「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「今こそ別れめ・・・」

2017年02月28日 | つれづれ噺

                                           

早くも2月の最終日。如月つごもりを迎えた。
厳しい冬の寒さを何とかやり過ごすために、葉を落とし一旦は枯れたように見せかけていた草木が、春に向かって更生し新芽を吹く2月。
そんな意味から「きさらぎ」と呼ばれているが、その2月も今日でおしまい。明日から弥生3月となる。

そんな今日、母校の高校で、明日の卒業式を控えた高校卒業生252人の、同窓会入会式が行われた。
一応同窓会役員をさせてもらっていることから、「同窓会入会歓迎の挨拶を」という依頼があったのが2週間前。
本来これは同窓会長のお役目であるが、今回は会長が他用に追われて出席が叶わず、会長代理ということでご指名があった、と言う次第。

壇上で与えられる時間はせいぜい6・7分。希望に満ちているであろう高校3年生との初顔合わせ。
何を話そうか、出来れば激励の言葉がいいな。人生の先輩としての体験を織り交ぜた教訓話か?
いや教訓を与えられるほどの生き方もしていない。じゃあどうする思案六法。
あれこれ思惑を巡らせ考えに考えた。飽きさせないよう短い時間に合わせたインパクトのある内容を・・・。

あらかじめ書いておいた原稿通り、言いたいことは全て言ったつもり。体験も交えたつもり。
先ず先ずの出来栄えで結果オーライであった・・・と、他人に厳しく自分に甘い評価をしておこう。
この頃の卒業式では「仰げば尊し」も「蛍の光」もない。ないない尽くしで何もない。

これじゃいけんと言う思いを込めて、昨年の話題をさらった広島東洋カープ黒田博樹元投手の、「引き際の男の美学」みたいなことを、yattaro-流にアレンジして若い後輩に贈った。『感謝』という二文字を中心に展開させてみた。
感謝があれば『恩返し』はつきものである・・・と言ったようなことだったかな。

一人で大きくなったわけじゃない。一人で賢くなったわけじゃない。そこには多くの感謝すべき人や物の力があるということ。
あまり多くを述べるとよそ見をし始める。そこまでいかないうちに、少しの余韻を残して終わる。
これが理想であることは百も承知だが、果たしてそれが出来たかどうか、天が評価すだろう。

 

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「ウメの見ごろが・・・」

2017年02月26日 | つれづれ噺

         

「耐雪梅花麗」
これは、あの広島東洋カープ優勝の感動をもたらした中心人物、黒田博樹元投手の座右の銘である。
「風雪に耐えねば咲かぬ梅の花」という言葉もある通り、寒い冬が絶頂期を迎えるころに、他の花に先駆けて麗しい花を見せてくれる。

2月も最後の日曜日となった今日、片道60kmを走って「冠公園梅まつり」に出かけるつもりでいた。
ところが朝食の最中に、「お父さん、給湯器のリモコンに変な表示が出ておかしいよ」とカミさんが訴える。
今まで見たことのない表示が点滅していて、給湯器そのものの様子がおかしい。

「な~に、すぐに治るよ」てな調子で、先ずはドレン抜き作業をマニュアル通りにやってのける。
「ン??」何も変わらず、修復された様子がない。今一度点滅の記号番号を確かめ、取説で調べてみるが、どこをどう探してもそんな記号番号の異常の説明がない。ネットを開いて検索。あるにはあった。これまでに何人かが同じ経験をしているようだった。

先ずは「三方弁」の劣化による不具合ではないか・・・と。要するにこの状態は、メーカーによる点検か部品取替えしかないことが判った。
取り付け業者を通してメーカー担当に連絡。そんなこんなをして結局広島から、パナソニック担当修理がやって来た。
「三方弁だけではなく基盤の交換も必要です」ということに。出張手当や修理工事代、部品価格などひっくるめて「37700円頂きます」と。梅まつり散策などの優雅さは吹っ飛んで、顔色が悪くなるほどの突然の大出費。ア~~ア。午後3時修理完了。

悔やんでも仕方ない。これが経年劣化という、電気器具などが歳を取っていくという避けて通れない現象の最たるものである。
経年劣化は何も電気器具などだけではありませぬぞ、ご同輩。

