「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「あれから1週間」

2018年06月30日 | 季節の移ろい・出来事

             
               3枚の葉っぱを浮かべる、スイレン

スイレンのタネを買って来て、雨だれ受けの火鉢に投げ込んでおいたのが2年数カ月前。
そのタネは、「ドブに落ちても根のあるヤツ」だったのであろう、ついに初めて芽を出し、1枚の葉っぱを付けたのが先週日曜日。
あれから1週間。1年中で2番目に多忙な地域活動のピークに追われ、ゆっくり火鉢を覗き込む時間さえ惜しまれるほど忙しく過ごした。

8月1日発行の機関紙。Aー4版4ページのレイアウトを決め、あらかたの記事・写真をまとめた第一稿を印刷屋に提出した。
7月半ばに行う一大イベント海岸清掃の、企業や官庁への案内回りも一通り済ませ、実行委員会議案書作りや細かな段取りも少しずつまとまってきた。やれやれ、腰を伸ばし一息ついて、ふと火鉢を覗いたら、早くもスイレンの葉っぱは3枚に増えているではないか。
これは間違いなく「やがては蓮(はちす)の花と咲く」日が来るに違いない、と勝手に夢を膨らます。

そこでようやく、今日が今年前半の終わり。早くも水無月つごもりであることに気付いた。
九州や山口県は避難騒ぎの大雨警報続き。関東方面では早くも梅雨明けとか。世の中目まぐるしい速さで動く。
そんなあれこれに追われ、毎年欠かさない6月の墓参さえ忘れかけていた。これは忘れてはならない我々夫婦の一大事である。

本来なら我が家の長男となるはずであった幼い命。この世に生を受けてわずか30分の命でしかなかった。
そんな40数年前のできごとではあるが、それさえも忘れてしまいそうなほどの忙しさ。身体にはあまりよくないようだ。
それにしてもなんにしても、6月中に一つ、また一つこなして来た。そして明日から7月。

火鉢に投げ込んだスイレンのタネは確か3粒であった。でも芽を出したのは一粒だけである。
ということは、同じドブに落ちても根のあるやつは、3粒のうち1粒だけだったということになる。
命をつなぐということ。幼くして散る命。生きるっていうことはこういうことなのか。やっぱり世の中って面白いね~。

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「スイレンの花」

2018年06月24日 | 季節の移ろい・出来事

             

あれは2年前の4月だったと思う。
あるイベントに出向いた折「これは古代蓮のタネです。植えたら花が咲きます」という地元の人の話に乗って3粒100円のタネを買った。
ダメで元々。テラス屋根の雨だれ受けとして地面に置いてある、昔懐かしい火鉢に投げ入れておいた。
ところが1年たっても、花どころか芽を出す気配も見られない。何のこっちゃ・・・と半ばあきらめてほったらかしにしておいた。

でもあれは間違いなく蓮のタネであったのに、何で芽を出さんのじゃろう?。それなりに考えてみた。
ふと思い出した。「どうやって植えるの?」「水たまりの中に少々泥を入れてタネを投げ込んでおくんよ」などと交わした会話を。
火鉢の底に泥を入れたのが昨年の寒いころだった。

そうしてこうして今年の6月半ば。ブランドの「いわくにれんこん」の植え込みが終わった田んぼで、一斉に芽を出すのに合わせて、我が火鉢の中でもちっちゃな丸い葉っぱが浮かんでいるではないか。最初は直径4㎝ばかり。それが今日見たら7㎝に成長している。
枝分かれした細~い茎の先にはさらに新しい葉っぱを開かせようと、丸まってとんがった葉っぱの子が浮かんでいる。
これは間違いなくスイレンの葉っぱである。ひょっとしたら花も見られるのか。期待に胸がふくらむ。

「これは、あそこにある古代蓮の池でとれたタネ」という触れ込みも思い出した。イベント会場のすぐ近くに「古代蓮の池」という看板が立っていたことも思い出した。
ひょっとしたら我が家の火鉢で、思いがけない古代蓮の花が見られのかな。

