玄関わきの小さな庭に、普段はひっそりとたたずんでいるマンリョウ。
今年に限っては「ひっそり」どころか、真紅の真珠を思わせる真っ赤な実を無数に付けて、その艶やかさを大いにアピールしている。
まさに完熟。これまでに見たこともないほどの、それはそれは見事な多くの実を付けた。
まだこれほどまでに実りきらない昨年末、異様なほどの実の付けように「吉兆のしるしか」と思い急ぎ宝くじを買った。
だが、この予感は見事に外れ。タカラクジからタの字を取った哀れな結果が待っているだけであった。
いまさら「吉兆のしるし」とは思わないまでも、今を盛りの完熟マンリョウに何かを託してみたくなる。
「完熟」とは、「果実または種子が十分熟し、内容も充実した状態になること」と、広辞苑にある。
では、完熟の後には何が待っているのだろう。
マンリョウの場合、この周りを縄張りとするヒヨドリ夫婦の、豪華な食事の予定に組み込まれているのだろう。
貪欲なまでに食欲旺盛なこのヒヨドリ夫婦は、早くも我が家のクロガネモチの実を完全に平らげた。次なるは南天の実を目下ついばんでいる。
間違いなく、近日中にやってきて、あの豊富なマンリョウを1日か2日で食べつくしてしまうに違いない。
考えてみれば、マンリョウもせっかくこうして見事な実りを見せたのだ。己の行きつくところは十分承知しているのであろう。
お腹を空かしたヒヨドリに思いっきり食べられることで、今年の実の役目を終える。また春には花を咲かせ、冬には実を付ける。
そうして1年ごとに自らの実を与えることで小鳥たちの命をつなぎとめてやっているのだ。
今一つは、完熟の実を腹いっぱいに食べたヒヨドリは、あっちこっちでマンリョウのタネをまき散らす。そうして、マンリョウは至る所に芽を出し、子孫を反映させていくのである、
こんなことは誰にも判っている自然の摂理である。何の不思議もない。
ところが、人間はどうなるんだろう、とちょっとだけ気にかかる。
人間には完熟期というのが訪れるのだろうか。いつを完熟というのだろう。
あまり小難しいことを考えず、今を精一杯生きることしかなさそうである。
完全に熟して灰になるのか、熟さないまま灰になるのか。自分の知らぬところで、誰かが判断してくれるのだろう。