「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「和製キムチに挑戦」

2016年02月29日 | 地域活動

         

「男の料理教室」の予定日でもな本日。仲間に誘われるまま、特別メニューの「和製キムチづくり」に参加した。
例によって、簡単な作り方の説明が終わったらすぐに実践に取り掛かる。
新米のアタシは、簡単な説明だけではみんなについていけない。レシピをじっくり見直したいが、そんな余裕もない。

ここではみんな先輩ばかり。食生活改善推進協議会のおばちゃん先生を尻目に、先走るベテランも中にはいる。
それでも今日は、ルーティンの料理教室ではないのだから、と手慣れた先輩仲間に割って入る。
でもやっぱり、大量の白菜を5cm角に切るのは、包丁さばきのいいベテランが。

「ニンジンは、包丁の刃を直角に滑らせて薄く皮を剥いてね」「ピーラー使わないの?」「ウン、包丁よ」
前回の料理教室では確かにピーラー使ったのに・・・と思うが、必要ないと言われれば仕方がない。
「皮が剥けたら、3~4cmの長さで、できるだけ細い千切りに」。頑張るしかない。

そうこうするうちに白菜の塩漬けが出来上がり。これは約2時間放置して、白菜と塩が馴染むのを待つ。
その間、ニンジン・ネギ・ニラ・ニンニク・イカの塩辛などにトウガラシを混ぜ、真っ赤になったキムチの素みたいなのを作る。
「今日は4年に1度訪れるニンニクの日なんよ」とジョークを飛ばしてみるが、受けはイマイチ。そんな冗談など消し飛ぶほどみんな真剣。

おおよその原料が出来上がり、白菜の待ち時間を利用して、あらかじめ仕込んであった炊き込みご飯で、各自おにぎりを。
「今日のご飯は、トマトジュースで味付けしました。健康食品の一つでーす」と。
エー、ご飯もトマトで炊くのかと驚く。そうしているうちにすべてが完成。約1kgのお手製キムチを頂いて帰った。

それにしてもキムチ一つ作るのに、なんと多くの手間ひまをかけ、多くの材料を混ぜ、順番を間違えんように作り上げるものだ。
こっちは一箸付けただけで「甘いなー、辛いなー」などと勝手なことを言っているだけでいい。気楽なもんだ。
材料調達から調味料一式、しかも人数に合わせた分量を、ち密に頭の中で計算する。そして1円でも安いところを狙って。
そんな毎日を繰り返す主婦の底力。やっぱり「舐めたらあかんなー」

今さら気づいても遅いことは重々承知。それにしても、台所とは夢が広がる面白いところではある。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「最後の音楽会」

2016年02月27日 | 家族・孫話

      
           演奏開始、ヨーイ! (前列中央が悠雅君)             ちゃんと5本の指を使って  

3年という長き幼稚園生活がいよいよ終わりを告げる「最後の音楽会」を迎えた孫三男坊の悠雅君。
昨年の年中さんでは大太鼓を叩かせてもらった。今年はピアニカの演奏を。ちゃんと5本の指を使ってキーボードを押さえていた。
ジジのパソコンキーボード操作とはえらい違いである。器用に演奏をこなし、珍しく神妙な顔でジジのカメラに視線を向けた。
ドラムを叩く男の子に向かって、親指立てて「がんばれよ」と声を掛けていた。ここらあたりにも確かな成長の跡を見せてくれる。

しかしながら、あれだけ上手に演奏できるピアニカでさえ、我が家では一切そんな素振りも見せないし、口にも出さない。
「音楽会では何を歌うの?」と尋ねても「よーわからん、知らん」などとすっとぼける。
それでいて歌うとなったら、誰よりも大きな声をだし、身体を揺すり、リズムに乗って歌ってる。一風変わった6歳児。
こんなところが、世に言う「三男坊の我がままと偏屈なところ」なのだろうか。そんなところにまた大きな魅力を感じるジジである。 

          
                みんなと肩を組んで、幼稚園最後の音楽会フィナーレ!

