「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「痛快丸かじり」

2025年02月02日 | 風物詩

     

2月の別称数ある中で、最もわかりやすかったのが「梅見月」であったような。
文字通り2月はウメがほころび芳香を放つ季節である。我が家の玄関先にある八重の白梅も今や遅しと、ほころぶ時季を待つように、つぼみを膨らませている。

例年より1日早い節分。冬から春への季節を分かつ日と言われるが、今年の場合は季節の分かれ目が近いとは思えないほどの大雪に見舞われている。同じ岩国市内でも、海岸線に沿う我が家周辺は雪ではなく雨であったが、少し山間部に入ると重い雪が降り続き、電線切断などで停電となったりしている。娘の嫁ぎ先など雪に閉ざされているという。昨日里帰りしたまではよかったが、帰りはひどい渋滞となったため、周南市方面まで遠回りしてやっと帰り着いたと話していた。

相変わらず食い意地の張っている食欲旺盛爺にとって、節分の楽しみといえば、大きな巻きずしを両手に持って、今年の恵方の西南西に向かって痛快丸かじり。お行儀とか年甲斐などを度外視して頬張る巻き寿司、それも我が家の味のお手製が腹を満たす。ついつい増え気味の体重を「今日ばかりは忘れよう」などと勝手を言っている。

数少ないというか、広くて浅い趣味の一つとして、只々続けて来たともいえる書くことが、ここにきて新たな友の輪を広げてくれる節分となっている。いずれも自筆のエッセイや自伝を送って頂いた。読み進むうちに刺激を受けたり勝手な自己評価をしたり、一人悦に入ったりしている。
そして、そっか~自分もまだまだ駆け出しらしく、これからもいい味が出せる努力はしていかないとね~。

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「天皇杯、男子駅伝」

2025年01月19日 | 風物詩

              
              天皇杯、広島男子駅伝。平和大通りを一斉にスタート

今やこの季節の風物詩ともいる、都道府県対抗男子駅伝.、こちらは天皇杯である。先ごろ京都を舞台に行われた同じく都道府県対抗女子駅伝は皇后杯となっている。
ほとんど知らない選手が走る駅伝競走ではあるが、日本全国都市対抗となれば、我が山口県は。お隣広島県は、東北勢のあの県は、九州勢は・・・など色んな興味が湧いてくる。

そして高校駅伝、ニューイヤー社会人駅伝、箱根大学駅伝それぞれに魅力満載だが、この全国駅伝は、中学生も走る、もちろん高校生から大学一般までという幅広い年齢層が7人1チームとなり、タスキをつなぐところに、面白さと残酷さと大きな試練が横たわっているのが魅力である。全学年揃って最高に力を発揮しなければ優勝はない。今大会は、長野県の史上初大会4連覇というすこぶるつきの優勝であった。

メンバーは年々入れ替わるのに、何で長野県は連続して強いのか。どうして他の府県が優勝戦線に名乗り出て来ないのか。これが不思議であり問題である。特に中学生区間などは入れ替わりが激しく、伝統を築くという思いがなかなか思い通りにいかないと、素人は思うのだが、やはり伝統的に強いチームは強い。指導者の長期展望に立った、長い目での選手指導・深い眼力による育成など、技量の多寡が影響するのだろうか。
そうしてみるとやはり、いい指導者との巡り合いという運命も大切な要素なのかもねー。

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「今年の年賀状事情」

2025年01月12日 | 風物詩

                  

年の初めの試しとて、元旦に寄せられる年賀状を楽しみに待つ。
はがきの大幅な値上げ、儀礼賀状の廃止、年賀状そのものの見直し、など色んな理由から年賀状が年々減ってきているのはよく承知している。単なる高齢のため賀状を辞めたいといった、分かったような分かりにくい理由でお断りをされる人もある。

私個人の今年の年賀状事情は、これこそ年々減る一方で、100枚ちょっとを出したに過ぎない。もちろんその中には返信を期待しない一方通行発信も数枚はある。予想通り80枚はそれなりの返信が寄せられた。ただ、こちらは同じ出すのなら元旦に届くように準備をした。が、6日以降に届いたものが10数枚もある。今年の賀状の特筆すべきことは「今年をもって年賀状を終いとさせて頂きたい」といった内容が多いことである。それも遥か年の若い後輩から三行半を突き付けられてりゃ世話はない。またその逆に賀状復活という同級生もいる。