ということで、梅まつりを止む無くキャンセル。今年は梅見とは縁がないかな・・・
と思ったら、何年か前に隣の空き地に投げておいた梅が目を出し、1.5mにまで成長していて今年初めて白い花を咲かせた。
オッ!こりゃぁいい。隣の空き地が梅の木で埋まる時が来るじゃろう、などと花咲か爺の夢でもみようか。

小さな梅の木は20本近く生えている。突然の出費と梅まつりキャンセルは痛かったが、思いがけない地生えの梅が花見をさせてくれた。
世の中まんざらつまらんことばかりではない。それにしても、言いなりに払う修理費はイタイな~。


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「立志式」

2017年02月22日 | つれづれ噺

                          

数え年15歳を迎える中学2年生が、地域の人たちからお祝いされる「立志式」があちこちで行われている。
孫三兄弟の2番目「カー君」もすでに中学2年生。地域の青少年健全育成団体が行う立志式に参列した。
平安の昔から存在し、形や様子を変えながら今も脈々と息づいている儀式の一つである。

今さら言うまでもなく、その昔は「元服」と呼ばれ、12歳から17歳くらいまで幅広い年齢を対象に、その家の家格や身分に応じて、さまざまに行われていたらしい。
「元」は首とか頭(かしら)と言う意味を持ち、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味合いから。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われるのだそうな。

要するに、頭に冠を戴き、衣服を改めることによって、いわゆる成人と見なし、大人の仲間入りをする資格を与えられる。
それは、家督を継ぐ権利も義務も生じるという、責任重大な側面も持っている。

それに引き換え、今の数え年15歳の中学2年生に、それほどに重大な責務を負わせるのは、なんだか酷だな~と思えて仕方がない。
それほどの指導も教育もなされていない彼らは、まだまだ「コドモ」という粋を出ていないように見える。
それは、自分の満14歳の時を思い返しても全く同じで、自分の身を立てる夢や希望を確立していたか?と問われればノーである。

そうは言いながら、立志式に臨んでひとり一人の思いを発表させると、現代の若者らしく、それぞれに高き理想に燃えた夢を語ってくれる。
たとえそれが「頭でっかち」の、足が地に着いていない夢ではあっても、多種多様な職業のオンパレードが展開されている。
そんな中に一人だけ、「自分はまだ夢ややりたいことが決まっていない。今から色んなことを学んで目標を見つけたい」と正直な気持ちを吐露した子もいた。頼もしい。拍手を贈りたかった。

ちなみにカー君は「僕の将来の夢はカーレーサーです。そのための勉強を始めたい」であった。
実現可能かどうか別として、今の年齢で夢をみたり、あこがれたりすることは、極めて健康的なことなのであろう。
この子らが成長した暁にはどんな姿を見せてくれるのだろう。

立志式というような会場に出向いて、主役の生の声に耳を傾けるって楽しいな~ などと一人悦に入っている。

 

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「感激の優勝カップ」

2017年02月20日 | 家族・孫話

             

婿殿にとって、手塩にかけた長南君はすでに高校生。スキーの腕も上げて、インターハイだ国体だとあちこち飛び回っている。
お父さんの手の届かないところに行ってしまった。
手元にいる次男と三男君も、兄ちゃん同様のスキー上達を楽しみに、今シーズンも随分とスキー場に通ったようだ。

元々次男君は、体育会系ではない性格もあって、人を押しのけてまで前に出るタイプではない。
そういう意味では、スキーに行くのも自分の趣味の範囲内で、そこで出会った友と仲良くなるのは得意だが、競技には向いていない。
そこへいくと三男坊は、兄ちゃん以上の闘志と負けず嫌いの持ち主である。

兄ちゃんに次ぐお父さんの期待の星の三男坊であるが、本人はスキーはもちろん楽しいが、野球はもっと楽しいというタイプ。
野球のシーズンオフの今、足腰を鍛えるには絶好のスキーに出かけている。
昨シーズンも幼児の部で何度も1位になってはいたが、兄ちゃんたちのような大きな賞状や、優勝カップを手にすることはなかった。

