「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「遅ればせながら」

2014年05月30日 | つれづれ噺

            
                           厨房にあらたな仲間入りした新兵器

何をいまさら・・・などと笑われそうな話であるが、このほど、我が家の厨房に新兵器?が仲間入りした。
食器洗浄乾燥器なる優れものである。
食べ散らかした食器を、この箱の中に立ててスイッチを二つ三つ触る。
すると、勝手に水道から水を引っ張り、自らお湯にして、回転式シャワーで、下から上から浴びせかける。

所要時間は、食器量や丁寧度によって多少異なるが、兎に角汚れた食器をいちいち手洗いしなくて済む。
世の奥様方のお手手が年齢不相応にきれいなことや、「食べないのに太るんよ・・・」などとのたまう皮下脂肪満載の理由が呑み込める思いがする。

夕食が終わるや否や食器を下げて、流し場に山と積み、すぐにゴシゴシ・キュッキュッ、音を立てて洗い始める。
ちょっと食べ休みをすればいいのに・・・と思うのはオトコゆえの、台所事情を知らない呑気さであったようだ。
「男子厨房に入るを許さず」などというのは昔の話であるが、それに近い形で今に至っている物知らずにとっては、「しもた、もっと早く新兵器導入を考えてやればよかった・・・」などと思ってみても後の祭り。

ただひとつ弁解しておくと、20年前に新築したこの家には、ビルトイン(流し台に備え付け)の乾燥機は付いていたのだ。
当時はまさに最新鋭の洒落たキッチンであった、と自負している。
食器を洗うだけで、後は機械任せだから随分楽になったろう・・・などと鼻を高くしたものだった。

それ以来、食器洗浄機がこれほど優秀で、家庭の主婦の味方になってくれていることには目もくれずにいた、というか、本当にきれいになるの?やはり手洗いにはかなわんじゃろう、などと見て見ぬふりをした、というのが本音。
いつしかビルトイン乾燥機のスイッチがおかしくなり、苦労しながらどうにか使いこなしていた。
お互い寄る年波。設備投資やランニングコストにビビッて、機械文明に逆らってきたような生活は辞めよう。
どうせお金が貯まるわけでもないのに、疲れを貯めるなどという愚かしいことをするのは辞めた!!

・・・ ・・・などというほど大袈裟でもないが、少し労力の節減を図ろうという意見の一致をみた。
ほんのちょっとだけ面目を施した5月の終わりである。
くれぐれも言っておきますが、新兵器でもなんでもないよ!などとのたまうなかれ。
我が家の厨房に鎮座して運転を始めたのは昨日なのだ。やはり我が家にとっては強力な助っ人・新兵器なのである。

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「小学校最後の運動会」

2014年05月25日 | 家族・孫話

 
    開会前、原稿のチェックを済ませて                  いよいよ開会式の進行を

小学校入学を前にして「東京タワーが見たい・・・」としつこくねだった、孫次男坊のカー君。
あまりのしつこさに負けて、ついに重い腰を上げて東京見物・ディズニーランドに連れて行ってから早くも6年が。
今日は小学校最後の運動会ということで、早くから、どんな要件が入ろうともすべてをキャンセルしてこの日を待った。

真夏を思わせるような暑い日差しの中。『手かげんなし あせとなみだの 赤と白』というスローガンのもと、小学校運動場いっぱいに繰り広げられる、幼くも楽しい運動会を、最初っから最後まで完璧に見届けた。

カメラを構えて運動場を駆け巡るときは、カー君の姿を見失わないように追いかけるのが精一杯で、感傷などに浸っている暇はなかった。が、今こうして、カメラに収まった84枚の写真を整理したり、彼なりに頑張った放送係の大役をこなしたことを想うとき、改めて大きな拍手とねぎらいの言葉を投げかけてやりたい。そして、確実に成長した姿にちょっとだけセンチな感情が頭をもたげる。

