「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

『神無月つごもり」

2020年10月31日 | つれづれ噺

   

二十四節気にいう「寒露」や「霜降」を経て早くも神無月つごもりを迎えた。
ここに来て、コロナ禍に押されたのか、はたまた人口減少による商売の厳しさに戦意喪失したのか。我が家のすぐ近くにあった、中型スーパーが10月をもって閉店してしまった。
団地の地続きでクルマも要らない。自分ちの冷蔵庫代わりにつかえる便利さは、この上なく有り難かった。高齢者のひとり暮らしでもコロコロカートを引っ張れば十分な買い物が出来て重宝してきた。

20数年の頑張りであったのに、惜しいことである。この団地の時価に影響を与えかねない一大事である。というほど大袈裟ではないにしても、免許返納が見えている我々にとってスーパーが近くにあるのは、非常に価値あることであり「なんとか持ちこたえられないか」と再度お願いしてみたくなる暗いニュースではある。

それほど大切なご近所スーパーを、その価値を感じて大切に活用してきたか?と聞かれれば正直「ノー!」である。まだまだクルマに乗れるし、ものの15分も足を伸ばせば、超大型スーパーや薬局チェーン、ホームセンターなど目白押し。何でも瞬時に手に入った。それに比べるとご近所スーパーは「卵が10円高い」とか「品数が少ない」とか、足が遠のく具体的な声が聞こえてはいた。

それも、お店に言わせれば「お客が少ないから値引き率も、品数も超大型店に一歩及ばない」。お客に言わせれば「少し割高、品数が・・・」となる。鶏が先か卵が先かのイタチごっことなる。
ひとえに、人口減少という目に見えない大敵は、中小スーパーの大敵である。
今宵はまん丸満月が、分け隔てなく煌々と地上を照らしてはいるが、月を見上げて笑う者、月の光を遮って無念の涙を流す者。同じ満月でも、受け止め方は人それぞれにビミョウな違いがあるようだ。

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「with コロナ」

2020年10月30日 | ニュース・世相

        

新型コロナウイルス感染者が、ついに我が国でも10万人を超えた。
昨日一日だけでも全国で809人が新たに感染と確認され、当初の大型クルーズ船乗員乗客など全てを合わせると10万400人を数えるという。
そんな中、行動が活発で何かにつけて動きを伴い、人と人との接触頻度も増える30代までが52%だと、今朝の朝刊は報じている。

不要不急の外出をやめよう、自粛・お家籠りの勧め、などが徹底してきたのか、高齢者の感染拡大がひところほど顕著でないのはありがたい。
ただ、がまんガマンでフラストレーション拡大も確か。友との接触や交歓の機会も場所も奪われて、この絶好の秋というシーズンを棒に振る淋しさにじっと耐えている。そんな元気な高齢者も多くおられると推察する。

この春以来、年に1度の大きなお楽しみ行事もことごとく中止となった。特に10月に予定していた母校の高校の全校同窓会が、文字通りの総会だけが行われ、懇親会はしないと決定した。自らが判断を下す立場に回ったのだから、その寂しさはひとしおである。卒業して60年にもなる同窓会であるが、必ず何人かが出席して先ずは旧交を温める。そして二次会では同窓会には出席しないが二次会には合流するという友が一緒になって大騒ぎ。
「誰が一番年寄り臭いか」「酒の量はどうか」「カラオケの声の出具合はどうか」など、お互いの元気さ加減を確かめ合う大切な集いである。

そんなこんな、つまらなさを数え上げればキリがないほどのコロナ禍ではある。しかし、結論から言えば「命あってのものだね」である。
完璧なワクチン発見などによるコロナ完全終息の日が来るまでは、グズグズ言っても仕方ない。先ずはコロナとともに。「withコロナ」を受け入れるしか生きる道はなさそうだ。但し、どうするのがwithコロナなのか?なにをもってwithコロナと言えるのか。そこが問題である。

人それぞれ立場も生き方も違う。定義も特効薬もない。そんなあやふやな中ではあるが、自分を守り、大切な人を守る。この決意だけは忘れず、これまで続けてきたコロナ禍生活様式を守り、ならぬ堪忍するのが堪忍。コロナ時代を少し気にして、もっと気にして明日を楽しく。難しいけどね。