そこで今ひとつ思い出した。
  ♪♪ ドブに落ちても根のある奴は 
       いつかは蓮(はちす)の花と咲く
          意地を張っても心の中じゃ 泣いているんだ兄さんは
            目方で男が売れるなら こんな苦労もあるまいに ・・・・・・

  あのトラさんの名調子、男はつらいよ。なにかしら我が身にも思い当たるフシがあるようで、身につまされるスイレンではある。

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「予想通り?」

2018年06月21日 | スポーツ・観戦

            

ここ3年間、セ・パ交流戦勝ち越しを続けていた我が愛しの広島カープ。
今年ばかりは「交流戦貯金」が増えるなんてことはハナから考えられなかった。むしろ、交流戦前に10あった貯金がいくつに減るか、そちらの方が心配であった。貯金があるうちに交流戦が終えられればいいが、と思うほどの迫力ない戦いぶりが続いた。
それでも田を引き離しての首位。不思議な現象という印象を否めなかった。要するに他のチームが弱いし、熱狂的カープファンに圧倒される部分無きにしも非ず、だったような。

結果的に交流戦は7勝11敗、借金4つは上出来だったと言うべきであろう。
投手は全くだらしない。野手は打てない守れない。これでよくぞ借金4で終えられたものだ。と安堵の胸を撫で下ろしている。
それでも、地元はもちろん連日超満員。敵地でも半分はカープファンの赤で観客が染まる応援ぶり。
これを見ただけでも選手はもっと発奮すべきである。監督もスタッフももっと一つの勝ちへの執念を見せて欲しい。

確かに、まだ鞭を入れる段階ではないことくらい解っている。いま、ヘタにあがくと夏場にへばることは百も承知。
それでも、1イニングに7点とか10点取られるような野球は見せて欲しくない。仮りにも昨年一昨年のセリーグ覇者なのである。
来る日も来る日も割れんばかりの赤ヘルファンが殺到してくれているのである。負け方にも工夫をして欲しいと言いたい。

人間のやることだから当然いつもベストコンディションではない。スランプもある。
それを見極め、代替選手を如何にうまく穴埋め起用するか。ここが首脳陣の腕の見せどころである。
首脳陣にまでスランプや調整不足があってはならない。ファンは見ているのだ厳しい目で。

ヤクルト以外のセ5球団は全て負け越し借金の山の交流戦は終わった。
パのチームはどこもみんな、バットスイングの速さ、ピッチングのスピードと厳しさにおいて、セに勝っている。
また一つ上を目指す選手のかたまりであって欲しい広島カープ。パに負けるのは交流戦だけにして欲しい。

明日からはじまる夏場に向けた正念場。ブツブツ言わずにテレビ観戦できる試合運びを期待しよう。ファンの一人なんだから。

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「またもや大都市地震」

2018年06月18日 | ニュース・世相

                

日本の首都を二分する大都市、大阪北部でマグミチュード6.1、震度6弱という大きな地震が発生した。
阪神淡路大震災がまだまだ記憶に新しいこの時期に、またもや京阪神を!と思わせる忌まわしい大地震。
いたるところで大きな災害の爪痕を残し、9歳といういたいけな少女や80歳高齢者が犠牲になったというニュースが。
まだまだこれから詳細が判るに従って、災害の大きさひどさが判明していくのだろう。

この様に、時も場所も選ばず突然やって来る地震災害。
普段から何がしかの備えをしているつもりではいても、「いざその時」に立ち会わされると、無力・無抵抗というのが現実のようである。
それほど人間をパニックに陥れる威力を備えているのが、地震という厄介者ではある。