慣れ親しんだ仲間との音楽会も最後だと思ったのか、満面の笑顔で肩を組んで大声で歌っていた。
プログラムは、当然ながら最後に登場するのが悠雅君たち年長さん。その整然とした態度も演技力も、安心して見ていられる。
その前にステージに上がった年中さんの、なんとまあ落ち着かないこと、まとまりのないこと。苦笑もするが目を覆いたくなる部分もある。

年長さんはほとんどが6歳。年中さんはまだ5歳。その差たった1年なのに、6歳と5歳の1年間の違いはこれほどのものかと驚かされる。
そういえば悠雅君たちも、1年前はあっち向いたり、座り込んだりして、演奏も歌も何もしない子が何人かいた。
その時は「親の顔が見たい」などと眉をひそめた記憶がある。だから今の年中さんも来年2月末の音楽会では見違えるほど、凛々しく成長していることだろう。

我が身が歳を取るのを忘れて、子らの成長に思いが行き、何かしら微笑ましくなってくる。
そういえば、年少さんであった悠雅君は、音楽会のステージに上がるには上がったものの、足首が痛くて立てないと言い張って、椅子に座ったままダンマリを通し、澄ました顔で帰ってきて、家ではサッカーしたこともあったな~。

やんちゃで我がまま三男坊も、いよいよランドセル背負って小学生になるんだな~。
三人の孫が全てジジ・ババの手を借りて成長してきた。これで幼稚園とも当面縁が切れるかと思うと、ホッと胸を撫で下ろすような、淋しいような。
4月からは、小・中・高それぞれに応援に行くことになる。これはこれでまた大いに楽しみというもの。

もちろん、幼稚園の候補生姫孫もいる。やっぱりもうしばらく元気で彼や彼女を見守りたい。トレーニングルームに足繁く通わないと・・・。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「春待ち月」

2016年02月23日 | つれづれ噺

              
                      2月23日の夜空に浮かぶ、いざよい月

昨夜が如月(きさらぎ)の満月。そして今宵は十六夜(いざよい)の月が、周りの雲と協調しながら中天高く冴えている。
2月の夜空に浮かぶ満月。なんと表現したらいいのか迷うほどの孤高の美しさを秘めている。
そんな見事な月に自己流の命名をしてみたくなった。
この際勝手に「春待ち月」と名付けてみた。何かの差しさわりがあってはならないと、その後辞書をひもといた。

案の定、「春待月」とは陰暦の12月のことを言う、とある。つまり春を待つ夜空に浮かぶ月を言い表すのではないことが判った。
それを承知の上で、敢えて、詩的感覚で名付けたのが「春待ち月」である。凡人の住む下界を明るく照らす、今宵のあの月灯り。
月を褒めるには確かに季節違いであることも承知の上である。なのに何故このタイミングでお月様か??

昼間の友との会話を思い出しながら、ふと見上げた夜空に浮かぶ、やや色白なお月様。
周囲の雲を脇役に仕立て上げ、少し寒そうではあるが、我が身の存在と輪郭はちゃんと引き立たせている様子に何かを連想した。
思いもよらぬ事態になり兼ねない由。確かな見解はもう少し先なので、この時点では何も確定されているわけではない。
しかし、人間の心理としては、不安が不安を呼び落ち込んでしまうのも無理からぬ話である。

こういった危機感を我が身に置き換えたとき、一体どのような心理状態になるのだろう。
そういった想像的な話は、この時点では控えるべきだと思うからその先は文字にはしないが、色々複雑な思いに駆られるのは確かである、と思う。
そんなときどうやって自らを鼓舞するのだろうか、という点は考えてしまう。
実際にその場に立った者にしか理解できない心境なのだから、軽々にあれこれ言えることではない。それも承知している。

その上で、多くの友や仲間が勝手に想像するように、少なくとも自分よりは長生きして欲しい。そしていつまでも、今の状態そのままに、楽しい時間をともに過ごし、知性あふれる笑いで引っ張って行って欲しい、などと願うことは皆共通していることだと信じている。

月並な言葉にしかならないが、『立ち向かいましょうや』 『共に闘いましょうや』と、月に向かって吠えてみる。
手の届かない天空に冴える月に、下界から贈れるものはささやかな応援の言葉しかない。路傍の石は月にはなれない。
そんな如月の満月に、暖かい春の訪れを託して『春待ち月』とは、我ながら佳き命名である。ということにしておこう。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「協という字」

2016年02月18日 | 地域活動

          

近頃色んな場でお目にかかることの多い「協」という字。
力という字が3つあって、それを足すと書かれている。字面を見ただけでなんとなくうなずけるような意味合いを感じる。
さらに、協商・協伸・協信・協進・協定・協同・協約など、協の字が使われている述語はたくさんある。

そんな中でも「協働」・「協育」という言葉が新鮮な感覚で耳に飛び込んでくる。
もともと「協働」という言葉は、「コラボレーション」という意味を持ち、異なる二つ以上のものが、同じ目的で協力し合うことのようである。
「今夜はトランペットと二胡のコラボレーションが楽しめる」などと用いる。

