「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「二つとはない、切ない訃報」

2024年12月11日 | 思い出話
一瞬言葉を失う訃報を受け取った。まさか、こんなことってあるの?、耳を疑ったが夢でもなければうつつでもない、現実そのものであった。悲しい。

遠い思い出が次から次に浮かんでくる。どの思い出も大切な一コマとして脳裏に焼き付いているものばかり。
正式には67年前の高校入学式での出会いである。大学を卒業して4年目の、まだ完全に教師になりきっていない、やんちゃな新しい兄貴分のような人だった。その人が高校3年間の担任であったことが、小生の人生に大きな光を当ててもらった、そんな素晴らしい出会いであった。

出身は種子島で、国語の教師を多く輩出した東京の某大学出身。眉が濃くて鼻も高く黒いキリっとした瞳の、垢ぬけたとはこういう人をいうのか、と田舎の高校1年生の男女共通のあこがれの担任教師であった。他の教科はあまりできなかった小生だが、担任が国語専科であったことも幸いして、何とはなしに可愛がって頂いた、と今でも感謝している。
小生たちは普通科であったが、時代を反映して進学よりも就職志望の方が多かった。そんな中でも地元の某銀行の求人にいち早く受験のお膳立てをしてもらった。ただ、家が貧乏だったので、当時の銀行は採用してはくれなかった。我々が卒業して2年後に新潟に移られた。
そんな思い出に始まって、小生たちが無事定年退職を迎えたとき、昔の教え子3人が新潟に飛んで「定年退職報告旅行」に出かけたとき、新潟の料亭で飲んだ越乃寒梅は美味しかった。

その後ず~っとお付き合いが続き、特にお歳暮の時期は互いの産物を贈り贈っていただくようになった。数年前までは年に何度かお手紙のやり取りもあったし、奥様とも何度かお話しする機会もあった。手紙が段々疎遠になりとうとう年に一度お歳暮の贈答だけになっていた。というのも、段々病気が出たり弱りゆく経過を話し合うのが辛くなっていた部分はある。
この暮れも同じように岩国レンコンを数日前に発送した。その到着のお礼の電話の冒頭で、「〇〇が4月に亡くなりました」と思いもかけぬお話であった。
「あまりにも急なお別れで、私も動顛して具合が悪くなり、何をしていいかわからないままでした」という奥様の弱弱しい声には、「4月に教えて欲しかったです」とは言えなかった。
ただただ驚くばかり、先生とはもちろん、奥様とも世間話もしてきたじゃないですか、という言葉も飲み込んで、他にも申し上げたいことの全てを腹に納めて、悲しみのはけ口としてブログにぶつけています。

ごめんなさい、今日このブログを最後まで読まれた方は、大変お気の毒ですが、ちょっと運が悪かったとあきらめて頂いて、yattaro―の「二つとはない切ない訃報」の気持ちをちょっとだけご理解いただくわがままをお許しください。  合掌
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「師走ついたち」

2024年12月01日 | 思い出話

                                        
泣いても笑っても、今年の暦はペランペランのたった1枚だけとなった。
今年も7泊8日の旅に出たのなら喜ばしいことなのだが、そうも行かない。5月末日の手術で国立病院機構の大きな医療センターに入院したのが7泊8日だった。これを最後に入院手術とか、落ち込みの激しい病気に罹らないよう、静かに祈りながら、半分おっかなびっくりで過ごしている。というのも、泌尿器科手術の後遺症はなかなかしつこく、まだ完ぺきではない。

などと可愛い愚痴をこぼす間はまだいい。今年もあの人この人多くの人の喪中はがきが届いている。中でも「え~~??」と思わず声が出そうになる訃報に接した。50歳を過ぎた遅いお上りさんであり、慣れない東京本社勤務に不安いっぱいで有楽町駅に着いたとき、気さくに迎えてもらったのが、敏腕営業マンと名が知られていたYさんである。学年はこちらが一級上だが、生き馬の目を抜く東京商圏を闊歩できる気っぷのいい男であった。敢えて同僚と言わせて頂くが、短い時間に大日本印刷・凸版印刷・東京書籍など印刷大手の担当者に「岩国工場のエンジニア」という触れ込みで紹介され、面目を施したのを思い出している。

お酒は強かったね~、カラオケは自分より人に歌わせるのがうまかった。そんな大切な思い出の人に、1年に1度の年賀状さえ出せなくなった。そんな思いの裏返しに、葉書の差出人である奥様宛てに、感謝を込めた徒然なる思いや奥様の健康を願う気持ちなどを認める師走ついたちとなった。
少しの違いだけど早い旅立ちに間違いない。やがていつかは行く道ではあるが、今しばらく訃報連絡を受ける立場に徹したい。それも元気ピンピンで。
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「いい風呂の日」 