頭にこびりついている過去の大地震がを数えてみると、先ずは安政の大地震。江戸時代後期の安政年間(1850 年代)に、日本各地で連発した大地震である。当時の調査でも、日本全国で13回に及ぶ地震が発生したという。
次に
関東大震災が頭に浮かぶ。これは両親からの受け売りではあるが、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒頃に発生した関東大震災で、南関東や隣接の都市に壊滅的な被害をもたらしたと聞いている。その日を記憶として残すために、9月1日は「防災の日」に。

そして、思い出すだけでも身震いがするほどのショックを受けた「阪神淡路大震災」そして大津波に飲み込まれた「東日本大震災」。
これほどの大きな教訓が目の前で展開されても、自然の脅威・猛威には、人間の力の遠く及ばないエネルギーの差を感じさせられてしまう。もともと「地震・カミナリ・火事・オヤジ」と言われ、怖いものの順位は決まっていたが、時代がどう変わろうと、如何に文明の発展があろうと、ところも場所も構わずしかも予告なしに発生する地震。具体的な対処方法がないだけに、なんとも不気味ではある。

明日は我が身。いつかは襲ってくる覚悟と、可能な対策や心構えはしておかなければ。と思いつつ、身近に地震発生がないことを神仏に祈るばかりである。

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「今年の釣果は」

2018年06月17日 | 季節の移ろい・出来事

             
                  これも、これもオレが釣ったんよ!

婿殿は至って小まめの何でも屋である。手話はステージの講演会などで手話通訳が出来るほどの腕前。
スポーツ面では、スキー・サッカー・野球などなど。但し、スキーの腕前は認めるが野球などは、教え方という点ではジジの方が旨いかも知れない、などとアタシが勝手に思っている。更に今一つ、彼は魚釣りもなかなか堪能である。

今年も本格的に漁船をチャーターして釣りに出かけた。
但し今回の場合は、家族など一切乗せずに仲間内だけで遠くに出かけ、60cmのブリなど大物を狙う釣りではなかった。
希望すれば家族も船に乗せてもらい、近海でそれなりの釣果を狙う、比較的おとなしめの釣りである。
となれば「腕に覚え有り」の三男悠雅君としては見逃すはずはない。お父さんにくっ付いて出かけた。

途中電話で「じいちゃんの好きなメバルやカサゴの大物をオレが釣ったから持って行くよ」と釣果の一報が入る。これはひょっとして、婿殿からの父の日プレゼントなのか、とも思う。
次いで「ばあちゃんに刺身を作ってもらってみんなでじいちゃんちで夕ご飯を食べるよ」との一方的な宣告も聞こえる。
まあしゃーない。久しぶりにとれたてメバルの刺身も悪くないなと、酒豪の婿殿のために缶ビールを冷やし、お酒の算段をする。

この様に小まめなお父さんからあれこれ手ほどきを受けた三男坊は、小学3年生にして豊かな体験を重ね、学校の成績以外は、何かといい想いをさせてもらっている。
振り返って我が身の3年生の頃は如何であったろう。食物をはじめとして全体的なモノ不足であった。しかしそれも、今の裕福な時代と比較するからであって、当時としてはそれが当たり前だから、順応していくしかなかった。ただ空腹だけが強烈な印象として残っている。
そんな状況で、魚釣りといえばミミズを餌に、しなりの無い笹竹に木綿の糸をたらし、近くの小川でゴリを釣るのが関の山であった。

さて我が子に対しては父親としてどうだったのか。心豊かに生きることだけは教えて来たかもしれないが、実際の体験として如何ほどのものを授けて来たのか。足りないことだらけであったに違いない。繰り言を並べても栓なきことではある。それでも二人の子供はそれなりに自分たちの目指した生き方を謳歌している。
父の日とはいえ、単にお祝いだけもらっては気の毒だ。少しは反省もしておかなければなるまい。

あれこれ御託を並べてみても、やはり孫の釣ったメバルもカサゴも、ひときわ美味しく味わった。

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「花いっぱい」

2018年06月15日 | つれづれ噺

                             