中には一切の連絡がないまま正月が過ぎ、オレの出した年賀状が届いていないんじゃないか、郵便局に掛け合ってみようかと思わせる相手もいる。
おもろいというか嗤ってしまうといったものから、心から嬉しかったり「な~んだ生きていたのか」と喜んだり、また今年もお互い元気で頑張ってみようや、といったものまでそれぞれの事情が反映されていて、結局はやはり年に一度のお互いの消息確認、決して無駄ではないなという結論に至る。そして来年も生きていればまた愚直に発信するのだろう。ただ、来年は今年の反省から発信は半分近くになりそうだ。

年を重ねた我々は、大袈裟に言えば1年1年が勝負なのである。「まだ生きて元気にしとるよ」「少し弱ったが、会いたいよ」と伝え合うのは大切な命の絆であり、長い付き合いのエチケットみたいなものだと思っている。やっぱり、古~~い人間なのでしょうかね~。

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「ふる里のとんど祭り」

2025年01月11日 | 風物詩

                                  
                         

私の住む町のすぐお隣には、古くから受け継がれた「とんど祭り」が今も盛んに行われている。
「とんど祭り」は言うまでもなく、年神様を迎え入れるために飾った玄関のしめ飾りや、古くなったお守りやお札、書初めなどを焚き上げて天に返そうという神事で、地域の安定と繁栄を願うお祭である。
今年も地域住民の願いを込めて、地元神楽団の舞い奉納とコラボレーションで、見事な炎の競演が行われた。

知己が沢山いることもあって、我が家のとんど祭りも隣町まで出向いてお焚き上げの便を借りている。もっとも、我が済む地区にそんな気の利いた祭りなど一切ない。そして今ひとつ、地域の活動の広報担当という側面もあって、こういった地域活の写真撮影担当を担っている。
長く続けて見ていると、微妙なところで色んな変化が目につくようになった。良くも悪くも役員さんの入れ替わりの激しい時代で、一つひとつの行事に習熟したベテランがなかなか育たないという弱点はある。

新しいことを取り入れるのは結構。ただそこには伝統として古くから受け継がれた風習や故事来歴を大事にしたうえで、近代感覚を取り込んだ改革は必要である。生活そのものが超便利な時代になったことによって、こういったお祭りやふる里行事まで、簡単便利に走り過ぎると、行事そのものが味気なくなったり、人情味という妙味に欠けたりもする。そんなことを迂闊に注意すると「ならばあんたがやればいい」という短絡な話になり兼ねない。伝統を守るのも容易ではない。新しいことに突っ走り過ぎると周囲の賛成を欠く。

年々実行するのは大変なエネルギーである。だから現代知識を盛り込んで省エネし簡素化するのは大いに結構。そうやって世代を超えた人の集まりが生まれ、人間同士の付き合いが育まれる小地域社会の構成が進むなら、この世の中もう少しは呼吸がしやすくなるかも。マンション単位で餅つきをして住民全員に配ったという新勢力も生まれたと聞く。まんざら捨てたもんじゃないね。                     

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「穏やかな年明け」

2025年01月02日 | 風物詩

                                                

令和7年、2025年の幕開け。元旦、二日と実に穏やかで素晴らしいお天気に恵まれている。ここ瀬戸内地方に住む有難さを改めて享受している。一年の計は元旦にありと言われるように、世界情勢・国内情勢難問山積ではあるが、この穏やかな今年のスタート併せて、紛争解決や一国主義の横暴などない一年になると有難い。なってほしい。
トランプ政権誕生という世界秩序の混乱が懸念される今年。この穏やかさが「嵐の前の静けさ」でないことを祈りたい。

ここ瀬戸内の穏やかさを喜ぶ気持ちがあるにはあるが、荒れる日本海側の厳しい風と吹雪の寒さ、そして昨年1月1日発生の能登半島地震・津波、そして大雨洪水被災などの復興を待つ人々の難儀に思いを馳せると、何かにつけて手放しで喜べない鬱屈を感じている。 

正月遊びの中で、様々なトランプ遊びをしてみるが、なかなか思うようにはいかない。それどころかとんでもない占いが出たりする。おっとろしいことである。
正月の里帰りで久しぶりに顔を合わせる孫君もいる。従妹同士の再会に湧き上がっている。
この子たちの将来に果てしない安定が訪れ、続くことを心から願う年の初めである。                                                 

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「お邪魔のいない餅つき」

2024年12月28日 | 風物詩

          