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「秋の味覚の代表は」

2020年10月28日 | 季節の移ろい・出来事

                                                           

何を基準に考えて「秋の味覚の王者」を決めるのか。
人それぞれに思いがある話なので、それらしき結論を出そうというのが、どだい無理な話であることに気づかされる。
「秋の味覚の王者? そりゃ言うまでもなくアレよ」「ウンあれあれ、アレに決まり!」「なかなか庶民の手は届かないし、希少価値だから」などという具体的な話になれば、何となく想像がつくし、大方の意見はまとまりそうだ。「アレだよアレアレ」「ふ~~ん、そんなもんかねー」。

結婚して数年間は、里の義父が精出して山の手入れをし、イノシシを追う猟犬を連れて、しょっちゅうマッタケ山を巡回して守っていた。
というのも、アレが出るころになると、朝早くにどこからともなく屈強な男がよそ様の山に入り込み、よく生える場所を知っていて根こそぎ持ち去る。サルの話ではない。人間のはなしである。へたに鉢合わせすると「何をしとるんか?」と、向こうが居丈高に山の持ち主を脅して我が物顔に盗っていく。そこに猟犬は役に立つ。但しアレは、素人にはなかなか見つかってはくれない。「鼻を利かせて」とか「アカマツの根っこの周り」とか言われるが、満足に手にしたことはない。

その点、クリは可愛いもので、目の前にコロコロと転がっていてくれる。年に何度かの下刈りをして、栗拾いができるように手入れするのは大変だったろう。いつからか義父が弱って手入れをやめたとたんに、マッタケ山も栗林も我がものではなくなった感じがするほど他人が牛耳る。おまけに栗林は、サルやイノシシが我が物顔にむさぼる。そうなるともう人間など手も足も出ない。
ホンのわずかでいい、甘党にとっての味覚の王者「渋皮煮」そして「栗ご飯」くらい食させてくれるといいのに、そんなに甘くない。渋皮煮は甘いのに。

日本各地でクマの人里徘徊が問題になっている。ひとつには、昨年のドングリや椎の実が豊富過ぎて、子熊が多く誕生した。それなのに今年は夏場の異常気象でクマのエサが不足だという。子供が多いうえにエサが不足となれば、危険を冒してでも人里へ近づくのも必定。しかも、里山の手入れをする人手不足で、動物にとっては「自分たちの領域か、人間様の領域か」区別がつかないほどに荒れ放題。ここに最大の問題がある。

おいしい栗の渋皮煮は三個くらいで我慢して、後はクマに分けてやろう。などと甘い顔をすると、栗だけではなく人間まで食おうとする。
自衛手段にも限界がある。ほんにクマったもんだ。ン? 結局何を言いたいんだか??

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「ツワブキの咲くころ」

2020年10月27日 | スポーツ・観戦

                                             

我が家の北東の角に、魔よけの南天の木が植わっている。
その周辺にいつだったか、ツワブキの根っこを植えた。時節が来ると毎年鮮やかな黄色い花を咲かせ、季節の移ろいを教えてくれる。
今年もまた見事に花を付け楽しませてくれている。

今日の新聞は、昨日行われた菅義偉総理大臣の、就任後初めての首相所信表明演説が行われたニュースが大方を占めている。
菅首相の所信も、これからの国家運営の手腕も、ここでは一先ず置いといて。
昨日のもう一つの興味あるビッグニュースは、プロ野球の新人選手選択会議というドラフト会議が行われたことである。

プロ野球選手を目指す大学野球選手・高校球児・野球少年らのあこがれの会議である。
夢が叶って胸躍らせた選手も多かろう。一方で、夢叶わずグッと下唇を噛んで新たな道を模索する球児も少なくない。人それぞれであったろう。
思い起こせば、昨年の今ごろ。ツワブキ色の栄えある結果をもらって、勇躍プロ野球の世界に入ったその数はざっと100人近く。