近くの小学校で「花いっぱい運動」という特別教室が開かれる話を小耳に挟んだ。
「どんなことをするんじゃろう?」。持ち前の好奇の目が輝いて足を運んでみた。
5年生27人が6班に別れて、一つの班が6個のプランターに4本ずつ4種類の花を植える。まるで算数の問題のような話だが、決してそうではない。

要するに、青少年育成市民会議が提唱し、市からの助成を受けて資材を購入する。それを子どもたちが「花を咲かせるにはどんな作業が必要か」、といったさまざまなことを学びながら、手ずから植えてプランターに花を咲かせるという趣旨。
そのプランターは学校の玄関を飾るのはもとより、市役所の出先機関である出張所の玄関も飾る、という仕組み。

特にお手伝いというわけでもなく、カメラを提げての取材活動は、子どもたちの動きや要領を客観的に観察できる。
グループの中には活発に無駄なく動くリーダー的存在がたいて一人はいる。ものだ。中には「今まで一度もやったことがない」という花植え未経験者も少なくない。右往左往しながら「ここに土入れて」とか言われてやっと十能を動かす。

こんなのを見ていると「このころの自分はどうじゃったんじゃろう」と遠い遠い来し方を振り返ってみる。
何にも覚えてはいないが、この子のような働き手だったろうか、あの子のように要領悪い子だったのではないか。興味は尽きない。
ただ言えるのは、今こうして齢を重ねてみている眼は非常に厳しく、あーすれば簡単なんてにできるのにとか、こうすりゃもっと手早く収まるのに・・・なんて経験則が知ったかぶりの頭をもたげる。これもまた当たり前すぎて滑稽な話ではある。

彼らより60年以上長く生きて来て、ありとあらゆる場数を踏んで来た。だから花植えの要領などはお手本を示せると思う。
ならば来し方を自分史として要領よくまとめ、子供たちに理解できるような話をしてあげられるか、と開き直って訊かれたら、意外にウンとは答えにくい。なんだかんだ言いながら、結局は割と散漫に生きているものなんだよな~ なんて、子どもたちの花いっぱい運動に寄せて自らに反省を促す一場面である。 さてこれからどうする・・・。

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「握手の向こうに」

2018年06月12日 | ニュース・世相

                

世界が注目する一大イベントが、シンガポールを舞台に行われた。
アメリカトランプ大統領と、北朝鮮の金正恩独裁者が、歴史に残る直接の首脳会談を行った。今さら言うまでもないニュースである。
今世紀最大の「出来事」という声も聞かれる。そんな大騒ぎをする割りには、その結果に大きな期待が持てない、というか何かしら冷めた感覚がつきまとう論評も少なくない。

結局は北の言いなりに丸め込まれて、単なる制裁の緩和や支援を引き出すための茶番に終わらなければいいが、という警戒心や懸念が、根強く世界中の人々の心の中にわだかまっているからなのだろうか。
過去の実績を見ても「ゆすり・たかり」は常套手段。我が身を守る体制維持のためなら肉親の兄さえ、毒薬を使って抹殺するという人物。
食料戦略だと言って、ぼろい木造船で遠く離れた日本海域まで遠洋漁業を強いる国であることは、まだ記憶に新しい。

しかも、お互い罵り合い、脅迫し合って、今にも一触即発の危機に立っていた当事者が、何もなかったかのように握手を交わす。
この握手に本当の意味があることを期待してよいのやら。握手の向こうにとんでもない落とし穴が掘られているのではないか、気がかりである。何故なら、南北統一という「甘いお話は」北が独裁体制を捨てて、自由主義・資本主義の国家に転換する覚悟があるのか。
はたまた南が、共産圏に与して独裁体制下に収まるのか。と言う話になるのではないか、と単細胞は短絡に考える。

朝鮮戦争が今もって終結していないという不幸は、一日も早く取り除かなければならない。それさえ60年かかっても未だに解決の糸口すら見えず、ともすればいきなり北から南へ砲弾が撃ち込まれる現実。これらが本当にこの握手で解決するのか。やっぱり疑問点が多い。