今年はもう小学生。スキー場によっては完全に「小学低学年の部」というレースを設定するところがかなりある。
そこで、一昨日日曜日の大会で1・2年生対象の小学低学年の部で、2年生を抑えて見事に優勝した、という。
「琴引フォレストパーク」と言うスキー場の思い遣りとでも言おうか、賞状の大きさもカップの大きさも、一般と変わらない大きなもので、悠雅君としてはこんな優勝カップが 欲しくてほしくてたまらなかっただけに、ご満悦至極。

昨日日曜日は、朝早くに電話で「早く見に来て・・・」と催促。じいちゃんばあちゃんに早く賞状とカップを見せたくてたまらん様子。
少し間をあけて「まだ来られん?」と再び催促。ここまで責められると仕方がない。取り敢えず家に行って話を聞くことに。
まあハイテンションで、競技の一部始終を詳細に話してくれる。「オレ、こんなカップが欲しかったんよ」。鼻息荒い。

写真を撮るのを嫌う我がまま三男坊が、昨日はさっさと日の当たる場所に出てポーズをとる。
「孫ニュース書いてくれるじゃろ?」と珍しいことを言う。
「じいちゃんは、スキーも応援するが野球はもっともっと応援するよ」とくぎを刺すと、すかさず「オレ、やっぱり野球やりたい」と。
お父さんはお疲れでまだ眠っていたからいいようなものの、ジジと孫の本音の会話をしてしもうた。

 

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「嗚呼、巨匠逝く」

2017年02月18日 | ニュース・世相

                   

また一人、あこがれにあこがれた作曲家がこの世を去った。船村徹84歳。少し早い旅立ち。惜しい!悲しい!!
また一つ、昭和が遠くなっていく淋しい思いが胸に迫る。

遠い遠い昔話になるが、オタマジャクシもろくに読めない田舎の少年が「この人の弟子になりたい」と思い込んで、胸をときめかせたのが、誰あろう船村徹、その人である。たとえいっときの夢であったにせよ、かなり切羽詰まる衝動に押され、本気で東京行きを考えたこともある。
それは、単なる演歌にあこがれただけではない。「この人なら」というれっきとした自分なりの理由があったのだと、今も思っている。

  ♪♪ 泣けた泣けた こらえきれずに泣けたっけ あの娘と別れた哀しさに

        山のかけすも鳴いていた 一本杉の 石の地蔵さんのよ 村はずれ ♪

    『 別れの一本杉 」 作詞 高野公男  作曲 船村 徹

あの名曲「別れの一本杉」が大ヒットした昭和30年はまだ中学2年生。別れの哀しさも理解できない年頃ではあった。
それでも、「何かしらいい歌だな~ 心に響くな~」などと感じてはいた。
それから間もなくして、この歌の作詞をした高野公男さんが亡くなったというニュースも、ちゃんと耳に覚えがある。
その後数年たっても、船村徹さんは「高野君ともっと仕事がしたかった……」と言いながら、必ず涙を流す場面を何度も見た。

そんな時、やはりこの船村徹と言う演歌作曲家は、日本人の琴線に触れる名曲を次から次に生み出す最高の作曲家であるのはもちろんだが、心の奥底に、人を愛する優しさも切なさもを持っている、人間らしい人、という確信を持った。
若かったとは言え「親に内緒で家出をしてでも東京に行きたい」と考えたとき、師匠に船村徹さんを選んだことは間違いなかった。といまさらながら思い出して、下を向いて苦笑することもある。

美空ひばりさんに歌わせる歌の作曲は、自分の中で「ひばりと格闘する気持」で五線譜を操るという、超一流の歌手に超一流の曲を提供しようとする作曲家の「魂」みたいなものを感じさせる一人であった。

これからしばらくは、歌謡番組は全てと言っていいほど、「船村作品特集」を掲げるに違いない。
胸に刻んだ数々の名曲を思い出しながら、船村徹の世界を改めて観賞したい。 
「柿の木坂の家」もいい。「紅とんぼ」・「女の港」・「みだれ髪」・・・みんないい。

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「ウメもアヤメも満開を迎えて」

2017年02月16日 | 季節の移ろい・出来事

                 

春立つ日からおよそ2週間。
時を得て、庭の小さな小さな梅の木も満開を迎えた。
昔日の活躍を物語る石臼の周りに群生する寒アヤメも、これまた時を違えず満開を迎えた。時折の温かい日差しは春到来を思わせる。

