「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「睦月つごもり・雑感」

2018年01月31日 | 季節の移ろい・出来事

           
          寒空に渇きをいやすノラ。冷たかろうが美味しそう 

あれもやらなきゃ、これも手を付けなきゃ、と「気持ちは焦れど手足は伸びず」。そんなことを考えている間に1月が終わってしまった。
ただ一つ、近いうちに仕上げたいと思う大きな目標については、かなり手繰り寄せた手ごたえを感じている。
といっても完全達成までにはまだまだ。やはり、じっくり丁寧に目を通して仕上げたいという欲の下、どうしても手間はかかる。

1月はそちらに大きく手を取られて、というか意識してそちらに多くの時間を割いた。
そのために他のあれこれが手薄になった、敢えて後回しにしたというだけの話。
そういえば、健康診断に行くのも後回しになっていることに昨日気付いた。誕生月も無事迎えたことだし、近々権利行使の健康診断は時間を作ることにしよう。どこに異常所見があっても不思議はないお年頃なのだから。

今日も寒いなー、と結露した寝室の窓を開けると、隣の空き地に住み着いたデップリ太ったノラ猫の給水タイムであった。
彼か彼女か知らないが、当然喉は渇くのだ。この寒空にどんなねぐらを持っているのか知らないが、空き地のやぶの中から出て来る。
そして、氷が張るような我が家の石臼に溜まった冷たい水を、時間をかけてゆっくり、たっぷり召し上がった。
カメラを構えても十分暇があるほどの落ち着きのある態度。フンさえ野放しにしなけりゃ可愛いのに。

などと考えたり見たり笑ったりするうちに、2月の声を聞くことになる。
月が替わればまた新たなあれこれにお尻を突っつかれる。前に進むしかない。寒さに身体は固まる一方。
身の丈に合った筋トレも忘れず、固まる身体をいたわりつつ、頭の体操・節々に体操に努めよう。

今宵また、寒の夜空に煌々と冴え渡る、まん丸いお月さまを見上げ、心落ち着けて睦月にお別れを告げよう。

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「これからも・・・」

2018年01月28日 | つれづれ噺

             

また一つ喜寿に近づいた。というか、満年齢の喜寿目前。数え年でいう、まさに喜寿を迎えさせてもらった。
「喜寿」と書くと、何かおめでたい意味でも隠されていそうであるが、実はさほど大したことではない。がっかり。
つまり「喜」の字の草体「㐂」が「七十七」と分解できるところから、 数え年の七七歳。また、喜の字の祝いのことである。

そんなことじゃなくて、喜寿を迎えてつらつら思うみるに、真っ先に頭に浮かんでくる言葉、それは唯一つ「感謝」である。
先ずは、両親に捧げたい。この歳を人並みに元気に迎えられたこと。そんな丈夫な身体を授けてくれたことへの大きな感謝である。

次に「亭主の好きな赤烏帽子」にも目立った反論もせず、時に呆れ顔を見せながらも、常に日陰のつっかい棒の役割に徹してくれた山の神に。そして子供時代から現在まで、天文学的数値とまでは行かないまでも、想像を絶するほど多くの関りをもった人たちに、喜寿を迎えたことの報告と感謝の気持ちを捧げたい。
ともすれば、「俺の人生、俺の想いのまま生きて来た」などという思い上がったご仁も少なくなかろが、小生の場合それほど傲慢ではない。

とにもかくにも後期高齢者指定を受けて丸1年。元気にやり過ごして今がある。わずかではあるが、地域活動にも精を出している。
それもこれも、根源には「人並みの元気さ」を持っていること。「もっと何かが出来るんじゃないの?」という欲があることかな。
それならなお一層、この元気・健康を保つ努力を忘れてはならない、と解ってはいるのだが、具体的な対策や方法を訊かれるとねー。