などと言うと、世界の流れに反対するのか?とのお叱りを受けるかもしれない。
お叱りは敢えてお受けするが、何も北と南が、米と朝が仲良くすることは大いに結構大賛成である。
が、わが国を門外漢の如く扱う「拉致問題」。そして核兵器・大陸間弾道弾などの廃棄という事実を、確かな方法で検証できない間は、世界の脅威であり続けることになんら変わりはない国なのではなかろうか。早く大人の、真実のリーダー資格を身に着けて、貧民を救うホンモノの握手をする日が来ることを願って止まない。それもバックの大物の圧力で、身動き取れないのかもしれないが。

とにかく、あの笑顔の握手が、ウソ偽りのない世界平和につながることを夢に見たい

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「多分最後の・・・」

2018年06月10日 | 家族・孫話

おそらく我が人生の最後となるであろう孫の、満1歳を祝う誕生祭り。
これまで4人の孫に同じようにやってきたお祝いで、ステージは我が家の日本間と決めている。
赤ちゃんを卒業して、これから一人の幼児として旅立つ瞬間に立ち会う。その最初の試練が、我が家で搗いたお祝いの1升餅を背負って数歩を歩かせる、一つの儀式である。

本人にとってはこれがなかなか大変な行事である。個人差が大きくて、すんなり背負って歩ける子もあれば、未だ歩行もままならず、1升餅の半分を背負うのが精一杯という場合もある。
おそらく最後になるであろう5人目の孫奈那さんは、この未だ歩行がままならない方の組である。

「ひとたび歩き始めたら生涯歩き続けるのだから、慌てて歩き始めなくていいのだ」という話を聞いたこともある。ジジとしてはまさに同感。ただただ無事に元気に大きく育ってくれることを祈るのみ。でも早く元気に走り回る姿を追いかけてみたい。
ちょっと複雑なジジ独特の心持ちではあるが、先ずはここまで元気で来たことを、実は晴れがましく思い、快感であることに間違いない。。

    
      一升餅の半分を背負って、お母さんに手を取ってもらい、やっとこさ歩行の真似ごとを 

      
     4つ違いのお姉ちゃんと共にお祝い。お母さんとお姉ちゃん二人による手作りケーキ

こうして5人の孫の誕生祝と、お祝いの1升餅を5回も搗かせてくれた、私たち夫婦の二人の子供に感謝である。
と同時に、二人の子供が5人の孫を産んでくれたことで、ジジもババも一人役を果たせたのかな、という感慨もある。
ただ、これが孫の誕生祝いは最後なのだろうな~という感慨もまたあるというところか。

             
玄関には、おもちゃサイズから、20倍近い大型まで4足の靴が並ぶ。微笑ましくもあり、これからまだまだ応援のやり甲斐を感じて、ファイトやプレッシャーが入り混じる複雑な心境にもさせられる。
でもまあ、あのちっちゃな靴が段々大きくなり、生意気の一つも言うようになるまで、自分自身が元気で見守ってやれたらいいな、なんて思う誕生祝いである。

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「同じ釜の飯」

2018年06月09日 | 宴会・会食

            

年に3回は開かれる、岩国工場定年退職者の会。その新年度のスタートに当たるのが今日の定期総会である。
秋には、希望者によるバス旅行。年が明けた春には、歩こう会というホンの少しだけ歩いて、後は宴会の大花見。

そもそもこの会は、長年にわたって同じ通用門をくぐり、同じ制服を着て、同じ釜の飯を食いながら、景気の波に翻弄されたり、人事配転に怒ったり喜んだり。そんな悲喜こもごもを乗り越え、生計を維持してもらった会社に多少なりとも感謝の念を抱く人間の集まり。ということになろうか。
若干足りない部分もあるかもしれないが、それは人それぞれに感じ方が異なるので、足したり引いたりは個人の感情にお任せしよう。

