「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「葉月、おおつごもり」

2018年08月31日 | 季節の移ろい・出来事

       

集中豪雨被害の復興もままならない被災地に、追い打ちをかけるような台風の連発襲来。
それ以上に大変だったのが「命にかかわる危険な暑さ」に悩まされ続けた上に、これでもか!というほどの雨不足、潤い不足。
あれこれ思うに、これまで経験したことのない過酷な8月であった。それらの全てをなんとかやり過ごし、よくぞ持ち応えたと言える8月でもあった。

そんな中でも、周防大島町で発生した2歳児行方不明事件は、それでなくても夏バテ気味の人々の心に、さらなるダメージを与えた。
あの暗く重たいニュースが急転直下「世を照らす明るいニュース」に変わったのもこの8月の出来事である。
見も知らぬ人が見も知らぬ場所からボランティアで捜索に単独参加した。その豊かなボランティア経験と体験から、行方不明から78時間もたって静かにうずくまる2歳男児を見事に探し当て、無事発見という快挙に沸いた。という顛末。

孫守りに追われるこのジジに、「さらなる注視を」「一瞬の油断が命取り」などの少なからぬ教訓を与えた。
体力や俊敏さは付いて行きようもない小3のやんちゃ坊主ではあっても、眼だけは離さない用心深さの大切さを教えられた。
数々の思い出や笑い話を積み重ねた8月、夏休み。とっても重たい、意義深い、孫とジジの生活であった。

大小台風の頻発、局地的な集中豪雨、連日の灼熱の太陽、極端な雨不足。こういった現象の元凶が全て地球温暖化とするならば、我々地球に住む人間一人ひとりが、生活実態を見直さなければ、解決の糸口すら見つからないのであろう。
今しばらく長生きはしたいと思うが、できるならもうちょっとしのぎやすい、生きやすい世の中であって欲しいと思うのだが。
今やそんなことも「贅沢」の一つになったいくのだろうか。

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「ピンクッション」

2018年08月30日 | つれづれ噺

         

艶やかさと清楚、妖艶と淡泊など、それぞれに持つ個性を私たち人間にアピールする花々。
名前もまた様々である。「名は体を表す」との言葉通り、花の形状から人間がイメージする物に重ねて、勝手につけたのではないかと思われる名前の花も少なくない。この「ピンクッション」という花の名前は、明らかに、花が先に世に出て名前が後から付いて来た、という感じが強い。

そもそも「ピンクッション」とは、英語で言うマチ針を刺す針山のことである。つまりピンを刺すクッションというから面白い。
そう言われてよく眺めると、文字通り色鮮やかなマチ針が、針山に刺された様子にさも似たり。
この花も、ちゃんと日本古来の生け花の花材として使われるのである。やはり価値観とは多様であり、ヘタにこだわり過ぎると置いてけぼりを食うことにもなりかねない。

ついでながら、この花にももちろん花言葉はある。「艶やかな人」「共栄」「どこでも成功をする」というかっこいいものである。
生け花とはあまり縁のないこんな男に、何故ピンクッションという目新しい花が結びつくのか。摩訶不思議なようであるが、意外にそうでもない。実は、完全アウトドア派の小3孫君に、多少は日本の文化に触れさせたいと願うジジ願望から発したことである。

池坊岩国支部の教授免許をお持ちの先生お三方による「夏休み親子生け花教室」なるものにご案内があった。
どうせ集中して習うわけでもないワンパクではあるが、まんざら無駄ばかりでもないだろう、とジジと共に参加した。
玉シダで作るトンボの形などは、集中しなければ出来ない代物。それが曲がりなりにも出来たときは嬉しそうな顔をする。

孫君以上にジジの方は、このピンクッションという花を一つ覚えたのに加えて、「ワレモコウ」という花との出会いもあった。
いっとき歌いまくった杉本まさし作詞作曲の「吾亦紅」の実際の花をこの手にし、観賞できた。
そんなこんな、孫君のためにと思ってあちこち連れ歩いたが、どうかするとジジにとっても教養の場でもあったような。