このように時節到来を告げる花は今を盛りと咲いているというのに。
ここ数日、花に浮かれる気持ちも今一歩。暖かな日差しに春を感じるのも今一歩の日々を送って来た。
自らの鼻洗いアレルギーによる、高熱発生の後遺症もまるっきり関係ないとは言わないが、そんなものは小さな小さな問題である。
というほどの、少し深刻な問題と向き合ってきた。

近くに住む小生より4つ上の姉の胸部に、「よからぬ病原が見つかった」と知らされたのは昨年の暮れ。
「まだまだ初期段階で、完全除去すれば先ず大丈夫。転移の可能性も十分検査します」と説明された上で、「片方の乳房完全除去」という
手術の実施に踏み切るか、現状維持で経過を観察するか。という重大な選択肢を突きつけられた。
但し現状維持・経過観察を選択した場合、早ければ1年、遅くとも3年のうちには必ずがん細胞の発育がみられるはずだ、と言う話。

決断を下すのは姉自身である。が、身元引受人の小生にも、姉が正しい方向に決断を下すよう見守る責任はある。
よくよく医師の話を説明し、何度も相談して、ついに今日その決断の結果として、手術台に乗った。
早期発見早期治療に決断を下した姉に、心の中で拍手喝さいを贈りながら、手術の進行を待った。

2時間10分御。「はい、無事に終わりました」との執刀医師の明るい声に、大きく大きく、ホ~~~。
自然に笑みがこぼれる。「これで当面の鬼門を脱した」という安堵感があふれる。
腋の下リンパの細胞検査という課題が残ってはいるが、医師の言葉を信じて気持ちを楽に過ごさせてやりたい。

こういった病に侵されないように生きては来た。でも結果として病に取り付かれたということ。
ならばもう闘うしかない。嘆いても下を向いていても、逃げを打っても仕方がない。ひたすら医師を信頼し、自分の生命力を頼りに病に立ち向かう。あらん限りの抵抗を『試みて闘う。これしか他に手はない。
そんな小生の気持ちが、姉に伝わっていたのだろうか。良き決断をして、寿命を自ら伸ばしたことに、やはり拍手である。

ただ、女性にとっての大切な身体の一部を切除する勇気。男の私には分からない部分でゴリ押しはなかったろうか、気がかりは残る。
あれこれ考えると難しい選択であることに変わりはない。だとすれば、兎に角『命』を大切にする選択こそが最良だと思いたい。

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「真相!オニのカクラン」

2017年02月14日 | 季節の移ろい・出来事

                                            

昨日13日も、蓄膿症治療のため耳鼻科へ行き、医師の診察を受けた後、鼻を洗って帰った。
案の定、3日前の10日土曜日と同じように、夕方にはひどい悪寒に襲われ、高熱が出始めた。体中の節々がきしんでくる。
昨日の場合は、あらかじめ医師から「もしも前回と同じ症状が出たらこの薬を飲んでください、特別に出しておきます」と頓服薬を処方されていたのを直ちに飲んで寝た。

先日の、娘が買ってきた市販の薬の方が確かな効き目ではあったが、今回の頓服薬でジワーっと熱は下がって、今日は先ず先ず普通通り。
早い話が、耳鼻科の医師には「鼻洗い」で使用する薬品にはアレルギー反応する人間がいることは解っていたのである。
でも初診から6週間を経ているのに、そんな説明は全く聞いていなかった。その上私自身も、初診から6週目に至るまではアレルギー反応は出なかった。だから安心してもいた。

ところが6週目を迎えた途端に、理由もないのに高熱が出たことを、医師診察の前に問診に来た看護士に詳細に話した。
そしたら「鼻を洗った日ですね」と看護士は何やら、鼻洗いと高熱の関連を示唆するようなことを言った。
そのあとの診察で初めて、医師の口から「たま~~にアレルギー反応を示す人がいる」ことを聞かされた。そして「今日もう一回鼻を洗って、3日前と同じ症状になったこの薬を飲んでください」ということで頓服薬を処方されたという顛末。