「また一つ残された時間が短くなるんだよ」という神のお告げには逆らえないので、これまでやってきたと同じように、慌てず急がず、出来ることには全力投球で、愚直にゆっくりボチボチ前に進んで行くとしよう。そう思うと、喜寿を迎えた今も少し希望が湧いてくるような。

ただ、今まで通りには出来ないかもしれない。が、これからも身体と頭が動く間は何とかしたい。欲張りかもしれないが。

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「春の使者」

2018年01月26日 | 趣味・・エッセイ

 
   NHK山口放送、情報維新やまぐちに登場した、メジロ君。

庭のサザンカにメジロが遊ぶ様子を、拙ブログにアップしたのは10日前。
メジロにとっては、サザンカの花だけでは物足りなかろうと思い立って、ミカンの輪切りを挿しておいた。
見事に大当たり。つがいのメジロが一日に数回やってきて、割と落ち着いた様子でついばんでいく。

こりゃやっぱり記念に撮ろう。シャッターを切ってみると、先ず先ずのポーズが撮れた。
どこかで誰かに見せたい、というか、見てもらいたい衝動に。よし、今一度NHKに投稿かな…と思い立った次第。

「採用させていただきます」という電話が入ったのは先週金曜日だった。
今日か明日か、ツルではないが首長に待たされること1週間。やっと今夕6時50分、オンエアー30秒。
「早春の使者」。こちらから送ったタイトルのままに放映してくれた。投稿活動は写真が本命ではないが、掲載の嬉しさに変わりはない。

放送終了と同時に3人から電話が入った。
ヨッシャー!これに気をよくして、レンズを通して観る眼を、もっと磨いてみたいものだ。

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「三人の祝賀会」

2018年01月25日 | 思い出話

                                     

むかしむかし、我が子二人が通った小学校があったげな。
そこに、とってもやり手で、ハンサムな粋な校長先生が赴任してこられたげな。
その校長先生が、今年目出度く八十八歳の米寿を迎えられたげな。
その上に、長年の教職員としての業績が認められ、天皇陛下より「瑞宝双光章」という名誉ある叙勲を受けられたげな。

そのお人柄を象徴するように、このようなダブルお目出度も「皆さんに迷惑になってはいけない」と、ごく限られたお身内だけで祝賀の宴をもたれたのじゃげな。
そんな一連を後で知った小生としては、黙っているわけにはいかない。ということで改めて、知人友人を集めて祝賀パーティを計画しようとご当人と相談したところ「な~に、こんな賞は、校長を経験して元気に八十八歳を迎えた人間には誰でも与えられるもの」だから、他人を集めてお祝いするほどの中味じゃない。お祝いパーティなど要らんよ。と、強く固辞されたのじゃった。

長いお付き合いでその人格をよーく知っているだけに、無理を押してもいいことにはならない、と判断。最低限の別な提案をして、なんとかその気になって頂いたのが「たった三人の祝賀会」となった次第。観光ホテルで昼食を囲むことにした。
それさえも、どうしても段取りは自分でして、お二人に出席をお願いするのが「私の主義」ということで、何のことはない、会費は包むものの、会場の設定、交渉などは全て主賓にお任せ。私たち二人は参加する形となった。悠然というわけにもいかず、やや肩をすぼめて。

長年の教職生活の最後の勤務先となったのが、私どもの子どもが通う小学校であった。そのときのPTA会長2代の二人がお呼ばれに預かった。昔ながらの元気ハツラツとした笑顔で、遠い昔話に花が咲く。昔と大きく異なるのは「アルコールアレルギー」になってから、ほとんどお酒をたしなまなくなったということ。私たちもホンの少々のお酒。言うなればアルコール抜き。それなのになんと昼食だけで3時間半をしゃべったことになる。但し、「女三人寄れば……」などと言うかしましさではなく、静かにゆったり流れる時間の中でのゆるやかなおしゃべりである。