持ちつ持たれつで過ごした夏休みも終わる。一日中の守りは大変だったな~と思いながら、、よくぞジジと遊んでくれたなーという感慨もある葉月晦日である。

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「人生の醍醐味」

2018年08月29日 | ニュース・世相

                

孫たちが、笑ったり喜んだり時々首を傾げたりして観ていた、子供向けテレビアニメ「ちびまる子ちゃん」。
本気で観たわけではないが、孫たちのペースに乗って横目でチラチラ眺めたこともあった。その割には、決して具体的ではないが、ちょっと世間を皮肉ったり、大人の世界を揶揄したり、子供の鋭い観察眼で物申したりする場面に共感した記憶がある。

そんな風刺漫画ともいうべき、ちびまる子ちゃんを世に送り出した漫画家「さくらももこ」さんが53歳という若さで亡くなった。
『毎日、人の数だけ違うことが起こっている。同じ日なんて無い。一瞬も無い。自分に起こることを観察し、面白がったり考え込んだりする事こそ人生の醍醐味だ』と彼女はおっしゃる。まさに至言だと大きくうなずいている。

こういったような、生きることへの達観みたいなものを原点にして描き出されるものには、漫画であろうと小説であろうと、エッセイであろうと、大いなる共感を呼び起こす魅力や魔力が仕込まれているようだ。
❝現状維持は退歩である❞とは、現役のころに先輩から教わった言葉であるが、現状に甘んじることなく、面白がったり、深く考えたりして、己を見直す気持ちのゆとりを持つこと。そしてささやかにでも進歩する中で、来るべき終焉を待ちたいと思う意欲だけは少しあるのだが。

そんな新聞記事のすぐ横に目をやれば、「青春は 終わったと思う時終わる」という川柳が載っていた。
偶然の偶然ではあるが、面白い取り合わせに思わずクスリッ!やはりそうか、自分に起こることを冷静に観察する眼を養うこと。それを喜んだり怒ったりしながら、前向きに捉えて楽しまなけりゃ、生きている醍醐味を失うことになりそうだ。

ついでに、まだまだやれることがあるかもしれん、と自分を鼓舞して、ホンの少しでいい、今日より明日を楽しむことが出来たら、やがて迎えてくれるであろう、おふくろがアタマをナデナデしてくれるかも。

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「夏休み終盤」

2018年08月27日 | 季節の移ろい・出来事

や~れやれ、やっとこさ夏休みも終盤となった。この週が終われば、しっかり付き合ってきた小3孫君のじいちゃん学校は閉校を迎える。
別段何をどうするというわけでもなく普通に見守ってやるだけなのだが、やはり生身の人間の面倒見るということは大変な労力ではある。
まだまだ目を離せばすぐにどこかに行ってしまうような危険があるので、ウッカリなどできはしない。

先日の、2歳児が二日二晩行方不明になり、三日目にボランティア捜索者によって無事保護された全国ネットの大ニュースは、見守る祖父の責任がクローズアップされたばかり。「一瞬目を離した隙に潜む落とし穴」という重大な責任が、暗黙のうちにジジにのしかかって来る。

   
       慣れない手つきで、力任せにくぎを打つ。         丸太切りは、日ごろ鍛えた腕力と体力で堂々と。 

だからと言って、家の中でじっとしていることほど辛いものはない。チャンスを見つけては外に連れ出したり、引っ張って連れていかれたりする。この夏休みも城山に上った。カープに二軍戦も行った。彼がショートを守るソフトボールの応援にも行った。海にも行った。川ではハヤを釣らせたり泳がせたりもした。

そして最後は「森であそぼう」というイベントには、クーラーボックスに詰めた飲み物や弁当をひっ提げてお付き合い。
木工体験は「木馬づくり」に挑戦。とは言っても主催者側が、切る・加工するなど大半出来上がったセットを渡してくれる。
それに角度を合わせボンドを塗って釘を打つ。ペーパーやすりで仕上げていく。うまく仕上がるようにできている。
次いで丸太切り体験などなど。付き合うジジババも汗だくで、体力消耗はなはだしい。