放送係に立候補していたことは聞いていた。どの程度のことができるのか、高をくくっていた部分もある。
「マイクはほぼ直角に。口に近づけすぎると声が割れる。自分ではゆっくり過ぎると思うくらいのしゃべりが最も聞き取りやすい。原稿は目の高さに上げて読め、下を向くと声も下向きになる・・・ ・・・」などと、自らの経験をもとに少しのアドバイス?もしてはきた。
本人は「大きなお世話、学校の先生がちゃんと教えてくれる」と、耳障りなジジの声になったのかもしれない。

  
    「相棒」のレースを、左側カー君      悠雅君は玉入れに出場        兄ちゃんも玉入れに応援出場

開会式に向けた全生徒入場行進から、会場に流れる第一声を発する大役。校旗・国旗掲揚の案内などオープニングセレモニーすべての進行アナウンス。どうかすると逃げ出したくなる緊張感を伴うはずだが・・・。
指導の先生が「よーく練習してくれまして、立派にできること間違いありません」などと、開会前に言われる言葉を信じて、不安を打ち消してその時を待つ。
結果オーライ!遠くから近くから、マイクに向かう彼の写真を何枚撮ったろうか。

放送係の合間には出番もまわってくる。あまり遅くはない足なのに、徒競走は出遅れて3着。まあいいか。
そして閉会式。整理体操では壇上で「ラジオ体操第1」の先導役。
あのひ弱なカー君が壇上で?ラジオ体操の先導役? 一時は耳を疑ったがそれも杞憂に終わった。

 
        徒競走は惜しくも3着                    整理体操では、壇上で堂々のカー君

自らが年を取るのは忘れがちだが、子どもは月日とともに確かに成長している。良い一日を過ごさせてもらった。
また孫話を手放しの喜びようで書きやがって・・・とご批判の声も聞こえそうであるが、ここはひとつ、いとしいカー君の小学校最後の運動会の顛末ということで、ご勘弁頂けると有難し。

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「内祝い」

2014年05月24日 | つれづれ噺

              

記憶が少し薄れかけてはいるが、日本大相撲界を揺るがせた「力士の野球賭博事件」や「八百長相撲メール事件」の当時、大相撲協会の理事長を務めたのが、岩国市出身で、現役では大関を張った「魁傑將晃関」。放駒理事長その人である。

大関昇進のお祝いの引き出物に「内祝い」として配られたのが、分厚い字引だったという話が残っている。
謹厳実直を絵に描いたようなお相撲さんらしい・・・と、当時の逸話になった。
大相撲の大関昇進祝いとなれば、ひいき筋の各界の名士がお祝いに駆けつける。その内祝いといえば、我々素人考えでも華美や豪華さを旨としそうである。ところが、その正反対であったところに魁傑関らしい人柄がにじんでいるように思う。

あの大揺れに揺れた理事長時代、親方や現役力士を大量に相撲界から追放するという一大事の責任者の立場は如何ばかりであったろう。
そんな心労が重なったのか、などと簡単には言えないが、66歳という若さで急ぎすぎの感を残したまま亡くなった。
岩国出身と言っても、「あのお店が魁傑のお母さんがやっているんよ・・・」といった程度の、特に何のかかわりがあったわけではないが、如何にも素朴な田舎町出身という、ふるさと力士らしい礼儀正しさを感じるお相撲さんではあった。

大相撲5月場所も明日で終わる。口の悪い人は「大相撲モンゴル場所」と陰口をたたく3横綱そろってモンゴル出身。
もっとも、強いのだから仕方がない。彼らに対抗できる強い日本人力士が出てこないだけのこと。
そんな相撲界ではあるが、もとをただせば神様に奉納する、言うなれば芸能の一つであったことを思い出してみたい。
いまさら何を、と笑われるかもしれないが、神事であったという事実は曲げられない。

だからどうなんだ、という話になるが、今や神事であった昔は忘れ去られ、勝ちさえすれば称えられる。
自分が勝ったことは明らかで、土俵の外に出ている相手を、さらに一突き土俵下に落とす。そんな横綱の意地汚さ。
たとえ勝負に徹する世界ではあっても、人格・品格など無視しては、かつての神事が嘆くだろう。