2024年11月26日 | 思い出話
                                              
今日は極めて単純な語呂合わせで、11月26日「いい風呂の日」だという。
先日のいい夫婦の日(11月22日)の方が少しは文学的な匂いもするようだが、まあどっちにしても11月は頭に「いい」と言う二文字から始まるから何かにつけていい記念日になりそうな気がする。

あまり裕福ではない、と言えばかっこいいが、あまりどころかまるで裕福ではない家に生まれた子供時代。風呂にまつわる話には何かしら暗い影がつきまとう。
先ずは風呂の水くみの話。我が家の井戸が枯れてしまって隣りからのもらい水。それもうまくいかなくなったら今度は、少し離れてはいるがおふくろの仲よしおばさんの家のもらい風呂。小学校4・5年生だったろうか、何かにつけて恥ずかしさを覚える頃のもらい風呂は、風呂上りから戻る道すがら冷えるのなんの、もらい風呂の哀れさと貧乏が身に沁みた思い出がある。

少し大人に近づいたころ銭湯が流行りだした。小さな街にも銭湯が2軒進出して来た。そのうちの一軒の常連さんになって、番台に座るおふくろより少し若いくらいのおばちゃんとウマが合った。銭湯の服脱ぎ場に張りめぐらされた映画館のビラ(ポスター)のビラした券という入場割引券をもらっては映画館に通うちょっといい思いをした思い出もある。
だから我が家を建てるときにお風呂にはこだわりがあった。流行りの最先端を行くキラキラの丸いタイルをふんだんに使ってもらった。四角いタイルの焼き方、色にも注文を付けた記憶がある。朝ご飯の後に新聞を持って籠るあの空間に次ぐリラックスできるのが風呂である。ちっちゃな幸せだが、それさえ手に入らなかった子供時代があるからいまの有難味がよくわかる。
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「花も嵐も・・・」

2024年03月11日 | 思い出話

                
                   
久しぶりに机の中の小物整理をしていたら、見たことのある証明書が出て来た。1枚は当時の写真付き従業員証。1枚は、労働組合の組合員証である。この2枚があれば、我が全人格が保障されていると言っても過言ではないほど、昭和41年当時の夜の街でも昼の銀行窓口でも、かなり自由に泳がせて頂けるという、若者を強力にバックアップしてくれた大切な証明書である。

組合員症の方は、決して粗末に扱ったわけではないが何故か完全に破れてしまって、セロテープで補修したそのままに残っていてくれた。オー懐かしいね~、若くてちょっとうるさげな兄ちゃんの雰囲気。
この2枚の証明書を手に入れるまでのプロセスが、人それぞれで面白い。
すんなり入社試験で合格する人もあれば、艱難辛苦、というほどでもないが少し苦労する人もある。

先ず入社試験が簡単に受けられるわけではない。受験に足りる成績と人柄が適切であるか、縁故の有無など。さらにこの会社の試験当時、他の企業の受験の結果待ち期間でないことなど、複雑な要素が絡まっている。
早い話が、この2枚を手にするまでにかなり苦労した経験者の一人だから、この2枚には苦楽ないまぜの懐かしい汗と脂がしみ込んだ、青春の思い出が刻まれている。その割にはいつしか引き出しの奥にひっそりと忘れられていたな~。

若い時の苦労なんてこんな風に忘れ去られるんよねー。そして良いとこ取りの画像がイメージとして焼き付けられる部分が多い。そうしないと、苦労はつきものの人生っていうやつが面白くなくなってしまう。人の一生、そんなに良くないことが続くわけないもの。やっぱり人生って楽しいんよ。愉しむべきなんよ。

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「桃の節句」

2024年03月03日 | 思い出話

          

3月3日、桃の節句、上巳の節句(じょうしのせっく)、色々言われているが、やっぱり「お雛祭り」が一番親しみがあるようだね。
そういえば我が家にもかつて、華やかにお雛段を飾って雛祭りをした昔があったのだ。

昭和48年2月に生まれた我が家の第一子長女に、親元から贈られた七段飾りの豪華なお雛様が、一部屋を占領していて、何かしら寄り付きがたい威厳を放っていたように感じたものである。その時まで七段飾りの雛壇などと縁のない生活であった。

そんな思い出の雛飾りも、娘がお嫁さんになった時も持っては行かなかった。今では階段下の倉庫の主となって陣取っている。時々は出して飾っていたが、娘のところは男の子3人で母親の雛飾りをあまり楽しんではくれなかった。無理もない。ババ殿も出し入れの手間と、汚してはいけない慎重さが段々億劫になり暗いところでお眠りになったままである。

