「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「花も嵐も・・・」

2024年03月11日 | 思い出話

                
                   
久しぶりに机の中の小物整理をしていたら、見たことのある証明書が出て来た。1枚は当時の写真付き従業員証。1枚は、労働組合の組合員証である。この2枚があれば、我が全人格が保障されていると言っても過言ではないほど、昭和41年当時の夜の街でも昼の銀行窓口でも、かなり自由に泳がせて頂けるという、若者を強力にバックアップしてくれた大切な証明書である。

組合員症の方は、決して粗末に扱ったわけではないが何故か完全に破れてしまって、セロテープで補修したそのままに残っていてくれた。オー懐かしいね~、若くてちょっとうるさげな兄ちゃんの雰囲気。
この2枚の証明書を手に入れるまでのプロセスが、人それぞれで面白い。
すんなり入社試験で合格する人もあれば、艱難辛苦、というほどでもないが少し苦労する人もある。

先ず入社試験が簡単に受けられるわけではない。受験に足りる成績と人柄が適切であるか、縁故の有無など。さらにこの会社の試験当時、他の企業の受験の結果待ち期間でないことなど、複雑な要素が絡まっている。
早い話が、この2枚を手にするまでにかなり苦労した経験者の一人だから、この2枚には苦楽ないまぜの懐かしい汗と脂がしみ込んだ、青春の思い出が刻まれている。その割にはいつしか引き出しの奥にひっそりと忘れられていたな~。

若い時の苦労なんてこんな風に忘れ去られるんよねー。そして良いとこ取りの画像がイメージとして焼き付けられる部分が多い。そうしないと、苦労はつきものの人生っていうやつが面白くなくなってしまう。人の一生、そんなに良くないことが続くわけないもの。やっぱり人生って楽しいんよ。愉しむべきなんよ。

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「桃の節句」

2024年03月03日 | 思い出話

          

3月3日、桃の節句、上巳の節句(じょうしのせっく)、色々言われているが、やっぱり「お雛祭り」が一番親しみがあるようだね。
そういえば我が家にもかつて、華やかにお雛段を飾って雛祭りをした昔があったのだ。

昭和48年2月に生まれた我が家の第一子長女に、親元から贈られた七段飾りの豪華なお雛様が、一部屋を占領していて、何かしら寄り付きがたい威厳を放っていたように感じたものである。その時まで七段飾りの雛壇などと縁のない生活であった。

そんな思い出の雛飾りも、娘がお嫁さんになった時も持っては行かなかった。今では階段下の倉庫の主となって陣取っている。時々は出して飾っていたが、娘のところは男の子3人で母親の雛飾りをあまり楽しんではくれなかった。無理もない。ババ殿も出し入れの手間と、汚してはいけない慎重さが段々億劫になり暗いところでお眠りになったままである。

それにしても長女の雛祭りの話などするとどうしたって昭和の話になる。ましてや昭和49年・50年などと言えばバブルの絶頂期。仕事も忙しかったが、元気に遊んで騒いで、我が子の子守などを忘れてしまうような沸騰の時代であったような。今じゃ娘も人生の半ばを迎えた。私たちに手を差しのべるお役目が回りそうな時代。お雛祭りにつけても、昭和が段々遠くなっていくんだね~。

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「思いがけない親不孝」

2024年02月06日 | 思い出話

                

夕食のテーブルに蕪や大根の酢の物が出てくると、ついテーブルに置いてある日本酒の瓶に手が伸びる。
毎晩晩酌というほど呑める口でもないしその習慣もない。ただ、蕪や大根の真っ白い酢の物で飲む酒は旨い。
たった猪口一杯のわずかな酒でも心地いいものがある。下戸には下戸の呑み方で美味しさを味わっている。

そんな時ふとおふくろを思い出す。テーブルに酢の物があると、ほんに嬉しそうな顔をして、自分で買った四角い猪口にお酒を注いで持って来て「アンタもお呑みんかー」と誘う。そのころは盆か正月以外は家で酒飲むことはなかったし晩酌の習慣もなかったので「オレはいいから、おふくろが好きなだけ呑みんさいや」みたいなことを言って、さっさと食事に取りかかったものだった。今にして思う、も少し温かい付き合いが出来なかったものか、と。

85才まで現役を通し「これ以上仕事を続けて怪我でもしたら、あんたらー若い者が世間に嗤われるようなことがあったらいけん」と言って小さなお店を辞めた。そんなおふくろのささやかな楽しみが、酢の物があるときの一杯の晩酌。よし俺にもちょだいって相伴してあげたら、おふくの喉を通るお酒の味が数倍になっていたのだろうなどとつくづく思う。未熟者でごめんな、自分のことで精一杯っだったね~。
今さら何を言っても始まらない。石に布団は着せられないからね~。