一方では、夏休みが終わり二学期が始まるのを前に「学校整備事業」という地域活動が待っている。
               
二つの小学校と一つの中学校。三校掛け持ちで草刈り作業に汗を流し、グラウンドや通学路の整備をする。
これも夏休み終盤の一大イベントとして地元に定着している。朝早くに始まる作業ではあるが、体重が減るほどの汗が流れる。
これらは、我々地域住民が運営する社会福祉協議会の「瀬戸内海を守る海岸清掃」に多大な支援を頂いた学校サイドにお返しの意味もある。また地域を上げて学校を守るという使命みたいなものとが一つになって実施される、年間事業の一つである。

色々あった8月最後の土・日が無事終わった。
相変わらずたまらんほどの蒸し暑さと高温という「悪暑さ」は続くが、気持ちの中では「まあまあやり切ったかな」という爽やかさも感じるこの夏休み終盤ではある。一通りが終わった今、少し体のケアにも気を遣うことにしよう。まだ先がある。

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「思い出がまた一つ・・・」

2018年08月23日 | 思い出話

       
           伐採が決まった、岩国市立愛宕小学校、尾津明神社のエノキの大木

今から70年前の昭和23年(1948年)、岩国市立愛宕小学校に入学した。校長先生の名前は青山宗一だったと記憶している。
1年生担任は彦本(女)、2年古川(女)、3年福坂(女)、4年~6年高木(男)というそれぞれ個性ある先生方のお世話になった。
我ながら不思議なほど、校長や担任の名前をはっきり覚えているのに驚く。その割に勉強の出来はからっきし。

戦後間もない日本は貧乏というか、物不足、食糧不足は当たり前の日常であった。
小学生の服装はもちろん自由。家にあるものをを着て行くのが普通で、女子は着物で通学する子も多かった。
履物はさらに多岐にわたった。お金持ちの子はズックやゴム靴。普通の家庭は下駄にワラ草履など。さすがに裸足はいなかったと思う。
兎に角、貧富の差丸出しの小学校生活であり、お金持ちの子は当然のように先生の受けがよかった。まるで逆の私などは惨憺たるものだった。

そんな私の通った小学校には、校庭の一画に「尾津明神社」が祀られていた。秋と冬の例祭にはお神楽や相撲祭りを楽しんだ。
神社を囲むように、エノキの大木やセンダンの大木が6~7本生い茂り、小さいながら鎮守の森をなしていた。夏には優しい木陰を作り涼風を提供してくれた。その涼しさだけは、貧富に関係なく、あふれるほどに群れを成す子どもたちに一様に与えられた自然からの贈り物であった。そしてセンダンもエノキも小さな実を付けて、子どもたちを慰めてくれた。
おやつなどありはしない私たち子どもに貴重な甘味を提供してくれた。これは秋の大きな楽しみでもあった。

それほどに多くあった大木が、学校の変遷に伴い、伐られたり枯れたりしてその数は激減。ついに1本だけ残っていたエノキも安全上の危惧から伐採されることになった。と報じられた。最後のエノキは、樹齢200年を超えるであろう、高さ約20m、幹回り最大3mに及ぶ。
何とか残したい一本ではあるが、老朽化には勝てずついにその時を迎えた。
我が人生に彩を添えた歴史の証が、また一つ消え去ることになった。これぞ時代の流れ、歴史の移り変わりであり、抗うことも叶わない。

せめてもの慰みとしてここに記録として残しておこうと思い立って、伐採工事が始まる前の尾津明神社とエノキをカメラに収めた。
なんせ70年前に入学したした小学校で、記憶があいまいな部分も多いが、鮮明に残っている記憶もいくつかある。
木造の講堂で小学3年生のとき、当時最新鋭の録音機導入の実演説明会で「朧月夜」をアカペラで歌った初舞台。5年生の時、いたずらをして担任から、分厚い本の背中で頭を叩かれた痛みも覚えている。叩かれるほどのいたずらだったかな~と思うのと、本の背中ではなく平たい方で叩かれたのならちゃんと反省をしただろうが、背中で叩かれた痛みは、反省より先に男先生に対する恨みが残った記憶もある。