さらに進めると、立場の異なる人と人が、支え合い助け合って生活する「人間同士の触れ合い」にも協働という言葉が使われている。
「協働」は高齢化が進み、一人暮らしの高齢者が多くなった社会現象に欠かせない「互助・共助」の精神文化と言えようか。
突発的自然災害からの救助、ゴミ出しや買い物の支援など、どうかすると行政だけでは補えない部分を、民間有志が立ち上がって住みよい街づくりを考えようということのような。

今一つ「協育」とは、「今日行くところがあるか」という「きょういく」ではない。
学校を中心として、親も地域社会も、行政も一緒に協力して、地域の子どもたちを健全に育て上げようという取組である。
こちらも、学校や行政だけでは満足な施策が出来ない部分を、民間が協力するネットワークを作って学校教育をサポートするのである。
高齢化とは異なって、少子化なのだから、教育は十分行き届きそうなものだが、親の教育力の低下と、我が子の教育に時間をかけられない若い世代の生活様式の変化が見え隠れする。

「協働」も「協育」もこれからの社会生活に欠かせない重要性を帯びてくるのだろう。
では誰がどのような形で、何をするのか。これが問題であり、完全実施に至るまでには多くの課題がある。
でも、いつかは、どこかで、誰かが、やらなきゃならないことであることも理解できる。

「向こう三軒両隣」のお付き合いが希薄になり、小集団活動の基礎である自治会活動が弱体化した現在。
さてどうやって「協働」や「協育」の流れを作っていくのか。難しい世の中になったものだ。
さてどうする?誰がやるのが一番の適役なの? あまり声を上げると、天に向かったツバすることになり兼ねない。クワバラ、クワバラ。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「東風吹かば・・・」

2016年02月13日 | 季節の移ろい・出来事

                     
                         見事にほころんだ梅の花 

今年も梅がほころび、名状しがたい芳香に思わず “  東風吹かば 匂い起こせよ梅の花 ・・・ ・・・” などと詠ってみたくなる。
年長の孫三男坊が、「梅がきれいじゃね、匂いがいいね」などと、珍しくしおらしいことを言う。これには大笑い。

小さな庭にある小さな梅の木ではあるが、毎年、季節が来ると見事に花を咲かせ、佳き香りを振りまいてくれるのは有難いものだ。
特に今年は、高校受験にチャレンジする孫の動静が気にかかって、同じ梅なのに何故か例年以上に立派な花を付けたように思いたくなる。
応援する気持ちが段々エスカレートして、『風雪に耐えねば咲かぬ梅の花』 などと、古めかしいが言い得て妙がある言葉を贈りたくなる。

小学校高学年からずっと、色んなことに負けずに頑張ってきたのを目の当たりにしているジジとしては、辛さに耐えたものには必ず春が来る。だからきっといい結果が出る。それを信じて思いっきりぶつかれ。と言いたいのだが、贈られた方は「なんのこっちゃ」と思うのが関の山なのだろうか。
まあそれはそれでいい。兎に角今年の梅は一段とよく咲いた。彼に対する吉兆と受け止めよう。

そんな梅の花に誘われたわけでもないが、知人からお誘いを受けていた「いけばな、池坊展」に出向いた。
“花の道 育てよう 未来へ”とのテーマで行われた今回の華展。
なんと100人を超える岩国支部員の手による、100種類を超える見事な生け花が展示されていた。

季節の花、梅を筆頭に椿や木瓜、ふくらみかけたネコヤナギのつぼみなど、それはそれはうっとりする眺めであった。
そして、生け花とは、ある意味残酷な思いのする芸術であることにふと思い至った。
咲きかけの木瓜や、無数のつぼみが付いた梅の枝や桜などを、惜しげもなく切り刻んで窮屈な花瓶に挿し込んである。
と思ってじっくり眺めていたら、もう一つ別なことを思い出した。

木も花も全て命を以てこの世に生を受けたのである。その命をもっと輝かせるために、華道という、人の手によって生み出される芸術の域が生まれる。だから、たとえ一枚の葉っぱも、一輪の花も、仇やおろそかに扱ってはいけない。と聞かされていたことを。
そう考えると、持って生まれた命をさらに手を加えることで昇華させる生け花展。ちょっと洒落たいい時間を持てた。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「丸い卵も・・・」

2016年02月11日 | つれづれ噺

       

       “ 丸い卵も 切りようで四角 ものも言いようで 角が立つ ”   

言い古された言葉ではあるが、改めて思い知らされるような笑い話に出会った。

中学校同期会の幹事仲間にとっても気のいい男がいる。
閑に任せて同級生の家を頻繁に訪れ、元気に働く仲間はその動向を。病気に悩んでいる者はその病状を。定期的に我が家にやって来て報告してくれる。実に有り難い存在。陰の幹事長と言っても差し支えないくらいの小まめな彼。今日も午後からやって来た。

