無事に成人となる日を迎えたことは、大いなる慶びである。

友達とつるんで成人式には行かないような話をしていたが、両親の説得に反論しながらも「会場まではみんなを誘って行く」ということになり、なんとか出席したらしい。
「今どきの若い者は・・・」などとあまり言いたくはないのだが、成人になったということ、成人式を迎えたということに、今少し自覚を持って捉えて欲しいなと思う。今まではまだまだ半人前扱いだったのよ、それが今日から一人前の人間として、大人として世に認められる。その分何かと自由度が増える。その代わり個人の責任が生まれるのよ。そんな大きな変わり目、節目となる記念すべき日なんだよ・・・。

などというごく当たり前の話は、もう耳にタコができて耳の穴を通って鼓膜まで届かなくなっているのかな。それとも、もう二十歳になる今までに何もかも経験済みで、成人の意味も新鮮さもカンケーない時代になったのかねー。

スーツにネクタイといういで立ちは、成人式を迎え、大人の一歩を踏み出す記念に袖を通すもの、首に巻き付けるもの。などと自分で決めていた人間は古かったのかねー。しかも、成人式に着るスーツは何が何でも自分で稼いで自分で選ぶものだと決めていた。ネクタイ?ネクタイだけは誰かがお祝いにプレゼントしてくれるかも。などと、胸を高鳴らせて二十歳を迎えたのは、なんと60年も昔の話かぁ。時代は移り人の気持ちも価値観も変わるよねー。だから時の流れを自覚して、時代遅れの常識論をぶちまけても所詮空しい。ならば声を小さくして静かに見守るのがいいのかもね。

ただ、昭和38年、1963年のあの成人式の日。誰にも負けない笑顔で式場への階段を一歩一歩上がった感触は今も忘れない。

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「祥月命日」

2022年11月10日 | 思い出話

           
                  墓前に供える小菊

11月10日とは、丸14年が過ぎた今でも記憶から遠ざかることのない、1年の中でも最も忘れがたい日である。
若さゆえの力不足と配慮不足が、形の見えない悔悟の念として肩に乗っかっているような、そんな後ろめたさに苛まれる。それを振り払うために墓前に花を手向け、ねんごろに手を合わせる。もちろん、我が家の中心に座すお仏壇にもお線香を焚いて手を合わす。

母の祥月命日。何は置いても今日一日の一番の仕事であると肝に銘じて午前中を過ごした。
あれは、2008年11月10日17時23分。母の最期となった棲み処である介護施設から「大至急来てください」の電話をもらってから3分後の午後17時26分。100才7ヵ月10日の天寿を全うした日時である。

14年前の話。当時66才であった。今思えば若かったな~と改めて実感する。
母が亡くなってから後、二人の姉を見送った。81才を目前にして、6人いた兄妹がたった2人になってしまった今、黄泉路の向こうで、父を含めた6人の親子が仲良くやっているのだろうか。やはり、両親をこの手で送り出した面倒見のいい次男坊がいなければ、多少のもめごとはあるに違いない。などとバカなことを思ったりするコスモス揺れる季節である。

そういえば、母の最期を迎えた部屋の窓の下で、たった一輪のコスモスがひ弱そうに風に吹かれて、右に左に大きく揺れているのが目に入った。
彼岸に渡ろうか、今しばらく此岸でがんばろうか迷っていた母の気持ちを見るようで、何とも涙を誘う光景であったことを思い出す。

色々あった14年。母がこの世の中で最も心を許した我が嫁と、ちょっと頼りない次男坊二人が、もうしばらく揃って元気に祥月命日は忘れず手を合わせるから、あまり早く呼ばないように、末永く暖かく見守って欲しいね~。と未だに母には甘えてみたくなる感情がある。

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「時の記念日」

2022年06月10日 | 思い出話

              
                 我が家の初生り、茄子・・・おいしそう

6月10日、時の記念日は毎年この月の今日と定められている。
これは、昔むかしの大昔、天智天皇が671年4月25日に「漏刻」と呼ばれる水時計を建造し、はじめて太鼓や鐘の音によって時刻を人々に知らせたという「日本書紀」の言い伝えに基づいている。というのが定説のようである。ということは今さら言うまでもないことと思いながら蛇足までに。