こんな現状を、「休場は試合放棄と同じ」という信念で、現役937場所皆勤で終えた魁傑関、放駒親方に感想を求めたかった。
まあ所詮ないものねだりの勝手思考と笑われるのが落ちかもしれない。落ちないのがお相撲さんの本当の強さではあるのだが。
本当の強さとはなんじゃろう。この世の中に、本当の強さ・うその強さなどあるものか。いつの世も勝てば官軍・・・かな。

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「ひと安心!!」

2014年05月20日 | つれづれ噺

       
                       真白い見事な花を付けた、ヤマボウシ

友の入院を見舞った。
冷やかしに行くつもりで出かけたのに、地元を代表する大病院の玄関を入ったとたんに少し気持ちが変わった。
どう変わったのか。自分でもよくは分からないが、何かしら少し気持ちが重くなっていた。
前日の電話で話した内容が、こちらの気持ちの中に引っかかるものを感じたのかもしれない。

「術後の3日間、痛さと重苦しさで死ぬ思いをしたよ・・・」という彼の言葉は、いくら能天気に冷やかし半分に出かける小生をも、いささか引き気味にするに十分なインパクトがあった。
それでも、ここでしばしの間笑いながらしゃべることに意義を求めて気を取り直した、というのが正直な心境。
今一つは、誰かを誘って連れ立って来ればよかった、という反省も少しあった。
でもねー、いくら親しい友とはいえ「入院しとるよ・・・」と吹聴するのは如何なものか?彼の心境や如何に?
こんな思いもあって、取り敢えず様子を見て、これなら他の同級生に言っても大丈夫と判断したら皆を集めよう・・・などとあれこれ思いをめぐらせた。

案ずるより産むがやすし。相変わらず飄々とした彼ではあったが、痛みや苦しさを乗り越えた元気な顔が「またお前さんが来たか・・・」と言わんばかりに、笑顔半分で迎えてくれた姿に先ずはひと安心!!
あとはもういつも通り。病気をさかなに大話をして帰った。主治医から「退院もそう遠くはない」という言葉をもらったと喜んでいた。

仲間内では、彼が唯一の現役仕事人である。世間一般がお客さんである彼にとって、長期入院はなんとしても避けたいところ。その気持ちは十分にわかる。「心配するな、オレがアータの代わりに仕事をしておこう・・・」などと口では大きなことを言って笑わせてはいるが、とてもとても素人に代理が務まるような生易しい仕事ではない。
「早く元気になって復帰しないとお客がそっぽを向くぜ」などと脅し半分で、一日も早く元気になることを毒づいて帰った。

行くときの気持ちの重さはどこへやら、帰りはなんかしら気分が軽くなった。
また近いうちに「快気祝い」と銘打ったビアパーティでもやろうと言ったら、彼も苦笑いをしていた。
決して嫌いではない彼。時期やよし、うまいビールを呑める日が早く来ることを願おう。

ヤマボウシの白い花が、二人の会話を笑って聞いていたのかな。

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「五月いろいろ」

2014年05月18日 | 季節の移ろい・出来事

            

気が付けば早5月も半ばを過ぎた。
あれこれ年度替わりの行事に追われたり、間もなく1歳の誕生日を迎える孫娘にペースを乱されたりのここ数週間。
実際に忙しかったのか、楽しみながら日を過ごしたのか、はたまた自らに宿題を投げかけて時間に追われたのか・・・。

畑の作業も草との闘いがあったり、成長したジャガイモやトマトにしっかり土寄せをしてやらないと、風に倒されたり、ひ弱になったりする。キューりももちろん根っこの周りを盛り上げた土で固めてやり、オロ木を立てるのもこの時期の仕事。
「花すだれ」という表現でかつて喜んでいただいたことのある琉球朝顔も、伸びる早さに合わせてネットを貼ってやらねば。