それにしても長女の雛祭りの話などするとどうしたって昭和の話になる。ましてや昭和49年・50年などと言えばバブルの絶頂期。仕事も忙しかったが、元気に遊んで騒いで、我が子の子守などを忘れてしまうような沸騰の時代であったような。今じゃ娘も人生の半ばを迎えた。私たちに手を差しのべるお役目が回りそうな時代。お雛祭りにつけても、昭和が段々遠くなっていくんだね~。

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「思いがけない親不孝」

2024年02月06日 | 思い出話

                

夕食のテーブルに蕪や大根の酢の物が出てくると、ついテーブルに置いてある日本酒の瓶に手が伸びる。
毎晩晩酌というほど呑める口でもないしその習慣もない。ただ、蕪や大根の真っ白い酢の物で飲む酒は旨い。
たった猪口一杯のわずかな酒でも心地いいものがある。下戸には下戸の呑み方で美味しさを味わっている。

そんな時ふとおふくろを思い出す。テーブルに酢の物があると、ほんに嬉しそうな顔をして、自分で買った四角い猪口にお酒を注いで持って来て「アンタもお呑みんかー」と誘う。そのころは盆か正月以外は家で酒飲むことはなかったし晩酌の習慣もなかったので「オレはいいから、おふくろが好きなだけ呑みんさいや」みたいなことを言って、さっさと食事に取りかかったものだった。今にして思う、も少し温かい付き合いが出来なかったものか、と。

85才まで現役を通し「これ以上仕事を続けて怪我でもしたら、あんたらー若い者が世間に嗤われるようなことがあったらいけん」と言って小さなお店を辞めた。そんなおふくろのささやかな楽しみが、酢の物があるときの一杯の晩酌。よし俺にもちょだいって相伴してあげたら、おふくの喉を通るお酒の味が数倍になっていたのだろうなどとつくづく思う。未熟者でごめんな、自分のことで精一杯っだったね~。
今さら何を言っても始まらない。石に布団は着せられないからね~。

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「29年の歳月」

2024年01月17日 | 思い出話

阪神淡路大震災から29年
そのとき私は


高齢の母と妻を残して、ふるさとから遠く離れた東京都世田谷区三軒茶屋の単身赴任寮で、出勤を前に朝ご飯のテーブルに着いた。その時、いまでも体中を衝撃が走る凄まじい光景がテレビ画面いっぱいに広がっていた。大きなビルが根元から折れて真横になっている。今にも倒れんばかりに傾いたビル。その向こう左右あちこちから煙が立ち上っている。メラメラ燃える炎も見える。

しばらくして阪神淡路大震災のまさに第一現場を捉えたNHK報道写真の一部であることが確認できた。
どれだけの人が亡くなったのか、家族や家や家財一式を失い途方に暮れる人がどれだけいるのだろう。などと混乱する頭の中であれこれ想像するばかり。
会社に着いてようやく、断片的ではあるが信ぴょう性のあるコメントが投げかけられる。

陸上の完全道路はもちろん、JR山陽線など軒並み不通となり、岩国工場と本社の通路は一時的に断ち切られた。こんな地獄絵が容赦なく目の前に晒される自然災害は、全く意図しない我々の前にいとも簡単に表れる。陸路を断たれた本社と工場間、大量の製品輸送の最初に開通されたのが海路であったと記憶する。人の往来は空路となった。

阪神淡路大震災から神戸が、関西が復興して一安心したころに東日本大震災。さらには熊本地震など多くの自然災害が重なってまた今回の能登半島地震襲来。
災害は忘れたころにやって来るはずなのに、忘れるどころか舌の根の渇く間もなく襲い来る災害。どうやって
自身を守り家族を財産を守るか、厳しい宿題が投げかけられている。

 

 

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「ハーモニカ」

2023年08月03日 | 思い出話

                   
                     宮島管弦祭   ネット拝借            遠い昔の私のアルバムから

今と違って、地震・カミナリ・火事という世の中の最も恐いものの筆頭に数えられていたオヤジさん。実際に怖かったし、あまり会話を交わすこともなかったように思う。そんなオヤジさんが何を思ったか「宮島の管弦祭に連れてってやろう」と誘ってくれた。私にとっては前代未聞の珍事である。あれは小学6年生の夏休みであった。ごった返す人混みの中、はぐれないよう父の手をしっかり握って歩いた。これもとっても嬉しい出来事だった。