こちらは何が何だか分からないまま、自然発生の高熱に悩まされ、インフルエンザか?と脅されて、ひどい目に遭った。
オニのカクランなどと笑っていたが、犯人を捕らえてみれば……治療に専念した蓄膿症の鼻洗い。とはねー。
今後鼻洗いという治療をせずに、蓄膿症の完治を狙うわけだが、果たしてどうなるんじゃろう。

次は来週月曜日、医師との面談診察を仰ぐ。その時は少し厳しい話になるかもしれんな~。
とはいっても、こっちも最初っからアレルギー反応を示していれば即治療方法の変更がなされたのかもしれん。
その辺の複雑ないきさつを踏まえながら「鼻洗いとアレルギー反応」について、医師にアドバイスしてみるかな~。

どっちにしても、たかが蓄膿症の鼻洗いというフツーの治療で、これほど苦労するアレルギー反応者がいることを、お知り置き願いたいものである。

 

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「オニのカクラン」

2017年02月12日 | 季節の移ろい・出来事

                                   
                                         風雪に耐えながら、早くもほころぶ梅の花、吉香公園内

あの日米通算203勝を挙げた、元プロ野球広島カープの黒田博樹投手の座右の銘で知られた、風雪に耐えて咲く梅の花の美しさ。
我が家の小さな八重の梅もほぼ満開となった今、吉香公園ロープウエー山麓駅周辺も、満開に近い紅梅がいい匂いを放っている。
まだまだ風雪はしばらく続きそうではあるが、花や木の躍動する命は、確実な春を感じ取っているということだろうか。

文字通り吹雪の中で戦った、インターハイ初出場の孫兄ちゃんは、風雪には耐えたのだが、残念ながら花開くまでには至らなかった。
北海道・東北・北陸、これら雪国の選手と相まみえるインターハイ。甘くないことなど百も承知ではあったが、その通りの結果であった。
ただまあ、これが終わりではない。国体という舞台も目前に控えている。

今回の順位が今の実力なら、それから1秒でも2秒でも上を目指して、ベストパフォーマンスに挑むだけである。
想像を絶するほどの吹雪にもめげず、果敢に100分の1秒の世界に突き進む姿を、ジジとしても応援に駆け付け現場で声援を贈ってやりたい気持ちは当然ある。が、どうかすると暑いのはある程度抵抗力を持っているが、寒さはダメだ。気持だけで許してもらうしかない。

応援に現場に行くどころか、何かの拍子に悪寒がしてきたと思ったら、一気に体中が震えるほどの寒さに襲われた。
我が家の畳の上でそうなったのだからまだよかった。すぐに熱い甘酒をフーフー。コタツに潜り込んでなんとか震えは止まった。
体全体がギシギシ痛む。滅多に測らない体温を一応測ってみた。なんと今まで見たことも無い38度6分という高熱。
それでなくても平熱35.5~36度の低体温の持ち主。こりゃどこか壊れたかな、と少し開き直った。

金曜日の夜とあって、明日・明後日は掛かりつけ医は休み。国立医療センターに駆け込むしかないか・・・。
先ずは看護士の娘に容態を説明。「インフルエンザかも」兎に角投薬を、と薬局へ走ってくれた。
早速服用して体を温め9時には就寝。翌朝8時まで爆睡。寒気も節々の痛みもない、喉の痛みも頭痛もない。
けろっと起き上がってフツーの食事。あとはもうバリバリ。これを『オニのカクラン」という。

何はともあれ、我が家で家族の手助けがあったからよかったものの、遠く雪国の旅先でこんなことになったら、クワバラクワバラ。
兄ちゃん、こんな調子だからジジの現場での応援は無理じゃが、日ごろ鍛えられた力を存分に発揮してくれたらそれで満足だからね。
ということにしておこう。

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「お裾分け」

2017年02月07日 | 晴耕雨読

                         
         巻きそこなったキャベツや、白菜をむさぼるヒヨの群れ

ピーピー甲高い声を発しながら、低空飛行で木から木へ。主に木の実を探すヒヨドリは、つがいで行動するものと思い込んでいた。
しかも一組のつがいには、それぞれに縄張りがあって、冒したり冒されそうになると、それはそれはし烈な闘いが始まる。
そんな様子を何度も見て来ただけに、このたびのような、ヒヨが20羽近い集団で行動するすることに先ず驚いた。
その上に、枝から枝へ渡って木の実をあさるのではなく、地上に降りて仲良くキャベツや白菜の葉っぱを食い散らすとは。