今一つ、この時期恒例の梅の木の下刈りも、流れる汗をものともせず、腕が苦る思いをこらえて草刈り機を駆使する。
高くせずに横に這わせた低い梅の木の下刈りは、這いずり回るいう表現が似合うほどの重労働である。
そんな中あれこれの合間を縫って、調子のいいカープが試合をするとなると何はおいても、テレビ桟敷の応援も欠かさない。

              “ トルコ桔梗 あまた咲くべき つぼみ持ち ”

紫色の清楚なトルjコ桔梗にしばしの憩いを求めて、また次なるあれこれへ・・・。
そういえば、あれだけ咲き誇ったスナックエンドウやグリンピースの花が終わりを告げて久しい。
代わりにジャガイモの小さな紫が顔を出している。ボヤッとしていたら何もかも置いて行かれそうな時間の速さ。少しの焦りを禁じ得ない。

そんな盛り上がりを見せる自然界とは裏腹に、「行ってくるよ・・・ 顔を見せるのは1週間先でいいよ、来なくてもいいよ・・・」と悪態つきながら友が入院した。
元気に退院して来るのを待って、「快気祝いだ」「タケノコ反省会だ」と、またビアガーデンのジョッキを傾けることになるのだろうが、やはり淋しい気持ちにさせられる。週が明けたら冷やかしに病室を訪れよう。

病室を訪れ、見舞いができるのはまだいい。
体調を崩したまま施設に入っていた友があっけなく黄泉路を越えた。次の同窓会までには間があるので、一度見舞いに行こうかなと思わないではなかった。
しかしためらいが大きく実現しないまま、お線香だけ手向けることになった。
今にして思えば、こちらの元気さをひけらかすことになり兼ねない施設への見舞いは、行かなかったことで彼への思い遣りを通したことになるのだろう、と思う。 よく頑張ったねーというべきか、思いは複雑。

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「さみだれの・・・」

2014年05月12日 | 季節の移ろい・出来事

            
             久し振りの雨が、火鉢の水がめに間断なく波紋を広げている

スイカやトマト・キューりなど、孫のおやつにもってこいの夏野菜。苗を植えてからおよそ1ヶ月。
例年にない寒暖の差が激しく、いつまでも霜注意報などの冷え込みがあったりして心配はしたが、その割には苗の成長が順調でホッとしている。
ところがここにきて、雨が少ないことで苗たちは水を求めて喘ぎ始めていた。
そんな折、ありがたい五月雨という恵みの雨が大地を潤している。

途中に途切れがあったりしながらも降り続く静かな雨を「五月雨」さみだれというのは、いまさら言うまでもないが、今日の五月雨は有難いほどのまとまった雨になり、野菜も大地も大きく深呼吸しているようだ。

  五月雨に もの思ひをればほととぎす 夜深く鳴きて いづち行くらむ   紀友則

これほどに、五月雨を見ながらぼんやり物思いにふける時代もあったな~・・・と振り返ってみたくなるが、どうかするとそれさえも少し億劫になってくるような、釈然としないものがある5月半ば。季節の変わり目という独特の雰囲気があるからなのだろうか。

さみだれ、とは今一つマイナスイメージの表現に使われることもある。
プロ野球で、いい投手に抑えられ、途切れ途切れにしかヒットを打てなかった相手チームの打線を称して「五月雨打線」などと呼んだりする。

このところのやぶにらみブログも、文字通り「五月雨ブログ」と陰口をたたかれるのかもしれない。
まあいい、ネタに事欠いて書かないなどという愚かしさ故ではない。
他用に追われて少しゆとりに欠ける日々を過ごしている・・・ ということにしておこう。

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「さらば!GW」

2014年05月07日 | 季節の移ろい・出来事

          
            5月3日に行われた、地元の花火大会

待ちに待った人も多かったであろうゴールデンウイーク。「GW」
お天気にもまあまあ恵まれたようで、予定がまるで狂ってしまうほどでもなく、人の動きを当て込んだ観光地や各種のイベント関係者を喜ばせたのであろう。