幸いにして我が愛する広島カープにドラフト一位入団した森下投手は、目下セリーグの新人王争いの最有力候補に上がっている。1年目からそれほどの大車輪の活躍を見せてくれた。彼ほどの活躍は、まさに1年に二人か三人の狭き門。それでも、彼らにとって、彼らを取り巻き指導した人たちにとって、プロ野球とは大きな魅力ある世界であり、魅力あるドラフト会議ではある。

広島カープの今年の指名は、社会人投手No1の呼び声高いトヨタ自動車所属の栗林投手。大いなる期待をかけたい。
このように、どの球団にも負けず劣らずの精鋭が新規入団した。がんばれ新人選手たち!である。

そして来年のツワブキが咲くこの季節に、功なり名を遂げる選手が何人出てくるのだろうか。来年のツワブキの花の頃が楽しみである。

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「秋の歓声!」

2020年10月25日 | 家族・孫話

  

夫婦にとってはあまり帰りたくなかった昨日、二人の娘に押し切られる形で親子4人が、お隣の県から里帰りしてきた。
「じいちゃん、おいも掘りしよう」顔をみるなりすり寄ってきて、両手を合わせてお願いポーズをする。特に小1のお姉ちゃんは、自分の意見をはっきり申し出るタイプ。ハハーン、おいも掘りがしたくて、お父さんに無理なお願いをしてわざわざ帰ってきたのだなと想像がつく。

     
それほどにおいも掘りがしたいとは、ジジの農作業にも張り合いが出るというもの。
朝一番で畑に出る。長く延びた芋づるを刈りとる間も惜しんで、長いままを長いままを引き抜こうと踏ん張る。「待て待て、引き抜きやすいようにして上げるから」。そうしてちっちゃな手を泥の中に突っ込んで上手にかき分ける。おいもの先っちょが手に当たると「あった~~」と大喜び。普段は静かな畑に時ならぬ歓声があがる。 

                        こんなもんじゃないよ。これはホンの一分ですぞ! 

中にはお姉ちゃんの顔くらいのデカイのもある。「これ奈那ちゃんみたい」と、小っこい細い芋を顔の前に持ってきて、妹の奈那が笑う。
この日のために5月終わりに畑作りに汗を流し、6月に植え付け。真夏の日照りが続くと、真砂土で保水生の良くない土質はすぐにカラカラに渇いて、根っこの生育が覚束なくなる。2日に1度は水やりが必要となる。

でもそうやって手間暇掛けることが一つの癒やしにもなっている。その上に、出来た芋掘りにこれほどの笑顔と歓声をくれれば、この上ないジジの癒やしである。また来年も植えるぞ、などと早くも鬼が笑いそうな来年のことを考える。

太陽と土と水があれば作物はできる。その上に応援団の歓声とそれに応える健康を保とうと少し頑張ってみる。これぞ元気の源である。はてさて、いったいいつまで続くやら。

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「13回忌法要」

2020年10月24日 | つれづれ噺

                

亡き母の13回忌法要を執り行った。
丸12年前の秋。群れをはなれた一輪のコスモスが、ヒヨヒヨと風に揺れる頼りない姿の向こうで、母の最期は静かに近づいていた。
というか、入所中の施設から「至急来てください」の電話をもらって駆けつけたとき、すでに黄泉路を渡り終えた母が横たわる窓の向こうで、母を見送るように揺れていたコスモス。あの時以来、私の目に映る風に揺れるコスモスは、妙にはかなげで頼りなくて「もの悲しい花」になってしまった。

今年はコロナ禍の影響もあり、13回忌法要とあっても親せきなど多くを集めず、82歳、78歳、73歳の姉弟とその連れ合いの5人だけの質素な法要となった。お寺さんにわざわざ我が家にお越しいただくのも気が引けて、こちらからお参りした。
昭和4年建立という風格のある真宗西本願寺派の古刹。その本堂の真ん中に座らせていただき、流暢な読経とともに手を合わせ、ねんごろに焼香した。

賑やかでワイワイ騒ぐのを見守るのが好きだった母には、ちょっと気の毒なほど静かな法要となったが、これもまた世界を揺るがすコロナ対策であり、母にとっての大事な孫や曽孫を、危険を冒してまで総動員するわけにはいかなかった。