今ひとつ蛇足を。天智天皇と聞くと咄嗟に思い浮かぶのが百人一首である。
『 あきのたの 刈り穂のいほの とまをあらみ わがころもでは 露にぬれつつ 』
百人一首のイの一番に出てくるのがこの歌である。
 秋の田を守る田の辺の番小屋は、もとより仮小屋なので屋根なども苫がまばらであるから、隙間から
 露が漏って、我が袖は濡れに濡れている。それに只一人で守っているのはさても侘びしいことだ。
直訳をするとこうなるが、実は「天皇の身で有りながら誰一人訪れてはこない。愛しい人も来ないのは実に寂しくて、泪が流れて袖が濡れてしまう・・・」などと人歌に歌に意訳するのではなかったかね~。

ま、こんな蛇足は取り敢えず置いといて。小学校の3年だったか4年だったか、「時の記念日」で作文を書かされたことがある。苦い思い出ゆえに記憶に残っている。
当時は遊び場と言えば学校の校庭はもちろん、畑も田んぼも自由自在の遊び場であった。ひとたび仲間がつるんで遊び始めると終わるのは際限がない。せめて日の暮れる夕方が家に帰る時刻で、それ以外は時刻だの時間だのといった概念がなかった。つまり体内時計であったり、日の出、日の入りが時間を示す概念であった。「時の記念日」と言われて「時ってなんじゃ?時間が流れるってどういうこと??」みたいな小理屈を書いたら、先生からは「分かりにくいよね-」と半分褒められたが、家では親父に「こんなことを書くな!」と叱られた思い出がある。時間って何もの?今もって時々、その昔の概念に引き戻されることがある。

要するに生まれてから、80年という月日が流れて、80歳という高齢者になったのよ。それが時間の流れっちゅうもんよ。てな調子で、あまり考えないことにしている。ややこしくなるから。

それより、4月の半ばに初挑戦で植えた茄子の株が、我が家の菜園で2ヶ月を過ごすことで、見事な初生りを見せている。2ヶ月間という時が茄子の株を太らせ、実を付けた。これが時間の経過っちゅうもんよ。そううことにしておこう。

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「思い出を拾い集めて」

2022年05月15日 | 思い出話

            

先日急逝した姉のその後の諸々や、住まいとしていた県営の集合住宅の最終始末など、複雑多岐にわたる作業がなかなかはかどらない。
喪主としての勤めは滞りなく果たしてはいるのだが、なにぶん、予測なき突然の終焉のため、姉自身の意思や希望など話しを訊いておく間もなかった。そんなわけで、数ある遺品の多くをどのように処理するのか、どの時点で最終処理業者に任せるのか、最終判断は私が下すことになるのであろうが、色々悩ましき日々でもある。

今日は、実の妹と、生前の姉の最も近くにいて親しくしていた姪らとともに姉の家の鍵を開け、少しばかり遺品の整理をした。
さすが女性の独り暮らし。あるはあるは、「これは何のために取っておいたのかねー」「まあ、こんなものまで引き出しにしまい込んで」などなど。また、こんなに豪華な装飾品をたくさん持っていたんじゃね、など弟の私から、というか男の眼からみたら、生活様式や日々の暮らしそのものが実に幅広く雑多であると同時に、きらびやかで華やかで優雅な生活痕がうかがえる。『女やもめに花が咲く』とは言い得て妙、まさしくその通り。

姪や妹が目を光らせるのはほかならぬ貴金属類である。都会暮らしが長かった姉の生活ぶりを反映した数々。その中からお気に入りの品々が自分たちのバッグに収められた。これもまた亡き姉への供養でもある。生前に愛用した思い出の数々を、縁深い人が受け次いで久しく活用することは、姉も望むところであろう。

それにしても84歳の突然死は早すぎる。おふくろさんなどは、84歳と言えばまだまだ現役でちんちろ衣料品店を切り盛りしていた。そして100歳を生きた。ま、人それぞれ、人生それぞれ。長いのが佳しとは言い難い。結局はそこそこ、ほどほどがよろしいようで。

 

 

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「身だしなみ!」

2022年02月13日 | 思い出話

           