表参道の居並ぶみやげ物店の一角に、金ピカに輝く管楽器を並べた楽器店があった。ガラスの陳列棚には喉から手が出るほど欲しかったハーモニカが鎮座している。「この際ダメで元々、甘えてみよう」。我ながら大胆な一大決心をして「あれが欲しいんよ」と言ってみた。陳列の中でも最も高価なブランド品である。意外や意外オヤジさんの返事は「そんなに欲しいなら買えばいい」だった。その時はただただ嬉しくて涙が出そうであった。

そっか~、管弦祭という伝統の大祭に連れ出してくれた時点で、幼い次男坊の甘えを聞き届けてやろうという気持ちであったオヤジさんの懐の深さを知ったのは数年後のことであった。ハーモニカは一日も手放すことなく吹いて吹いて吹きまくった。くちびるの両端が切れるほど吹いた。

時代は移って令和の今宵、旧暦の6月17日は「十七夜祭」と呼ばれる宮島管弦祭である。
平安時代に都では、貴族が池や河川に船を浮かべ、優雅な「管絃の遊び」をしていたという。嚴島神社を造営した平清盛はこの遊びを嚴島神社に移し、神様をお慰めする神事として執り行うようになった。そのため河川でなく瀬戸の海を舞台に雄大に繰り広げられるダイナミックな平安絵巻を思わせる海に囲まれた宮島ならではの優雅な祭りとなったと言われている。

コメント (2)
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「4年ぶりの酒席」

2023年07月22日 | 思い出話

                                                                 
                      4年ぶりの開催となった、岩国工場定年退職者の会 

3年間のコロナ休みを経て、4年ぶりの開催となった元の我が勤務先である「岩国工場定年退職者の会」総会及び懇親会。
出席者総数を単純に4年前と比べるとおよそ70%。約3割が欠席という数字となった。
ただ、数字よりも何よりも、元気はつらつで出席した者同士、握手や肩のたたき合いなど、互いの顔を見合わせて再会を喜ぶ笑顔満開。文句なし楽しい会、楽しい酒席、話もお腹も満タンに。遠い過去ではあるが同じ釜の飯を食い、同業他社に負けない製品作りに励んだ仲間同士、久しぶりの笑顔の逢瀬となった。 

現職の工場関係者、労働組合支部長などの挨拶に続いて乾杯。ものの30分は静かに進行。司会者のアナウンスも耳に届いているが、そこらへんを過ぎるとあとはもうそれぞれの思い出話、武勇伝、過去をほじくり返す恨み節などなどボリュームは上がる一方。
あちこちのテーブルで立ち話が始まる。

特筆すべきは参加者の最高齢がなんと、100才3ヵ月という。現役の時は年が離れすぎて直接の接触はなかったのに、定年退職者の会に入ってから後、おおむね毎年参加で出席者最高年齢を更新されている先輩と言う程度であった。それが100才をクリアしてなお、両足を地につけての参加とは羨ましい限り。自分にはとても真似のできないことだとあきらめ半分で眺めている。

その一方で、3年間のブランクの間に亡くなられた人も相当数に上る。事務局が確かな数字として把握しているだけでも30数人。その中には私の最後の職場の前任者も含まれている。こんな情報を目にすると、元気で出席し談笑できる自分の今を価値あることと思いたいし、もう何回か出席できるよう自己管理に精を出そう。

とにかく1年に1度、こういった気持ちの中から湧き上がるドキドキ感を持ち続けられのは、心地いい刺激になる。先ずは健康であることか。  

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「太陽がいっぱい」

2023年01月27日 | 思い出話

          

懐かしい映画を観た。NHKBS3の再放送をじっくり見入った。
かつて、男が男に憧れたあのアランドロン主演の「太陽がいっぱい」。高校時代の恩師がこんな顔つきだったな~と思った遠い遠い昔の映画である。あの優しいメロディーが耳にこびりついているBGMとともに強く印象に残っているご同輩も多いことであろう。

1960年に製作された、フランス・イタリアの犯罪映画というから、なんとまあいにしえの名画ではある。
あのいい男アランドロンを、完全犯罪の悪役に仕立て上げるところも、日本人感覚では痛快に思えたのを思い出している。
貧富の差への反発や嫉妬、怒り、友から受けた屈辱への反発。如何にも若々しい青年時代の葛藤が「さもありなん」などと妙に納得した遠い昔を思い出しながらの2時間であった。

洋の東西を問わず、映画文化絶頂の時代は我々も映画館を選び、タイトルを選び、内容を吟みたものだった。
いつしか映画全盛期が遠のきテレビ時代の今は、映画館など近辺にありはしない。よほど評判の映画があれば、1日掛かりで出かけ疲れて帰る。それでも映画の内容が評判通りであったり、納得のいくものであれば大儲け(笑)

たまにこうしていい物に当たることもある。コロナ対策、寒さ対策のお家タイムのよき友ではあった。

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