それもこれもひっくるめて、また思い出の一つである小学校の大木が姿を消す。
遠い記憶と歴史を、ここに拙いブログとして記録しておきたい。

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「色んな言葉を残しながら」

2018年08月22日 | 家族・孫話

  

今年も夏の一大イベントを無事終えた。
やんちゃ坊主とたおやか姫を引き連れて、田舎の川遊びに出かけた。
  ♪♪ うさぎ追いしかの山 小鮒釣りしかの川 ・・・・・・ ♪  
と歌われるほどのことでもないが、カミさんの実家のある山深い小さな川に浸かりながら、ハヤを釣り、メダカをすくう孫たちの嬉々とした顔や、お腹を空かしてフランクフルトや焼きそばをぱくつく様を見ていると、孫守りは何かと骨の折れる仕事ではあるが、楽しみの一つでもある。

彼らが遊びに興じるころ、椅子に座って眺めるジジの目は、上下の瞼が互いを呼び寄せくっつきたがって仕方がない。
思わずコックリさんの沈思黙考?。「じいちゃんを起こしちゃいけんよ」という小3の声が聞こえる。「じいちゃんはクルマを運転するし、朝ご飯を食べたオレの茶碗もみんな洗ってくれる。じいちゃんが一番疲れとるんじゃけー」と、思いもよらぬ言葉を発する。

目に見えるじいちゃんの苦労を思い遣ってくれるのは有り難いが、その数倍の働きで孫の面倒をみているお疲れのばあちゃんにまでは気が回らないようである。そのくせ、ハヤ釣りの手作り練り団子を針に付けるのも、釣ったハヤを針から外すのも、一から十までばあちゃん頼りなのである。それなのに「ふーん、じいちゃんが一番疲れとるん?ばあちゃんは?」の質問には特に答えないところが男の子っぽい。と笑ってしまう。

5歳姫は、日の暮れ前の中天に浮かぶ半分の白いお月さまを見て「あのお月さまはのんちゃんと同じ5歳なんよ」と教えてくれる。
「そうなん、まん丸になったら何歳になるの?」「まん丸は18歳よ」などと他愛もないおしゃべりしながらの散歩道。
なんで半月が5歳で満月が18歳なのか。そんなことはどうでもよろし。本人の頭の中で思いを巡らせばそれで十分。

今、高校3年と1年に成長した孫君も、かつては散歩しながらじいちゃんに色んな語録を残してくれた。
今度は小3と5歳がそれぞれに感じたり、聞きかじったりした言葉をジジババに投げかけて来る。
言葉のキャッチボールを上手に出来るように、ジジババも感性と若さを磨いて応じてやらねばなるまい。

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「花も実もある」

2018年08月20日 | つれづれ噺

             

今年は台風発生が例年より多いようだ。8月下旬に入ったとたんに、19号だ20号だと気象予報が声高になっている。
そんな大敵の台風が来る前に、精一杯の成長を遂げ、そろそろ刈り取りの話が出て来るのが早生のお米である。
今年のあのギラギラ太陽のエネルギーを受けたお米は、例年以上に地中深く広く根を張って極上の美味しさを提供してくれるであろう。

ギラギラ太陽の恩恵はお米ばかりでなく、地中深くに根を張るレンコンにも同じように好影響を与えている。
ここまで見事に実ったのだから、心無い台風によって収穫量が半分に減るなどということがなければいいが、などとレンコンの一本も植えているわけでもないのにその収量をいまから心配している。

見事に実ったレンコンの葉っぱは我が家にとっても貴重な風味となるので、心配も単なる他人事ばかりとは言えない。
郷土料理の代表格「岩国寿司」。祭り寿司とも角寿司とも呼ばれる四角い寿司桶で作られるこの寿司には、下敷きや中敷きを使う。
そこに出番が来るのがこの立派に実ったレンコンの葉っぱである。代用品として芭蕉の葉やレタス、薄板などを使う場合もある。岩国寿司としての体裁は整うが、いずれもレンコンの葉の風味には遠く及ばない。

