悪魔というタイトルで探したら、こんな絵が出て来た。
筆舌に尽くしがたい、理不尽で悲惨この上ない凶悪事件が、物語や空想の世界ではなく現実として起きる世の中である。
保護者に見守られ、同級生や先輩後輩と顔を合わせ、楽しい一日が始まろうとするスクールバスの待合所。子どもたちの笑顔があふれていたに違いない。
そんな、ごくありふれた日常の営みに、まさに突然『悪魔』が牙を剥いてやってきた。そんな構図が目に浮かぶ。そして胸が痛くなるほどの深い悲しみに沈む。やり場のない怒りがこみ上げる。
近くに住む娘家族の孫は小学4年生の男の子。運動神経抜群の活発さは持っているものの、静かに平然と近寄る悪魔の両手に握られた柳包丁に気づくすべは持ち合わせていないだろう。
来春から1年生になる倅家族の長女は、路線バスを利用しての通学となる。
そんな孫を持つジジとしては、今回の川崎市多摩区の「無差別殺傷事件」は他人事どころか、身につまされて言葉もない有様である。
何故こんなことが起こるのか。
言っても詮無きことながら、欲望に対しては脆い弱さを露呈する人間という生き物がうようよする地球上では、このような凶悪犯罪を完全になくしてしまうことは不可能なのだということか。
そんな馬鹿げた話があってはならない。無くさなければならない。ではいったい、何をどうするのか。決め手となる方策など持ち合わせていない。
えたいの知れぬ悪意によって人を襲う犯罪を「通り魔」と、江戸時代から呼ばれているという。悪意と通り魔を縮めるとまさしく「悪魔」そのもの。そんな悪魔の存在は現代社会に限らず、遠い昔から存在していたのである。それなのに今もって防ぐ手立てが見つかっていないという現実をみても、犯罪を根絶することの難しさを物語っている。
などと呑気なことを言っている場合ではない。この近くでクマが発見されただけであれほどの大騒ぎしたのに。
今回のような、病的な自殺テロの対策として何をなすべきか。決め手とまでは言わないが、幾つかの方法は浮かぶ。
子どもたちにとっては、通学時のおしゃべりも、小競り合いも、友達同士のコミニュケーションの大切な時間なのである。
完全に保護者が付きっ切りで送迎となると、そういった楽しみまで奪うことになる。
そうならないように、校区内に眠っている高齢者パワーと、保護者の悲壮感と、学校の教職員、三位一体となって「本気で子どもを守る」組織を作り上げてみるのはどうだろう。いずれにしても、それぞれの本気度がホンモノでなければならない。そして誰が旗を振るか。ウーン、やはり難しさはある。しかし流暢なことは言っていられない。なんとしても、模倣犯だけは避けたいものである。