ここ数年総会の議長を仰せつかっていて、限られた時間の中で議案を処理するソウカイ感を味わっている。
議案と言っても、会員総数300有余。今回の出席が110余り。予算総額が約400万円という程度の総会であり、元はみな同じ穴の狢(むじな)ならぬ同じ釜の飯のお陰を蒙った者の集まり。格別紛糾することもない、無風議事進行ではある。
そうはいっても議事進行役としては、あらかじめ執行部との綿密な打ち合わせや、議案の不備はないか、臆病者ゆえの下準備は抜かりない。

そんなことは置いといて。
 
   懇親会                    カンパーイ!!

懇親会場では、それぞれに旧知の仲間と円卓を囲む。
カンパ~イの声が掛かれば後はもう110余人の声が入り乱れ、あちこちで盛り上がる。呑んで食べて予定の時間が来る。
そのあとは、気の合った仲間がいて時間が許せば、今を盛りの花菖蒲を鑑賞し、公園の菖蒲祭りを散策するというお決まりのコース。

でもやがてそれさえ出席が叶わなくなる日が来ることは間違いない。などと後ろ向きな心配がふと頭をよぎる。
大いに楽しんでいる今、そんな先のことを考えなくても。と思うかたわら、議案書の後ろの方のページに去年1年の逝去者名簿が載っているのを見ると、エッ彼がもう? なんでこの人が? などと、永遠の別れが信じがたい人の名前もある。老少不定。

そうして一人合点の納得は『今が一番いい時』『今が旬、今を楽しまなければ』という結論になる。

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「一輪咲き」

2018年06月06日 | 季節の移ろい・出来事

                                       
                 今年一番のオーシャンブルー 一輪

梅雨と言いながらも、春雨のように糸を引く雨は今朝も降り続いていた。
起き抜けに新聞を取りに出た。カミサンが仕事の休みの日は、新聞を取り込むのは小生の役回りである。
薄いビニール袋が雨に濡れている。「かなり降ったのかな~」などと新聞配達の苦労よりも「新聞は濡れていないか」を気に掛ける能天気。

それぞれにビニール袋というカッパを着せられた三紙を、郵便受けから抜き取る。ひょいと見るともなしに目を上げると、見事なオーシャンブルーが一輪こちらを向いて咲いている。6月初めに早くも咲いた。「写真撮ってよ~」と言わんばかりにまともにこちらを向いている。
こんなのをカメラ目線といって、普段はあまり撮らないポーズである。取材写真などでは嫌われそうなほど、素直なカメラ目線ではある。

宿根のオーシャンブルー、またの名を琉球アサガオと呼ぶこの花は、ここ数年プランターで冬を越しては緑のカーテンを作り、日よけの恩恵と、見事な花を存分に楽しませてくれた。実に経済的な有り難いツル花である。
それが、この冬の雨不足の間、あるじがサボって水やりを怠ったようだ。プランターの土の入れ替えをするとき根が枯れかけていた。
まあ仕方ないとあきらめて新しく、一鉢350円を5個も買って新たに植えた。大枚を投資したのである。

ということは、投資をしたあるじの心意気に燃えて、これほど早く一輪咲かせてくれたのか。
それとも今また盛んに世間で言われている、あるじへの忖度によってこれほど早い一輪なのだろうか。などと思いを巡らせると、
落ち着くところ忖度の蔭にはカネの動きがあるのかな、などと、普段鈍感なあるじでさえちょっと思って見たくなる。

漢字で書けば「忖度」と「損得」まるで違っている。が、口語で云う「そんたく」と「そんとく」。なんかしら兄弟かな、血がつながっているようにも見える。犯罪の蔭に女あり、と昔から言われている。忖度の蔭に損得勘定がなければいいが・・・。

なんてつまらん話をしていたら、せっかく一番咲きの健気なオーシャンブルー一輪にケチをつけるところだった。アビナイアビナイ。

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