台風の風に傷めつけられない今のうちに、おすそ分けを頂き、独自の乾燥方法で渇かした葉っぱを、大切に保存して向こう1年間使用する。
大きく開くレンコンの花はお墓や仏壇に供える絶好の供花となる。花がそのまま田んぼで終われば「ハスの実」となる。まさに花も実もある生涯ではある。それ以上に肝心な根っここそが、色んな形に変えられて食卓を賑わすレンコン本来の値打ちを発揮する。

つまり、花も実もある、しかも葉っぱも根っこも全てが万人に重宝される。我が人生もある意味ではそんな生き方を目指してきたつもりだが、やはりレンコンには大きく水を開けられたようあだ。
せめてもの慰みで、花も実も葉っぱも根っこも、レンコンの全てを我がものとして活用することで溜飲を下げるとしよう。

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「盆が過ぎれば・・・」

2018年08月19日 | 季節の移ろい・出来事

          

あの「命にかかわる危険な暑さ」と言われた今年の夏も、お盆が過ぎたら、やはり季節は巡る自然の摂理というべきか。
朝夕はめっきり涼しさを感じ、ともすれば夜中は布団が欲しくなったりする。
窓を開け放たなければ、夜中でも朝方でも暑くて暑くて寝苦しかった10日前が懐かしくさえなる。
とは言いながら、日中の陽ざしの暑さは相変わらず。小3の孫君のソフトボール試合の応援は、日差しが痛いほどであったような。

そんな陽射しの中、試合会場には午前6時集合。あれこれあって8時30分から試合開始。11時から2試合目を。
必死に応援するときは日差しも忘れているが、弱小球団の悲しさで大敗などすると、一気に暑さも疲れも感じる応援団。
それでも選手たちは顔も目も真っ赤にして、投げ、打ち、守り、そして走る。さぞかし、と心配する応援団の気持ちなどそっちのけ。
ケロッとして、本部席の冷蔵庫に準備された凍ったチュッチュを頬張り、またはしゃいでいる。

そんな暑さも日が西に傾き、山の端に沈むころにはものの見事な夕焼けを見せる。
「じいちゃん、夕焼けよ~」と5歳の姫孫はジジの手を引っ張るように、夕焼けがはっきり見えるいつもの散歩道に誘う。
季節の移ろいに感動する感性を傷つけないように、ジジもカメラを片手に、カメラスポットに走る。

そうしてこうして、日一日と少しずつ季節は巡っていく。ついでに少しずつ少しずつ歳を重ねていく。
穏やかな夕焼けは、明日のお天気を保証しているかのように、静かな中にも晴れやかで力強さを感じさせる。
明日は、今年最後の川遊び。小3はハヤ釣りに胸を膨らませ、5歳姫は川のメダカすくいを楽しみに、眠りこけている。

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「マジックナンバー点灯!!」

2018年08月16日 | スポーツ・観戦

           

プロ野球セ・リーグ。三連覇に向かってまっしぐらの広島東洋カープ。と言いたいところだが・・・・・・。
待望のというか、ついにというか、優勝へのマジックナンバーが点灯した。だからどう、というほどのことではない。
選手はもとより、野球を心得た熱心なカープファンも、マスコミが大騒ぎするほどのこの数値に反応を示さない、というのがこのマジックナンバーの特徴かな。

何度も言われているように、プロ野球の優勝マジックナンバーとは、一言で言えば「優勝が確定するために必要な勝利数」のことであり、これがゼロになったときに優勝が決まる。ということ。
もう一つ言えば、カープ以外の5球団が「自力優勝の可能性が消滅したときに点灯する」のがこのマジックナンバー。ということは、他の5球団は、直接対決でカープに全勝しても、他のチームに負けたら優勝の可能性が消える。という限りなくカープ優勝の可能性が高い、という数字であることに間違いはない。