遠い昔の一時期このとはいえ、叙勲を受けられるようなお方とご一緒できたこと。それを大切に胸にしまっておいて頂いていたこと。この事実にはなんとも感動を覚える。超豪華な食事を、観光ホテル一番の部屋でゆったりと。これもまた遠い思い出話と共に「命の洗濯」の効果大なるものを味わった。ガラス越しに見る目の前の錦帯橋。華やかに舞う粉雪。だがその部屋にだけは春が先乗りしていたような。

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「お節介とは」

2018年01月22日 | 地域活動

                              
                               セミナー会場ステージ       講師大阪教育大新崎教授

市社会福祉協議会の呼びかけで、「山口県地域福祉でまちづくり推進セミナー」に参加した。
この地方では珍しいボタン雪が降りしきる中、高速道を突っ走って防府市に。とは言っても自家用車ではない。
岩国市から20人近くが参加するので、市社協が準備した大型観光バスに乗り込んで、ちょっとした観光気分。

「福祉とは何か」という大きなテーマに向かって、山口県が主催し各市にに開催を割り振っている勉強会である。
テーマが大きいだけに、完全咀嚼するのには手間がかかる。主催者側は、『出来るだけ丁寧に、分かりやすく』説明を繰り返すことで、実務担当者に理解を深めてもらいたい、ということで毎年開かれている。

今年の講師は、大阪教育大学教育学部、教育協働学科 新崎国広教授。
関西人特有の人懐っこさと、まろやかな語り口で歯切れがいい。説明の一つひとつが実に耳に入りやすい。
だから、眠気が近寄るスキを与えない。そのくらい熱心に拝聴した。但し、熱心な拝聴と記憶の量が比例するか、というと残念ながらそうではない。ただ、幾つかは間違いなく耳に焼き付けて帰った部分もある。

そのうちの一つ。福祉活動の中で、両刃の剣となる恐れのある「お節介とはなんぞや」について、聞きかじりを少々。
「お節介」の語源は、「節度ある介(なかだち)をすること」である。と。この節度というのが難しい。
「お節介さんとは」、目配り・気配りが出来て、他人の困りごとを放っておけない人。つまり、ボランティア精神あふれる人をいう。介は、間に入ってなかだちをする人。両側から中のものをたすけ守る。という意味があるという。

言葉の意味も内容も、聞けば理解できる。じゃあ実践としてどこまで介入するか、どこまで押して、どこで引くのか。という現実問題に向き合うと、多くの人の知恵が必要となる。高齢化社会の喫緊の課題である。とのことも十分理解できるのだが。はてさて形式倒れにならいよう、実効を上げるために、どんな旗振りをするのだろうか。

拙ブログのカテゴリーに「おせっかい」という項目がある。同窓会の幹事を務める人間を指して付けたのだが、まあ当たらずとも遠からず。当人の価値感が判断基準になる点は、福祉も同窓会のお誘いも、ちょっと似ているね~。

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「灯台下暗し」

2018年01月20日 | 地域活動

                              

地元に二つある小学校で、1年生児童を対象とした「むかし遊び指導」を依頼された。
これは、学校と地域住民が協働することで、地域の子どもは地域と学校と保護者が一体となって育てようという「協育ネット協議会」、あるいは「コミニュティスクール」の一環事業である。それを、社会福祉協議会など地域活動団体の、青少年健全育成の柱となる活動の一つとして積極的に取り組んでいる。

読んで字の如く「きょういく」のきょうの字は、協働する、協力するの「協」であり、おしえるの「教育」ではない。
つまり、学習指導などの「教育」は、やはり学校や教師が中心となるべきで、我々は教師が教育に集中しやすい環境づくりに協力することが求められる。そんな地域活動の担い手が、我々高齢者の集まりなのである。
そんなややこしい前置きはともかくとして、地元に有り余る高齢者パワーを活用しよう。高齢者パワーを機能させようという取り組みである。

「むかし遊び」といえば、おおよそ見当はつくだろうと思いながら、話を進めて行きたいところだが。
実際に子どもたちと向き合ってみると、お父さんお母さんが忙しすぎるのか、お父さんお母さんさえこういった遊びはしてこなかったのではないか、という子どもの多さにびっくりである。