今日を入れてあと4つ寝るとお正月、なんてのはあまりにも子供っぽいが、買い物などに出かけると繰り返し繰り返しこんな歌が流れてくる。
12月28日、この日の我が家は随分昔から餅つきの日と決めて来たようだ。今日も朝から頑張った。といっても実際に頑張るのは餅つき機という器械がウイーンと唸りながら、蒸したお米を餅にしている。

つき上がったら、小さな手が4本伸びてきて、白い片栗粉を周囲に飛ばしながら「おもちって熱いね」とか言いながら半分はお邪魔虫なのだが、ガマンして「上手に出来たね」などと楽しんだ。そんな孫のいる餅つきはここ最近なくなったね~。そりゃそうだ、冬休みに入ったらいち早く我が家にやってきて、食い荒らしていた近くの孫君はもう半大人になってしまった。少し遠くに住む可愛い方の手は明後日にならないとやって来ない。

お鏡餅などというお供え物は、お供えする日も仕舞うひもおよそ決めごとがあるのだから、そんなしきたりを守るためには、お邪魔虫も手助けもないまま二人っきりでもこの日に餅をつくことになる。
そして正月を迎えると、今年は新たな世界を生きる孫君が二人戻ってくる。さてどんな話が聞けるのか楽しみだ。幼い頃はジジの感覚で育てようとした時期もあったが、今では完全に大人の感覚で大人の仕事をしながら、未だ少ない経験ではあるがどんなことを感じ、どのように軌道修正するのかしないのか。こんな話こそが彼らからジジに贈られるお年玉である。

そう云えばこの正月から、お年玉の大口二人が卒業してくれた。やれやれ。

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「小生、この1年の一字」

2024年12月14日 | 風物詩
   令和6年、今年の一字
       
この1年を一字で表すと。京都清水寺の貫主さんは「金」と揮毫された。
確かに、パリの地で掲げた金メダルラッシュ。まさしく表の金であり誇りに思う金・ゴールドである。同じ金でも手垢にまみれた、薄汚れた金もある。メダルラッシュのゴールドに対して政治資金規正法違反ラッシュのマネーである。同じ金と呼ばれても、そこには大きな差があるものだ。但し札束が薄汚れているわけではない。使いこなす人の利害が絡むとちょっとねー。

今一つ最低賃金にからむ所得の大幅アップ103万円問題もあった。金にまつわる一大政治課題である。どこかに溜まりこんでいるお金を所得アップという形で分配すれば、間違いなく街に笑顔があふれ、消費が伸び税収も増えて国情そのものが豊かに見える。私たちの世代は、働き盛りのころにそんな恩恵をこうむった記憶が強く残っている。ま、金の一字はおいといて。

さてあなたの一字は何でしょう。十人十色、百人百色。人それぞれ色んな思いがある。師走半ば、ゆっくり振り返って自分の一字を考えてみるのもいいね。
時分に当てはめてみると、何やかや忙しさに追われた「忙」が先ず頭に浮かぶ。趣味であれこれ認めた随筆やブログなど「認」、物騒な闇バイトによる強盗事件では「闇」と「怖」などなど。この一年を駆け抜けたそれぞれの思いが改めて浮かんでは消え消えては浮かぶ。

そしてトドのつまりは、中三の孫君の進路選択に対するジジの思いがある。
名前は悠雅だから「悠」の字も候補ではある。が、やはりこの時期同じ「ゆう」でも「勇」の字はジジのこの一年の一字である。野球が好きでたまらない野球の虫であるなら、勇気をもってその道に邁進すればいい。特待生として声が掛かったのなら、勇猛果敢にチャレンジしてその高校の星になる努力をしてほしい。何のことはない、今年の自分の一字を見つけるはずが結局、孫君とともに燃える来年に備えての一字になってしまったようだ。苦笑。
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「雲隠れにし・・・」

2024年10月17日 | 風物詩

                

今宵は、満月の中でも旧暦9月の最も美しいと言われる満月である。その上地球に一番接近して大きく見える上にきれいな、超の付くスーパームーンという触れ込みに誘われて、夕方あたりから少し期待しながら月の出を待った。

でも内心は、この雲の厚さじゃいくらスーパームーンと言えども、地上に待つ私の目に届かないのではないかと、ある程度覚悟をしていた。日暮れとともに益々雲は厚くなるばかり。結局期待も当ても外れてしまった。ただ早くから全面的な期待をかけていたわけじゃないので、ま、しゃーないかと言った程度の当て外れでもあった。そんなことを考えていたら、頭の中を久しぶりに百人一種が駆け巡った。