大きなお世話だよ!と口に出してこそ言わないが、大きなお世話をしたがる御仁がいるものだ。
私にとってのお世話人は、4つ年上の姉様である。最近こそあまり言わなくなったが、服装・キャップ・履き物まで。特にラフなセーターなど着ていると、下着との色合い、ズボンとの形の兼ね合い、これならこんな突っかけが似合うよ。と勝手にコーディネイトしてくれる。

スーツなど着ようものなら、先ずネクタイとカッターシャツの色バランス、スーツに合わせてネクタイの結び方まで。「もうええよ、勝手にさせて」となるときもある。人世の先輩面したいのも分かる。都会生活が長かった実績も認める。しかし、こんな田舎で、男の身だしなみなど誰が見てくれると言うのだ。というのがこっちの言い分。そうじゃない。身だしなみなんというものは人が見て決めるもんじゃなく、自分自身が「スッキリしてる?」と思えるかどうか、そこが分かれ目である。と気付いてはいる。

なんと、今日の新聞に『身だしなみ きっちり』のタイトルで、県別ベスト5が発表されていた。
驚くなかれ(強調するところではないが)全国の見目麗しさNo1、それは秋田県だという。次いで山形県、徳島県、岩手県、高知県だという。なんで秋田・山形なの?と言う質問は野暮というもの。
「理容所・美容室」の数が人口10万人あたり555.3カ所なのだ。次に山縣は510.7カ所。徳島、岩手、高知と続く。秋田県の調査統計課では「男女を問わずおしゃれの人が多いため、来店の頻度が高い。そのため、理容・美容の業界が元気なのだ」と喜んでいる。

そっか~やはり、丸刈りでも理容室に行くべきかねー。オッとここは山口県だ。バリカン買ってお家散髪がお似合いだ。
若いとき、デートのために散髪に行って眠ったら、オーナーが気持ちよく寝させてくれて、デートに大きく遅れて悲惨な目に遭ったなどと言う話は、また今度にしよう。

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「寂聴さんの思い出」

2021年11月12日 | 思い出話

                    
                     在りし日の瀬戸内寂聴さん

あの独特のしゃべり方、歯に衣着せぬ放言など、強く耳に残っている作家の瀬戸内寂聴さんが亡くなられた。
我が町出身の作家宇野千代さんを姉のように慕ったというご縁もあって、何度か岩国を訪れ宇野千代のお墓にも詣でたと聞いている。
あれは何年前だったろうか、女性がほとんどの宇野千代さんを顕彰する会で、数少ない男性会員としてわずかに活躍していたころの話だから、10年以上前になるだろうか。

宇野千代顕彰会主催で「瀬戸内寂聴講演会」を開くことになった。顕彰会の中から司会を出すことになり、白羽の矢が立ったのがこの私である。
臆面もなく素直に引き受けはしなかった。「少し荷がはりますね~」くらいのことは言ったと思うが、兎に角お願いされて引き受けたのを覚えている。
会場は1500人が収容できる市民会館。その会場が膨れ上がるほどの聴衆が詰めかけている。狭い町なので知り人もいっぱい。
喉がカラッカラに乾く思いで第一声を発した。過去に積み重ねた婚礼の司会で仕込んだ「マイクの前に立ったらマイペース」の度胸がよみがえった。

講師の簡単な紹介も任されていたのをなんとかこなして、「それでは寂聴先生のご登壇です」の言葉でにこやかに寂聴先生がステージに。
中央に据えられた講演テーブルをスタスタと通り過ぎて、ステージの袖に立つ私のもとへお越しになった。こりゃ困ったどうしよう。講師に恥をかかせたら司会者失格である。やおら小声で「先生のお席はこちらですよ」とお腰に手を添えて指定席へご案内。あとはもう寂聴話に大笑いの客席。

ホッと一息。講演が終わった控室で「お疲れ様でした」と声を掛けたら「まあ私ったら、いい男が好きなもので舞台を横切っちゃったわね」と大笑いをされたのには、驚いたり喜んだりの、生涯忘れることのない寂聴講演会の一幕であった。気さくで飾りっ気もなく、誰でもファンにさせてしまう引力があった、と覚えている。

99才の人世。色んなことがあった全てを背負って、生涯現役を全うされた99年。涙の見送りよりも、拍手に笑顔を添えて「ご苦労さま!」の見送りがお似合いの人である。

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