そんな折ふと思い立って、父と母から広がっていった親族の数を真剣に指折り数えてみた。
先ずは子供が6人。次いで孫が12人。ひ孫は17人と膨れ上がることに改めて気付かされる。
単純計算で行くと、両親や兄妹、孫、ひ孫をひっくるめると37人という数値になる。そして現在何人生きているのか。実数は23人。それには嫁さん婿さんがいる。それらを合計すると30人は優に越える。

こんな他愛もない話であるが、両親を起点にした家系図を描いてみるのも面白そうである。自粛・お籠もり・秋の夜長、ひとつ挑戦してみようかな。

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「秋深し・・・」

2020年10月23日 | 季節の移ろい・出来事

           

秋深し……とくれば真っ先に頭に浮かぶのは、隣は何をする人ぞ というあの有名な芭蕉の句である。
ではこの「秋深し隣は何をする人ぞ」の句意はいったいなに?と聞かれたらどう答えようか。
ネットサーフィンで見つけたベストアンサーでは「独身男性が静まりかえった夜、隣の新婚さんの物音に聞き耳立ててる、そんな淋しさ、切なさを詠んだ句です。」と書いてある。

まさか、あの芭蕉さんが、情緒あるこの更けゆく秋の夜長に、そんなことを思うとは考えられない。これはまあジョークと受け止めるとしても、長い静かな秋の夜は、色んな人が色んな角度から一句ひねっておられるのみるのは楽しいものである。

    場外に更け行く秋や寒山寺   
    秋深し豆腐屋の灯の薄明かり
    過ぎし日をたたみて心秋深し
    秋の味サンマも今じゃ高級魚  愚作

同じ「隣は何をする人ぞ」でも、使われ方や使う人の心持ちによって、内容は大きく変わることに気付かされた。
小生の住むすぐ近くに8世帯のアパートが2軒建っている。ここに住む人たちの「隣は何をする人ぞ」は、お互いに全くの干渉なしで、互いに無関心が最高という生き方である。もっとも、若い夫婦同士で同い年くらいの子供でもいればママ友付き合いくらいはあるみたいだが。

1階が101.2階は201と部屋番号が打ってあるだけ。表札などは皆無である。郵便屋さんはエラいねー、名前など一切カンケーなし。部屋番号のみで郵便物を配達するのである。必要があって「お隣は住んでいらっしゃのでしょうか」と訊ねたら「さー、あなたしってる?」と隣の人に振る。「お名前ご存じないですか?」「ご本人に聞いたら?」会話はこれで終り。とりつく島がないとはこのことか。

自治会も無ければ町内会もない。自由気ままに腰掛け的な借家住まい。隣と関わるヒマなどない!と言われればそれはそれで一理あるのかも。
秋深し隣は何をする人ぞ。こんな素敵な日本情緒も「大きなお世話、ほっといて!」が最優先のアパート暮らし。いいのか悪いのか、それこそ「大きなお世話」なのである。ア~~ア。

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「国勢調査終盤」

2020年10月22日 | ニュース・世相

                 

「令和2年国勢調査」というネーム入りの、濃い青色の大きなバッグとバインダーを持たされて、胸には国勢調査員のネームプレート、腕には腕章を付けて。そして家庭訪問エチケットとしてマスクを当てがわれ、奮闘努力した国勢調査も、ようやく終わりが近づいた。

秋半ばの最もいい季節を、非常勤国家公務員という大層な肩書きを頂いて、結構な時間と神経を使って慣れない仕事に走りまわされた。「国政の指針の基礎となる一大統計事業」だと言われても、気持ちばかりが焦り、空回りして、満足のいく結果には至らなかったような、少し欲求不満が残された。

自由国家の自由を愛する人たちが、自らの主権を主張することと、国民一人一人の現在の状況の全てを統計的に把握して、今後の国政に資する指標を得る。という矛盾がそこにあることを忘れてしまったら、これほど大きな統計作業は困難になる。
国政に資することより、個人情報を死守して「自分」のことを「他人」に知らせる必要はないという、個人情報至上主義的独善が蔓延しているところに問題があるようだ。
具体的な例を挙げたいが、それは本意ではないのでグッと飲み込むのが調査員の見識なのであろう。