たとえばコマ回し。コマにひもを巻き付ける方法を知らない。投げ方も全く分からない。親子でこのような遊びは全くしたことがない様子がうかがえる。お手玉、あやとり、竹馬、竹ぼっくり、竹トンボの飛ばし方、などなど。みんな似たようなもので、初めて触れる子がほとんど。しかし、テレビゲームやスリーDSなどといった最新ゲーム機の扱いは、こちらがちんぷんかんぷん。言って見ればお互いさまというところか。

兎に角、懇切丁寧にすべての遊びをこなせるよう、短い時間で指導する。「これどうやるん?」などと聞いてくる子はホンのわずか。「こうやるといいよ」と、聞いて来ない子に教えようとすると逃げられそうになる。そこで思い起こすのは「やってみせ、言って聞かせてさせてみて、褒めてやらねば人は動かじ」という言葉。そうあだよねーと思い直すのだが。

60人の児童に30人を動員して指導に当たる。結果はこちらも汗だくになりながらではあるが面白かった。
その挙句「コマ回しのせんせい」や「竹馬のせんせい」になってしまった。ちょっとくすぐったいが、こんなことが役に立つのなら、いつでもお手伝いするよ。と思いながら、我が孫には教えてやっていないんだな~これが。

 

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「バーバの教え??」

2018年01月17日 | 家族・孫話

         

夕方5時、放課後児童教室に預かってもらっている2年生の悠雅君を迎えに行った。
珍しく大きなビニール袋を抱えてクルマに乗り込もうとする。「そりゃ何かね?」尋ねると「ばあちゃんへのおみやげ」と言う。それ以上は深く聞かずに帰りついた。「バアチャン、今日はおみやげもらってきた」誇らしげに言う。

差し出す袋の中から、葉っぱの付いた1本の大根と、大根の部分は取り除いた葉っぱだけが数本出て来た。
「どうしたの?」「これはね、オレらの学校の畑でとれた大根なんよ」とニヤリ。「オレは大根の葉を付けたままもらったんよ。みんなは葉っぱがいらんというから、ばあちゃんにもらって来たんよ」。至って大真面目。
そして「ばあちゃん、明日は煮てね」と。

今年の我が家の大根は、何が災いしたのか丸っきりの不作。今まで見たこともないほど太らない。聖護院大根が、まるでカブの大きさにしかならない。その大根を畑で抜いたとき「こりゃ困ったねー、葉っぱばかり茂っていて大根が小さいから、葉っぱも捨てずに煮て食べようね」と、ばあちゃんが悠雅君に語りかけたことがあった。その会話を忘れずにいたのだろうか。それにしても、友達が持って帰ろうとしない大根の葉っぱを、「オレが持って帰る」と主張した勇気。それがばあちゃんへのみやげであり、自分のお腹を満たすことを知っているのである。

あの、スポーツ万能、アウトドア派のやんちゃ坊主のすることとは思えない、大根葉事件?
本人もよくぞ臆面もなく主張したが、それを丁寧に持って帰らせる、放課後教室の指導員の手厚さにも感謝したい。
ジージとしては笑ってしまいそうだが、小2の孫君とばあちゃんの絆を象徴する部分として、笑いを抑えるのである。

「もったいな」という、現代人に一番欠ける人間性を、いみじくも指摘しているのかな。
そしてバアチャンの作る料理は、大根の葉っぱでも美味しいことをよく知っている彼ならではの味覚なのか。

家に着くなり「今日は何がある?」と尋ねるお腹を空かした大食漢の悠雅君。大いに物入りの上に日替わりメニューで待つバアチャン。「大変だね~」の言葉を飲み込ませる、悠雅君の思い遣りに触れた。