但し、厳しいカープファンの眼から見れば、「本当に強いの?」「危なっかしい試合が多すぎない?」「強さを発揮して勝ち切る試合が少ないんじゃない?」という素朴な疑問が付きまとう。それらをまとめれば「本当に三連覇できるの?」という疑問になる。
相手チームのずっこけのお陰で勝てているんじゃないか。逆転されてもおかしくない試合が続いているんじゃないの。といういら立ちが感じられて仕方がない。

本当に強いと言われるチームの特徴を考えてみると、野手陣は、7・8・9回の終盤に必ず点を取る。投手陣は、7・8・9回の終盤に相手に点を与えない。という、まさに盾と矛の関係、つまり大きな矛盾を乗り越えて、有無を言わせず勝利に導く。この姿こそが勝利者の理想像である。と思っている。それがここ数試合のカープには矛盾を乗り越えられていない。勝ってもハラハラドキドキ、満足感の薄い勝利。リードしていても終盤に逆転負けをする。少し油断が生じていないか。勝者ゆえのおごりはないか。不安で仕方がない。

先発投手陣のだらしなさで、中継ぎ、抑え投手に負担が掛かり過ぎる戦略的齟齬を招いている。
とはいえ、この時点ではカープ以外の優勝は考えられないと思うが、『三連覇の勝者』と呼ぶにふさわしい試合運びを見せて欲しいものだ。

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「汗の報酬」

2018年08月14日 | つれづれ噺

            
                   新調した玄関網戸

「命にかかわる危険な暑さ」というキャッチフレーズの通り、連日連夜の猛暑酷暑。
その上に、雨粒らしい雨粒を久しく見ていないという雨不足、湿り気不足。猛暑酷暑が覆いかぶさる気配さえする。
可能な限り多くの風を家の中に取り込みたいという欲望に駆られる。しかしその頼りの風さえあまり吹かないこの夏である。

「そうだ、せっかくの南向き玄関である、ここから風を取り込もう」と目論んで、玄関網戸を付けることにした。
先ずは知り合いの工務店に見積もりをお願いした。完璧に採寸してもらって、網戸の仕様も相談した。
届けられた見積価格は、なんとこちらの思いとは随分かけ離れた高額となっていた。「エッ!これほどかかるのか?」正直少し驚いた。

待てよ、ホームセンターで何種類かみたことがあるな~。今一度覗いてみることにして、取り敢えず見積価格は保留扱いに。
店には何種類か置いてあり、値段もそれぞれ違う。ただ、工務店の見積価格が頭にあるので、どれを見ても随分安く感じてしまう。
但し、それは自分が施工することが条件であり工賃が入っていない。そんなこんなを考えながら、ついに出した結論は、既製品を買って、自ら汗をかく、というところに落ち着いた。しかもそのお店では最も高級感のある機種を選んだ。

定規を当てペンで印をつければそこに汗の粒がポトリ。ノコギリの刃を当て引き始めようとすればまた汗のしずくがポトリ。
そんな大粒の汗をまき散らしながら、朝8時過ぎにスタートして何とかその日のうちに仕上げた。多少の不満の残る施行ではあったが、部材が余るなどという不手際もなく、まあまあそれなりの成果が得られた。

それにしても工務店見積もりと既製品の工賃無しとでは、見栄えやカッコよさを抜きにすれば、経費の大きな違いに驚かされる。
今や完全年金生活。可能な限り出費は抑えたい。そこには自ら汗をかくという代償が生まれる。それをクリアーする体力も視力も要る。
何とか今の時点では、この程度の施行でよければ体力も視力も自信がある。さてそれがいつまで続くことやら。
しかも施行に当たっては、棟梁より小まめで達者で目先の効く助手、いわゆる下てごの存在がある。下てごと棟梁の合作なのである。

次なる故障が起きたとき、棟梁も下てごも健在や否や。家一軒持ちこたえるのはやっぱり、汗を流す大変なことではある。
元気で長生きをもっと真剣に考えなければ・・・。

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