一瞬言葉を失う訃報を受け取った。まさか、こんなことってあるの?、耳を疑ったが夢でもなければうつつでもない、現実そのものであった。悲しい。
遠い思い出が次から次に浮かんでくる。どの思い出も大切な一コマとして脳裏に焼き付いているものばかり。
正式には67年前の高校入学式での出会いである。大学を卒業して4年目の、まだ完全に教師になりきっていない、やんちゃな新しい兄貴分のような人だった。その人が高校3年間の担任であったことが、小生の人生に大きな光を当ててもらった、そんな素晴らしい出会いであった。
出身は種子島で、国語の教師を多く輩出した東京の某大学出身。眉が濃くて鼻も高く黒いキリっとした瞳の、垢ぬけたとはこういう人をいうのか、と田舎の高校1年生の男女共通のあこがれの担任教師であった。他の教科はあまりできなかった小生だが、担任が国語専科であったことも幸いして、何とはなしに可愛がって頂いた、と今でも感謝している。
小生たちは普通科であったが、時代を反映して進学よりも就職志望の方が多かった。そんな中でも地元の某銀行の求人にいち早く受験のお膳立てをしてもらった。ただ、家が貧乏だったので、当時の銀行は採用してはくれなかった。我々が卒業して2年後に新潟に移られた。
そんな思い出に始まって、小生たちが無事定年退職を迎えたとき、昔の教え子3人が新潟に飛んで「定年退職報告旅行」に出かけたとき、新潟の料亭で飲んだ越乃寒梅は美味しかった。
その後ず~っとお付き合いが続き、特にお歳暮の時期は互いの産物を贈り贈っていただくようになった。数年前までは年に何度かお手紙のやり取りもあったし、奥様とも何度かお話しする機会もあった。手紙が段々疎遠になりとうとう年に一度お歳暮の贈答だけになっていた。というのも、段々病気が出たり弱りゆく経過を話し合うのが辛くなっていた部分はある。
この暮れも同じように岩国レンコンを数日前に発送した。その到着のお礼の電話の冒頭で、「〇〇が4月に亡くなりました」と思いもかけぬお話であった。
「あまりにも急なお別れで、私も動顛して具合が悪くなり、何をしていいかわからないままでした」という奥様の弱弱しい声には、「4月に教えて欲しかったです」とは言えなかった。
ただただ驚くばかり、先生とはもちろん、奥様とも世間話もしてきたじゃないですか、という言葉も飲み込んで、他にも申し上げたいことの全てを腹に納めて、悲しみのはけ口としてブログにぶつけています。
ごめんなさい、今日このブログを最後まで読まれた方は、大変お気の毒ですが、ちょっと運が悪かったとあきらめて頂いて、yattaro―の「二つとはない切ない訃報」の気持ちをちょっとだけご理解いただくわがままをお許しください。 合掌