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「春の訪れ」

2018年01月15日 | 季節の移ろい・出来事

  
     つがいのメジロがやってきて        クリックして見てね

♪♪ 紅く咲いても 冬の花 春はいつ来る・・・ ♪  もうそこに来ていますよ~~

紅く咲き誇るサザンカの蜜を求めて、つがいのメジロがやって来始めておよそ1週間。
花の蜜ばかりでは飽きるだろう、たまにゃご馳走もいいかな・・・と、ミカンの輪切りを2カ所に挿して置いた。
案の定、愛らしい真っ白お目目のメジロ夫婦がそれを見つけた。外敵を警戒するのか、きょろきょろせわしなく動き回る中でも、時々羽を休め、動きを停めてミカンのご馳走をせっせとついばんでいる。

さいわい今年は、今のところヒヨドリがやって来ない。メジロは安心してサザンカに遊び、スズメたちは集団で、畑の周りに餌を求めてやって来る。間違いなく春は近い。
縮こまった肩をほぐし、少し胸を張って、そろそろ本格的今年のスタートを、とちょっとだけ気持ちを引き締めてみる。

喪に服して迎えた今年の元旦。年賀状を差し控えた。当然先方からも来ない。
そんな中でも、事情承知の上で激励の賀状も数枚頂いた。やはり嬉しいものである。
賀状に変わる寒中見舞いも少し届いている。丁重な長文の手紙で尻を叩いてくれる同級生もある。

今年は格別に雪が多い。年賀状を控えた罪滅ぼしに、雪見舞いの電話を掛けてみることにした。
恩師の住まわれる新潟市内は、同じ新潟でも雪の少ないことで知られている。それが何年振りかのドカ雪が市内を襲ったという。除雪車による跳ね上げられた雪で、自宅の車庫の出入り口はふさがれて、「籠っているよ」という元気そうな笑い声に勇気をもらう。

そんなこんなで、日本列島様々ではあるが、、春は間違いなく近づいている。もう少しの辛抱だ、と思うことにしよう。

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「春に向かって」

2018年01月12日 | 季節の移ろい・出来事

         
             厳しい護摩行に挑む、新井・堂林選手

ここ2・3日、震えあがるような冷たい、厳しい寒さが続いている。無理もない、大寒を目前にした小寒の日々。
1年中で最も寒い時季である。不要な外出を極力避け、日差しのいい部屋を渡り歩き、その上に温風ヒーターを足元に引き寄せて、キーボードを叩く、ここ数日である。

そんな寒さの中ではあるが、2月1~3日は、岩国市街地のほぼど真ん中に作られた新たな野球場に、カープ二軍のキャンプがやって来るのだ。球春はもう目の前に来ている。縮こまってばかりはいられない。と思いながら、やはり寒いものは寒い。ヘタをして風邪でも引いたらなんでもないこと。年相応に慎重でなければ、と引っ込み思案に。

例年、季節の便りのように届けられてきた、広島カープの新井貴浩選手による、燃え盛る火と向かい合う「護摩行」が今年も報じられた。これまで鹿児島で行ってきたが、今年から和歌山県の高野山浄心院に場所を写したという。3000本の護摩木が次々と燃やされ、炎が5メートル以上立ち上るなか、すぐそばに座っておよそ1時間半、大きな声で必死にお経を唱え続ける、忍耐の要る行である。

「護摩行」は「お火焚き」とも呼ばれ、燃え上がる炎の前で全身全霊願いを込めて、真言を唱え、煩悩を炎と一緒に焼き尽くす修行と言われている。その意義は呪術的な強い祈りの力をもって願いを叶えようというもの。護摩の炉に細長く切った薪木を入れて燃やし、炉中に種々の供物を投げ入れる。火の神が煙とともに供物を天上に運び、天の恩寵にあずかろうとする素朴な信仰から生まれたもので、火の中を清浄の場として仏を観想するのだそうな。