「オーイ、家庭訪問してきたよ~」というのが彼の挨拶である。
「誰と誰のところへ行ったの?」訊く間もなく、事細かな説明が始まる。
誰それはこうこうした病気で入院をしてもう退院した。誰それは仕事を息子に譲って引退したのだが、ここんところ忙しくてまた仕事を手伝っているので職場を訪ねた。そろそろ一杯やろうという声が上がってきよるで・・・などなど。

そんな情報を持って、わざわざ来てくれたのだと思い込み「ありがとう」などと感謝の気持ちで聞いている。
するとボソッと一言。「火曜日と木曜日は昼からのテレビの面白いのが全くないんよ・・・ 」と、のたまう。
ナヌッ?テレビの面白いのがないから俺んちに来たのか?俺はアンタと違って忙しいんだぜ! とは言わない。
「そうか~木曜日は面白いテレビがないのか~」というと、今度はしばらくテレビの番組談議になる。

嫌みがなくて、茫洋とした彼は、誰のところでも気軽に訪問し、他愛ないおしゃべりでダラダラっと引き上げる。
そんな気安さがみんなから愛されている。気を許せるのか、なんでも話してくれるようだ。
それにしても「テレビの面白いのがないから来たよ・・・」などと言わなきゃかっこいいのに、と思う。そう思うのはこちらだけで、彼にはそんな頓着はない。誠にのんきないいキャラである。腹など立てたらこっちがバッカみたい。

中には、こちらの言うことすべてに『否定形』で返事をしてくる人はゴマンといる。
そういった悪癖に比べれば、同じ「ものも言いようで角が立つ」とはいっても、彼の「ボソッと」は可愛いものである。
「そうじゃないんよ・・・」「それは違うんじゃない?」などと、否定形で切り返すクセの持ち主。そこのアナタ、ご用心あそばせ。知らず知らずのうちに、うとまれているかもよ。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新たな旗揚げ」

2016年02月08日 | 晴耕雨読

                     

定年退職から14年目となる春を迎えた。
その間、6年近くはパートタイマーとしてお小遣いくらいは自分の手でまかなってきた。
それ以外は、わりと気ままに、趣味の世界やおせっかい、はたまた地域活動などに多くの時間をさいてきた。

そして今また、これまでに人が手掛けていない新たな分野の活動を旗揚げしようという、奇特なご仁からのお誘いを受けた。
何はともあれ、一歩を踏み出さないことには、何も見えてこない、という自身の基本姿勢から、片棒を担ごうと前向きになっている。
お誘いと言えばかっこいいが、半分は、そそのかされたのかなーなどと思う側面を感じながらであはあるが、相槌を打ち、これから漕ぎ出す船に片足を乗せた。
引き返そうと思えば引き返せるが、運命共同体、吉と出るか凶と出るか、岸を離れてみなければ判らない楽しみはある。
それに、今までもお誘いに乗って、大きな得をすることはあっても損をしたことなど一度もないという、『大いなる実績?』が証明している。

今回のご提案も、一見おせっかいとも思える「他人のお世話を買って出る」といったような、まさしくボランティア活動の一つと思われる。
が、所詮きらいではないこの性格。ただ付いていくだけかもしれないが、そこにはやはり何らかの知恵の出し場もあろうというもの。
もっとも出番などなくて元々。それほど時間に追われる日々を過ごしているわけではない。もちろん退屈するほどのひまもないのだが。

少しでも興味を示す方、お暇がある方もない方も、お金がある方も無い方も、何はともあれ先ずは少しだけ興味を持って頂きたい。
なにをするというのか、何を企んでいるのか。
最初にしっかりと断っておくが「詐欺」でもなければ「ウソ電話」のたぐいの話しなどでは決してないのでご安心を。善良なる市民活動である。

時間を上手に遣う。楽しみながら時を遊ぶ。そんなヒントを与えながら一緒に遊びませんか、と呼びかけるグループ結成。
名付けて『時遊塾』という新型塾を開こうというお誘い、「旗揚げ」である。
文字通り、時を遊ぶ。つまり無為に過ごし勝ちな時間を、ちょっとした気配り・目配りで有効に、しかも世のため人のため、自分のため・・・という効果が望める「時遊塾」。メニューも幅広い腹案がある。たとえば「自分史を書いてみませんか」そのノウハウの基本から製本仕上げまで、一貫施行を、自分自身の手でやる行程をご一緒しましょう。という発想である。飽くまでもこれは一例であって、他にも盛りだくさん。

実際の活動開始は4月半ばを予定。このブログはあくまでも『予告』ということで、発案者の許可もなく勝手に吹聴した次第。
そのうち、本格的なPRに乗り出す時期を “乞う、ご期待!!”