繰り返すようであるが、毎日サンデー、年がら年中GWのようなこの身ながら、やはりこの時季は人並みにあれこれ出かけることもあったり、孫たちにせがまれて重い腰を上げる場面も出てくる。逆に孫の休日を当て込んで、ジジに付き合わせることもある。
ひとつ言えるのは、なにもこんな人が動き回り混雑する中に出かけなくても、曜日も関係なし、ゆったりのんびり人の少ないときに出かけたい・・・と思うことはある。

ところが、孫たちと一緒の行動となればはそうはいかない。今でなければ、今日行かなければならない事柄ばかりである。
山の上の神社でのお神楽見物。花火大会見物。帰ってくる子たちの都合に合わせてBBQを二回に分けて・・・。

孫たちも成長とともに少しずつ離れていく。中学2年の兄ちゃんは完全に中学校に取られてしまった。三男君は幼稚園はお休みなのだが、母親の働く介護施設付属の保育所に預けられる。残るは小6のカー君だけ。彼も、今までのようにはいかない。爺ちゃんからの誘いも、半分迷惑ながらこれまでのいきさつ上がまんして付き合ってくれることもある。

そんなこんなゴールデンウイークも終った。
いよいよ今年の後半に入って行くのか、といった気持ち改まる思いがする。現役をはるか前にリタイヤした者のセリフではないかもしれないが、世の中の動きの大きな節目となるGWを境に、自身の気持ちの中でも少なからず期するものがあるような。

ま、取り立てて言うほどでもないが、ダーダーになりがちな生活の中で、何かをきっかけに気持ちを新たにして、新たな目標を作ろうか・・・といった程度のことである。
そんな意味から “ さらば ゴールデンウイーク ” かな。

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「竹の秋」

2014年05月05日 | 季節の移ろい・出来事

                    

窓の向こうに広がる雑木林。ふもとには茶色の竹林が葉を落とし始めている。
かつてアオサギが巣を架け、子育ての難しさを目の前に見せてくれたあの里山。
これから新しく若竹が育ち、天を衝くがごとく青々と伸びる竹林も、今は年老いた古い竹が世代交代を待っているかのようだ。

そういえば「竹の秋」という言葉をふと思い出した。成長した竹が落葉する様を言う。
季節的には、4月の総称として使われ、季語は春となっている。
暦の上では早くも「立夏」。春の話題となる竹の秋はもう手遅れかもしれない、と思いながらも日本語には季節を表すのに粋な言葉があるものだと、改めて感心しながらしたためている。

椎の木や樫の木など、黄緑色の盛り上がるような新緑のもとで、少し勢いに欠ける竹林の茶色が目立っている。
タケノコはここ1ヶ月ばかりが旬の食べ物として重宝された。その一方で、あの竹林をなす古い竹から生まれたタケノコが脚光を浴びるころ、親竹は凋落の秋を迎え、葉を落とし、新たな装いを強いられているのである。
自然の営みとはいえ、新旧交代、世代交代の現実は待ったなしという姿を見せつけられる思いがする。

私たちが、友の恩恵にあずかって年に1度行う藪の中のクラス会。
この時は、頭を出したタケノコは先ず掘ってお土産にもらって帰る。
そんな中でも、竹藪の持ち主君が「これは掘らないで・・・」と何本か残すタケノコがある。
これは成長させて、来年のタケノコの親となる竹を残して藪を守るための、長年の知恵である。

直径2mくらいの陽だまりがいくつかできるように、竹を間引いたり、新たに伸ばしたり・・・そんなテクニックを駆使してこそ、いい竹が育ち、おいしいタケノコが頂けるのである。

山の木々が葉を落とすのは文字通り秋という季節の風物詩。
ならば竹にとっては、葉を落とす今の季節が秋に相当する。つまり「竹の秋」。ウ~ンなるほど。
そんなことはいまさら言うまでもないことなのであろうが、日に日に動く山の姿を見ると、何か感じるものがある立夏ではある。

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