調査の方法や設問自体にも、時代の変遷や人の気持ちの変化を的確に反映させているのか、と言いたい問題点をいくつか感じた。
まあ色々な考え方があるので、多くを語るのは自己主張になるばかりなので控えるのが賢明。本当に言うべき意見があるなら、受け持ち区域の最終結果を報告に行ったときに、じっくり話をさせて頂くのが、調査員を仰せつかった人間の最後のご奉公なのであろう。

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「秋の夕暮れ」

2020年10月20日 | 季節の移ろい・出来事

       

夕まぐれの受け持ち作業の一つ、部屋のシャッターを下ろすのは私の仕事。
そろそろシャッターを下ろそうかなと思ってふと見上げたら、オッ!光る物体が電柱にぶつかる。と色めき立って先ずはスマホで咄嗟のパチリ。すぐに二階に駆け上がりコンデジカメラを構えたら、正体が見えた。

なんのこっちゃ、上空2000mを飛ぶ旅客機が夕日を浴びて飛行機雲を作っていたのが、光る謎の物体に見えたのは目の錯覚だった。単に視力が落ちて遠近感覚が弱ったのか、と心配になったがそれほどのことでもない。夕焼けとともに沈み行く秋の空は、いろんな表情を見せてくれるのは確かなことなのである。

秋の夕暮れと云えば、ただもの悲しい物語を思い浮かべそうであるが、そうばかりではない。ときにこんな錯覚も起こさせる。それほどに、どこまでも遠く澄み切った秋の空は、吸い込まれるような透明感を私たちに与えてくれる。

などと立派げな御託を並べているが、ただ自分の思い違いと、思い違いにいち早く気付いたことを説明しているに過ぎない。それにしても、いずくも同じ秋の夕暮れとは云うものの、岩国の上空は最新戦闘機も轟音を轟かせて飛び交う。その遙か上を真っ白い機体を光らせて超大型旅客機も西へ、東へ飛び交っている。

旅客機が飛び交うのは、豊かさの象徴にも思えるし騒音もないが、時に近距離の会話さえ途切れさせる戦闘機の姿はあまり好きにはなれない。それも我が国の航空自衛隊所属の戦闘機なら、まだ少しの許容範囲は広がるのかもしれないが。

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「人恋うる秋」

2020年10月19日 | 幼馴染の動向

                 
                   人気のコインランドリー

秋の深まりとともに、コロナによる「自粛の虫」にもガマンの限界が近いづいたようだ。呼応するように「遊びたい虫」がウズウズと羽を広げてきているみたい。「ちょっとした居酒屋あたりで、少人数のイッパイやりたいね~」などと。あんたが音頭を取りなさいよと言わんばかりの電話がかかってくる。アルコールはそこそこでいいから遠慮のない大声のカラオケを楽しみたいねー。という話になる。「そうじゃねー長いことやってないねー、そろそろかもね」などと返事をし、世間話になる。

〇〇さんは元気なのかねー。△△さんはどうしとるん?。まるで同級生の消息事務局みたいな問いかけをしてくる。「そういえばワタシこの前ね、〇〇君に会ったけどとても元気そうじゃったよ」とご報告が。どこで会ったのか訊くと「朝早くにコインランドリーで」というではないか。
「エッ!早朝のコインランドリーで幼なじみの男女クラス会なの?」と冷やかしてみる。

そういえば、かたや奥さんを亡くして3年。こなた主人に先立たれて数年。そっか~、雨が続いたりすると洗濯から乾燥まで一気に仕上げてくれるコインランドリーは重宝するんだろうねー、と他人事のように今は思える。

男も女もそれぞれの役割を抱えて生きて行くには、与えられた役割に掛かる前の早朝に自分の洗濯は自分でして出かけることもあるということだ。そんな味を知らずにノホホンと生きている呑気なヤツもいる。

男の早朝コインランドリーは少しの侘しさを感じないでもないが、こうやって楽しく交流の場として使えるなら、まさに一石二鳥、侘しさも笑いに変えてくれる魔力を秘めているようだ。
そこで拙い川柳一句  早朝のコインランドリークラス会  お粗末!!

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