間もなく41歳を迎える新井にしてその厳しい修行は何なのか。「今年もきつかったです。1年間、頑張って日本一になれることを願いながら行をしました。心をしっかり引き締めて、キャンプに臨みたい」という。
石原・會沢、両捕手。それにイマイチ開花しない堂林。まさに同行4人。火傷するほどに顔を真っ赤にして耐えた護摩行。なにかの結果が出るに違いない。特に堂林は、今年頑張らないと選手生命が危ういと思う。改めて応援してやりたい選手の一人である。

棲む世界が違うのだからそれも致し方ないところだが、それにしてもあそこまでの修行を積むことで、さらなる飛躍を誓おうとする精神力には、爪のアカでも煎じて飲むくらいしか近づきようがない。プロ野球の選手でなくてよかった、と思う。
オットット、そうはいかないのだった。8歳の孫を鍛え上げて、カープ入団の契約金を目論む身であった。
寒さでノーミソまで凍ったわけではない。可能性を追い求めてみたいだけである。

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「オリンピックって」

2018年01月10日 | ニュース・世相

                        

世界中が大騒ぎする「オリンピック」っていったいなんじゃろう?と思うことがある。
2年半後に迫った東京オリンピックに先立って、幅広い当事者に、それぞれの見解を質してみたいな、などと改めて考えさせられるこの頃である。
先ずはIOCと呼ばれる国際オリンピック委員会の役員さんたちの腹の内。次にJOC日本オリンピック委員会のお歴々の思惑。
引き受ける東京都、その周辺の首長の対応の理論。陰で支えるボランティアや一般市民の声。そして何よりも訊きたいのは、出場を目指すアスリートたちの本音である。

答えはおおよそ見当はつく。先ずは建て前論に終始。次いで発言者の立ち位置を基準にした、差しさわりのない一般論。まあこんなところか。
要は、今まで色々耳に入ってきていることの繰り返しなのだろう。それも無理からぬ話で、仕方ないかなと、大人の対応をしてみる。
本音なんて滅多やたらに口に出せるものではない。特に出場を目指すアスリートたちは、寡黙がサマになるようだ。

それがこのたび、くしくも『前代未聞のスキャンダル』として、アスリート自らの本音が、行動として表に出る形となった。
オリンピック出場選考会のライバルに、ドーピング疑惑をオッかぶせて追い落とし、自らが出場権を得ようとする「カヌー選手」の話である。「なんとまあ下らん話、スポーツ選手たる資格なし」と一刀両断に切り捨てる気持ちの奥で、ある意味「無理もないよな~」と、妙に頷く自分がいることに驚く。4年に1度のチャンスに向かって最高の状態にするため、努力に努力を重ねたところへ、年下の若い力が台頭して来る。なんとかしないとそれまでの自分の努力が無に帰してしまう危機感。判らぬでもないからである。そこには社会全体が今少し反省を要する部分がありはしないか、問うてみたい気持ちがある。

子どもを取り巻く親や指導する大人たちにも、大いなる責任があるのではないだろうか。
物心ついたころから、負けを受け入れることを教えてきたか。勝つことの喜び以上に負ける悔しさを植え付けてきたか。と問いたい。
兄弟げんかをする相手がいない子が多い。親が叱らないから、先生はじめ友達など他人から叱られたりいじられたりすることに拒絶反応を示す。いわゆる耐える強さや柔軟性に欠けている。などとあれこれ思う。
だから、野球選手を目指す孫には、練習にも試合にも、ジジの厳しい叱咤激励が飛び続ける。もちろん肩をほぐしてやりながら「よーやったねー」と褒めちぎることも忘れてはいない。叱咤激励が三っつ。褒めるのが一つないし二つ。これでいい。今後もこれで行く。

小生などがとやかく言わずとも、世の識者や教育者が対策を練られるのだろうが、通り一遍の建前論や一般論では、収まる話じゃなさそう。
芸能界でも「人をおとしめる」どす黒い流れは日常茶飯事だと、女性俳優が公表していた。
ただ、芸能界とスポーツ界は違う。相手を追い落とせるのは、己の力が相手を上回ったときだけである。 などと偉そうなことを考えさせられた正月10日の夢である。

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