中でも月にまつわる歌が、上の句下の句別々にあれこれ浮かんでは消える。
そんな中でもただこれだけは他人に譲れない、いわゆる十八番(おはこ)で絶対に自分で取る、月を詠んだ歌がある。「光る君へ」ではないが万葉の世界、紫式部の作品である。
❝ めぐりあいて 見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな ❞ 

今宵の場合は、巡り合えないままに雲に隠れてその余韻も浸れなかったスーパームーン。あきらめるより仕方がないね。やはり当ては外れないのに越したことはない。でも外れることの方が多い人生もある。

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「やはり秋の象徴」

2024年09月17日 | 風物詩

  

          

         ❝ お風呂屋 の窓で眺めたお月さま ボクの家まで ついてきた ❞

まだ随分若い頃「子供でも才能のある子はこんな傑作が詠めるんだね」などと、おふくろがちょっと皮肉っぽく教えてくれたのを思い出す。
毎年訪れる秋を象徴する中秋の名月を、こんなちょっぴり落ち込む感情を秘めて見上げている。

夕方に立て込んだ用件を済ませ、急いで夕ご飯を頂き目的地に急いだ。クルマから見えるお月さまはもうかなり昇っているではないか、さらに急いだ。いつも使っている近くの駐車場に停めて目的の会場へ。地域の観月茶会をやっているはずであった。やっていない。名水百選に選ばれている親水公園は真っ暗け。お茶席も観月吟詠大会のステージもない。電灯と言えば公園お手洗いの防犯灯だけ。

あの伝統を守り続けた親水公園の観月茶会さえ、世話をする人たちがいなくなったということか。
そんな肝心な情報も得ずに「やっているだろう」と勝手に決め込んで、夕方の汗をものともせず慌てふためいて出かけて、がっかりの面持ちで駐車場から中秋の名月をカメラに納めたら、何のことはない雲に半分隠されていた。
改めて我が家の二階の窓から撮ったお月さまが、まさに中秋のまん丸名月が撮れた。

名月一つをめぐっても、そんなこんなが付きまとうようになった。そんなお年頃なんじゃろうね。

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「ふる里の夏、盆踊り」

2024年08月05日 | 風物詩

     
                  孫さんたちの住む町とは異なる夏休み風景 盆踊り会場
       自治会による出店 定番ヨーヨー吊り             景品たくさんの輪投げ               

       
           櫓上の音頭はともかく、下の太鼓は年季が入っていた

この夏休み、二度目の里帰りをした孫姉妹。目的の一つは、嫁さん側のおばあちゃんの提案で、嫁さん三姉妹の家族が一堂に会して一泊二日で遊ぼうということになったらしい。それも日本三景の一つ安芸の宮島にゆったり一泊。宮島水族館見物や廿日市市の大型プールなど豪華に過ごして戻って来た。

そんな彼女たちに、爺ちゃん推奨の、素朴で昔ながらのふる里盆踊りなんかはどうかなとの思いもあったが、そこは小5と小1の姉妹。遊ぶことなら大歓迎で「行く行く!」と大はしゃぎ。
自治会手作りのお祭盆踊り。チケットを買って、ヨーヨー吊り、スーパーボール掬い、景品が豊富な輪投げゲーム。かき氷に至っては早くに氷がなくなって売り切れでお終い。ここらあたりの緩さ加減がふる里盆踊りの真骨頂でもある。その分払い戻しにおおわらわ(笑)

ただ、主催する自治会連合会の高齢化や人手不足は顕著である。その分を地元中学校と連携している。
1年2年の中学生男女が大勢でお手伝いしている。これは一計であり集まる子どもたちも、手伝いの中学生にとっても張り合いのある一晩であり、思い出を作っているようだ。

古来の「岩国音頭」という特異な節回しと太鼓のリズムで、櫓を囲んで自由に踊る。元々は戦没者を慰める慰霊盆踊りが広がり、どこの小さな自治会でもこの時季に行われていた。それも遠い昔の話となり、今では何地区かが合同で行っている。東北地方に、ねぶたや竿灯祭りがあって盛り上がるように、スケールこそまるで小さいが、みんなが一緒になって楽しめるこのようなふる里盆踊りは、受け次いで残したい季節の行事である。

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