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「29年の歳月」

2024年01月17日 | 思い出話

阪神淡路大震災から29年
そのとき私は


高齢の母と妻を残して、ふるさとから遠く離れた東京都世田谷区三軒茶屋の単身赴任寮で、出勤を前に朝ご飯のテーブルに着いた。その時、いまでも体中を衝撃が走る凄まじい光景がテレビ画面いっぱいに広がっていた。大きなビルが根元から折れて真横になっている。今にも倒れんばかりに傾いたビル。その向こう左右あちこちから煙が立ち上っている。メラメラ燃える炎も見える。

しばらくして阪神淡路大震災のまさに第一現場を捉えたNHK報道写真の一部であることが確認できた。
どれだけの人が亡くなったのか、家族や家や家財一式を失い途方に暮れる人がどれだけいるのだろう。などと混乱する頭の中であれこれ想像するばかり。
会社に着いてようやく、断片的ではあるが信ぴょう性のあるコメントが投げかけられる。

陸上の完全道路はもちろん、JR山陽線など軒並み不通となり、岩国工場と本社の通路は一時的に断ち切られた。こんな地獄絵が容赦なく目の前に晒される自然災害は、全く意図しない我々の前にいとも簡単に表れる。陸路を断たれた本社と工場間、大量の製品輸送の最初に開通されたのが海路であったと記憶する。人の往来は空路となった。

阪神淡路大震災から神戸が、関西が復興して一安心したころに東日本大震災。さらには熊本地震など多くの自然災害が重なってまた今回の能登半島地震襲来。
災害は忘れたころにやって来るはずなのに、忘れるどころか舌の根の渇く間もなく襲い来る災害。どうやって
自身を守り家族を財産を守るか、厳しい宿題が投げかけられている。

 

 

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「ハーモニカ」

2023年08月03日 | 思い出話

                   
                     宮島管弦祭   ネット拝借            遠い昔の私のアルバムから

今と違って、地震・カミナリ・火事という世の中の最も恐いものの筆頭に数えられていたオヤジさん。実際に怖かったし、あまり会話を交わすこともなかったように思う。そんなオヤジさんが何を思ったか「宮島の管弦祭に連れてってやろう」と誘ってくれた。私にとっては前代未聞の珍事である。あれは小学6年生の夏休みであった。ごった返す人混みの中、はぐれないよう父の手をしっかり握って歩いた。これもとっても嬉しい出来事だった。

表参道の居並ぶみやげ物店の一角に、金ピカに輝く管楽器を並べた楽器店があった。ガラスの陳列棚には喉から手が出るほど欲しかったハーモニカが鎮座している。「この際ダメで元々、甘えてみよう」。我ながら大胆な一大決心をして「あれが欲しいんよ」と言ってみた。陳列の中でも最も高価なブランド品である。意外や意外オヤジさんの返事は「そんなに欲しいなら買えばいい」だった。その時はただただ嬉しくて涙が出そうであった。

そっか~、管弦祭という伝統の大祭に連れ出してくれた時点で、幼い次男坊の甘えを聞き届けてやろうという気持ちであったオヤジさんの懐の深さを知ったのは数年後のことであった。ハーモニカは一日も手放すことなく吹いて吹いて吹きまくった。くちびるの両端が切れるほど吹いた。

時代は移って令和の今宵、旧暦の6月17日は「十七夜祭」と呼ばれる宮島管弦祭である。
平安時代に都では、貴族が池や河川に船を浮かべ、優雅な「管絃の遊び」をしていたという。嚴島神社を造営した平清盛はこの遊びを嚴島神社に移し、神様をお慰めする神事として執り行うようになった。そのため河川でなく瀬戸の海を舞台に雄大に繰り広げられるダイナミックな平安絵巻を思わせる海に囲まれた宮島ならではの優雅な祭りとなったと言われている。

コメント (2)
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「4年ぶりの酒席」

2023年07月22日 | 思い出話

                                                                 
                      4年ぶりの開催となった、岩国工場定年退職者の会 

3年間のコロナ休みを経て、4年ぶりの開催となった元の我が勤務先である「岩国工場定年退職者の会」総会及び懇親会。
出席者総数を単純に4年前と比べるとおよそ70%。約3割が欠席という数字となった。
ただ、数字よりも何よりも、元気はつらつで出席した者同士、握手や肩のたたき合いなど、互いの顔を見合わせて再会を喜ぶ笑顔満開。文句なし楽しい会、楽しい酒席、話もお腹も満タンに。遠い過去ではあるが同じ釜の飯を食い、同業他社に負けない製品作りに励んだ仲間同士、久しぶりの笑顔の逢瀬となった。 