家庭菜園のレパートリーを広げようと一念発起。白菜とキャベツ作りに初めて挑戦したのが昨年8月の終わりごろ。
種まきではなく、出来合いの苗を買って、白菜とキャベツそれぞれ10本ずつを植えた。
初めてのこととあって、防虫ネットや肥しなど念を入れて手入れをし、大事に育てた。
ああそれなのに、よそ様に比べるとなんとも貧弱。その上に虫がいっぱい付き始めた。

事前に虫退治や土の消毒などがうまく行っていなかった。つまり畑作りがまずかったということ。
虫が付き始めても、農薬や消毒液を使わないまま頑張ってみた。益々虫ははびこる。カミさんは畑に出てワリバシで虫を捕るのが日課になった。本来なら、家手作りの白菜やキャベツに、「買わなくてすんだ」と感謝される姿を夢見たのに、「虫が夢に出てくる」とひんしゅくを買った。それでも虫退治に精出したお陰で、白菜は6本、キャベツは7本が、ちゃんと巻き込んだいい仕上がりで食卓に乗った。

他は、虫の餌食となったり、巻きそこなったキャベツは哀れにも、ヒヨのビタミン源として格好の標的になった。
そうして、お天気がいい日には、小さな畑を覆うほどのヒヨの群れが地上に降りて、葉っぱを食い散らかしている。
そんな様子を孫君が見たら、すっ飛んで行って追い払うに違いないが、こちらにはそんな馬力もない。

というか、ヒヨもこの寒さの中、思うように餌にありつけんのじゃろう、じゃったら俺たちの食った残りをお裾分けしてやろう。
存分に食うがいい。その代り、大事に育てているスナックエンドウの芽などは食うなよ、と言って聞かせるのだが、果たして聞いてくれるんじゃろうか。鳥にも耳はあるのかねー。聞き分けが出来ないなら、せめてその鋭い眼で標的を見分けてほしいのだが。

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「春立つ日」

2017年02月04日 | 季節の移ろい・出来事

                        
  改装なった下松市笠戸島、国民宿舎「大城(おおじょう)」から瀬戸内海を一望     長岡外史、肖像。

節分から一夜明けていよいよ立春。「春立つ日」がやって来た。心浮き立つ心地がする。
土曜日という時の利を得て、各地で大掛かりな催しが予定されていた。
それを見越すようにというか、春立つ日を絵に描いたら、こんないいお天気になるのか、と言うような、近頃まれにみる絶好のお日和。
各種イベントの主催者や実行委員長は、安堵の胸を撫で下ろしたであろう。参加者も心置きなく春立つ日を満喫したに違いない。

こちらも、珍しく風ひとつないポカポカ陽気に誘われて、行き当たりばったりのドライブに。
もちろん、耳鼻科治療という朝イチのノルマだけは消化して。
これまでも何度か行ったことのある笠戸島「大城」が、リニューアルオープンして間もないことを思い出して、取り敢えずそちらへ。

出発が遅かったせいもあって、「ランチは1時間30分以上お待ち頂くことになります」と。
そのまま待てばランチが終わるのは午後3時近くになる。直ちに諦めた。
瀬戸内海の穏やかな入江の風景を堪能しながら、コーヒーと軽い食事を満喫。
ひと昔前まではいつ行ったって、家族連れの集団ランチさえも自由にできていたというのに。目ざといランチファンの多いことだ。

建物を見下ろすように、丘の上に立っている、ご当地出身の「長岡外史」像まで足を延ばした。
長岡外史は、明治・大正・昭和を生きた軍人であり、後に飛行機の開発に努力したと記されていた。
今ひとつ、ドイツに派遣された折に、お隣りのオーストリアでも交友を深め、スキーの技術を日本に紹介しスキー競技を確立させた。
その功績でオーストリアから感謝の碑を贈られているとも書いてあった。

人が乗った機械が日本の空飛ぶことを考えた超人的な才能と、今、孫兄ちゃんが血道をあげているスキーを日本にもたらした。
そんなロマンを持った先人が、下松の笠戸島出身とは、新たな発見があった。
やはり、陽気に誘われて気の向くまま出かけてみるのもいいものである。

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