現職の工場関係者、労働組合支部長などの挨拶に続いて乾杯。ものの30分は静かに進行。司会者のアナウンスも耳に届いているが、そこらへんを過ぎるとあとはもうそれぞれの思い出話、武勇伝、過去をほじくり返す恨み節などなどボリュームは上がる一方。
あちこちのテーブルで立ち話が始まる。

特筆すべきは参加者の最高齢がなんと、100才3ヵ月という。現役の時は年が離れすぎて直接の接触はなかったのに、定年退職者の会に入ってから後、おおむね毎年参加で出席者最高年齢を更新されている先輩と言う程度であった。それが100才をクリアしてなお、両足を地につけての参加とは羨ましい限り。自分にはとても真似のできないことだとあきらめ半分で眺めている。

その一方で、3年間のブランクの間に亡くなられた人も相当数に上る。事務局が確かな数字として把握しているだけでも30数人。その中には私の最後の職場の前任者も含まれている。こんな情報を目にすると、元気で出席し談笑できる自分の今を価値あることと思いたいし、もう何回か出席できるよう自己管理に精を出そう。

とにかく1年に1度、こういった気持ちの中から湧き上がるドキドキ感を持ち続けられのは、心地いい刺激になる。先ずは健康であることか。  

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「太陽がいっぱい」

2023年01月27日 | 思い出話

          

懐かしい映画を観た。NHKBS3の再放送をじっくり見入った。
かつて、男が男に憧れたあのアランドロン主演の「太陽がいっぱい」。高校時代の恩師がこんな顔つきだったな~と思った遠い遠い昔の映画である。あの優しいメロディーが耳にこびりついているBGMとともに強く印象に残っているご同輩も多いことであろう。

1960年に製作された、フランス・イタリアの犯罪映画というから、なんとまあいにしえの名画ではある。
あのいい男アランドロンを、完全犯罪の悪役に仕立て上げるところも、日本人感覚では痛快に思えたのを思い出している。
貧富の差への反発や嫉妬、怒り、友から受けた屈辱への反発。如何にも若々しい青年時代の葛藤が「さもありなん」などと妙に納得した遠い昔を思い出しながらの2時間であった。

洋の東西を問わず、映画文化絶頂の時代は我々も映画館を選び、タイトルを選び、内容を吟みたものだった。
いつしか映画全盛期が遠のきテレビ時代の今は、映画館など近辺にありはしない。よほど評判の映画があれば、1日掛かりで出かけ疲れて帰る。それでも映画の内容が評判通りであったり、納得のいくものであれば大儲け(笑)

たまにこうしていい物に当たることもある。コロナ対策、寒さ対策のお家タイムのよき友ではあった。

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「28年前のあの日」

2023年01月17日 | 思い出話

東京は世田谷区三軒茶屋、静かな町の一角に佇む会社の単身赴任寮。
いつも通りに起きて、身支度を整え朝食のテーブルから見たテレビの画面。先ずこの目に飛び込んできたのは、数か所から立ち昇る真っ黒い煙、その下からメラメラ燃え上がる真っ赤な炎。周辺には大きなビルや小さな四角い建物のほとんどが傾いて、今にも倒れそうな光景。まさにこの世の物とは思えないテレビ映像。しばらくしてから我に返り、急いで食事をして一刻も早く会社に行き、状況の把握とこれからの動作について話し合おうの一念であった。
           

急いで出勤してみると言わずもがな、事務所はパニック状態。本社と全国各地に点在する工場との情報交換に追われたあの日を今も鮮明に思い出す。
新幹線が大阪でストップ。岩国工場の製品輸送が貨車から船便に変更。工場と本社の人の往来は全て航空便に変わり、羽田空港での送り迎えとなった。
そんな個人的パニックも乗り越えたあの日から、紛れもなく28年という歳月が流れた。なんと言ったらいいのか、言葉が見つからない。

何年が過ぎようと、記憶にとどめておかなければならないことはある。28年という歳月は、人々の記憶を薄れさせていく時の流れではあっても、決して忘れてはならない。1月17日午前5時46分を迎えると、一瞬にして還らぬ遠い人となった面影を偲んで涙する人も数知れない。そして今を生きる私たちは、「世の中、いつどこで何が起きるか判らない」という教訓を胸にしなければならない。

毎年のことながら、11日後には誕生日を迎えることもあって、あの日あのときの強烈な印象を思い起こし、今の幸せに感謝の念を呼び起こさせてもらっている。

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「二人目の成人式」

2023年01月08日 | 思い出話

                 
                    成人式を迎えた大学2年生

当市の成人式が1日早く、市民文化会館で行われた。正月休みで帰省中の大学2年生の孫君が、スーツにネクタイで参加した。その帰りに我が家に寄って、その晴れ姿を見せてくれた。5人いる孫のうち、2番目の彼が成人となった。本人にとっては単なる通過点であって、特別な感慨も感動も感じさせてはくれないが、何はともあれジジババにとって二人の孫の成人式は感動ものである。

我が家の前で幼稚園バスからの受取、放課後児童教室のお迎えなど、まさしくこの手で大きく支えて来た感のある孫次男坊君。お兄ちゃんに続いて先ずは無事に成人となる日を迎えたことは、大いなる慶びである。

友達とつるんで成人式には行かないような話をしていたが、両親の説得に反論しながらも「会場まではみんなを誘って行く」ということになり、なんとか出席したらしい。
「今どきの若い者は・・・」などとあまり言いたくはないのだが、成人になったということ、成人式を迎えたということに、今少し自覚を持って捉えて欲しいなと思う。今まではまだまだ半人前扱いだったのよ、それが今日から一人前の人間として、大人として世に認められる。その分何かと自由度が増える。その代わり個人の責任が生まれるのよ。そんな大きな変わり目、節目となる記念すべき日なんだよ・・・。

などというごく当たり前の話は、もう耳にタコができて耳の穴を通って鼓膜まで届かなくなっているのかな。それとも、もう二十歳になる今までに何もかも経験済みで、成人の意味も新鮮さもカンケーない時代になったのかねー。

スーツにネクタイといういで立ちは、成人式を迎え、大人の一歩を踏み出す記念に袖を通すもの、首に巻き付けるもの。などと自分で決めていた人間は古かったのかねー。しかも、成人式に着るスーツは何が何でも自分で稼いで自分で選ぶものだと決めていた。ネクタイ?ネクタイだけは誰かがお祝いにプレゼントしてくれるかも。などと、胸を高鳴らせて二十歳を迎えたのは、なんと60年も昔の話かぁ。時代は移り人の気持ちも価値観も変わるよねー。だから時の流れを自覚して、時代遅れの常識論をぶちまけても所詮空しい。ならば声を小さくして静かに見守るのがいいのかもね。

ただ、昭和38年、1963年のあの成人式の日。誰にも負けない笑顔で式場への階段を一歩一歩上がった感触は今も忘れない。

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「祥月命日」

2022年11月10日 | 思い出話

           
                  墓前に供える小菊

11月10日とは、丸14年が過ぎた今でも記憶から遠ざかることのない、1年の中でも最も忘れがたい日である。
若さゆえの力不足と配慮不足が、形の見えない悔悟の念として肩に乗っかっているような、そんな後ろめたさに苛まれる。それを振り払うために墓前に花を手向け、ねんごろに手を合わせる。もちろん、我が家の中心に座すお仏壇にもお線香を焚いて手を合わす。

母の祥月命日。何は置いても今日一日の一番の仕事であると肝に銘じて午前中を過ごした。
あれは、2008年11月10日17時23分。母の最期となった棲み処である介護施設から「大至急来てください」の電話をもらってから3分後の午後17時26分。100才7ヵ月10日の天寿を全うした日時である。

14年前の話。当時66才であった。今思えば若かったな~と改めて実感する。
母が亡くなってから後、二人の姉を見送った。81才を目前にして、6人いた兄妹がたった2人になってしまった今、黄泉路の向こうで、父を含めた6人の親子が仲良くやっているのだろうか。やはり、両親をこの手で送り出した面倒見のいい次男坊がいなければ、多少のもめごとはあるに違いない。などとバカなことを思ったりするコスモス揺れる季節である。

そういえば、母の最期を迎えた部屋の窓の下で、たった一輪のコスモスがひ弱そうに風に吹かれて、右に左に大きく揺れているのが目に入った。
彼岸に渡ろうか、今しばらく此岸でがんばろうか迷っていた母の気持ちを見るようで、何とも涙を誘う光景であったことを思い出す。

色々あった14年。母がこの世の中で最も心を許した我が嫁と、ちょっと頼りない次男坊二人が、もうしばらく揃って元気に祥月命日は忘れず手を合わせるから、あまり早く呼ばないように、末永く暖かく見守って欲しいね~。と未だに母には甘えてみたくなる感情がある。

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