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「やっぱり神頼み」

2016年02月07日 | 家族・孫話

                 
                   4人の笑顔、ないよりも妙薬。

わが家の大事な跡取り息子が、数え年42歳、男の本厄を迎えた。
厄とは、災難や思わぬ障碍に出くわす可能性が高いことを意味するらしい。
人の一生の中で、厄と呼ばれる歳回りが何回か訪れる。出来ることならそういった忌み嫌われる歳回りをなんとか無事に通り越したいと思う。
たとえ小さなことでも遭わなくて済むことなら、何事もなく過ごせるのが一番いいに決まっている。

となればどうするか。ここはやはり神頼み以外にはないようだ。
いっくら自分自身の行動を慎重にし、いわゆる気を付けたとしても人間の力には限界がある。
人智の及ばない大きな宇宙の中で活かされている一人の人間。目には見えないが、間違いなく存在する大きな力に救いを求める。これまた人情である。

神前に額づいて、災難排除、無病息災の奏上もしてきた。
今や一人の身ではなく、可愛い姫の親であり、夫であり、一家の主・亭主なのである。それなりの責任は言うに及ばず。
ひとえに、元気で仕事して家族の安穏を守ると同時に、人間としての己を磨いていく・・・などと小難しいことを言うから、少し、いや大いに疎まれる親父であるが、やはりたとえ疎まれても、そういった主張を貫かなきゃならいのも「オヤジ」という立場なのだろう。

ささやかな歳祝いに顔をそろえる孫たち4人の笑顔は、4人にとっての4人の親、そしてジジババにとって、何もにも替え難い活力源である。
この笑顔を絶やさないよう努力し続けてもらわなければならない。
そのためには、我々ジジババのことは取り敢えず考えなくていい。我々夫婦にはまたそれなりの生きる道はある。

などと、小言とも愚痴ともつかぬ駄弁を弄してみるが、しょせんは神仏に頼るしかない。
思い上がって「オレは大丈夫」などとふんぞり返るより、少しのしおらしさや可愛げがある人間を、神さまは好むであろうと信じたい。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「お好みに合わせて」

2016年02月03日 | 季節の移ろい・出来事

                   

いよいよ厳寒からの脱出を期待させる大寒最後の日、節分。明日は「寒明け」、「春立つ日」となっている。
小寒大寒と続いた1年中で最も寒い時季に別れを告げ、寒が明けていよいよ『立春』
なんとなしではあるが、春という字を見つけたり書いたりしていると、気持ちが前向きになる思いがする。

そんな手始めが先ずは節分の「豆まき」であり、「恵方に向かって太巻ずしの丸かじり」という図式なのだろう。
こうして食べる太巻ずしを「恵方巻き」と呼ぶようになって久しい。
恵方巻き(えほうまき)とは、節分に食べると縁起が良いとされている「太巻きずし」を切らずに、丸かじりする習慣。
「恵方巻」という名称は、1998年(平成10年)にセブンイレブンが全国発売にあたり、商品名に「丸かぶり寿司 恵方巻」と名付けたことにより広まったとされている。
それ以前は「丸かぶり寿司」「節分の巻きずし」「幸運巻寿司」などと呼ばれていたことが文献で分かるが、「恵方巻」と呼ばれていたという文献類は見つかっていない。

というようないきさつで、商魂たくましい全国区のコンビニエンスストアの発想に乗せられている、ということである。
それにしても、日本古来の風習であることも確か。
そんなこんなで、我が家も太巻ずしを作った。「田舎巻き」が口に合わない孫のために、サラダ巻き。ちらしずし、それにお稲荷さんまで。
本来ならたった2本あれば十分なものを、それぞれの好みに合わせて、多種類大量に作る。

そうなると、こんな頼りないお父さんの手でも猫よりは益し、とばかりに台所に立つ。
しかもこの日のお父さんは、午前中「男性料理教室」で包丁を使い、試食会で舌鼓。食器を洗ってきたばかり。
そうはいっても、主役など10年早い話し。でも周りをウロウロしながら下てご(手伝い)くらいはできる。
巻ずし1本用のご飯を計量する。巻き上がった寿司を別のテーブルに並べる。

夕方取りに来た娘たちに、「ジジババの合作」と、一応念を押して手渡す。
何はともあれ、向こう一年、無病息災、自分の思いが遂げられる生き方をするんよ・・・との願いを込めて。

二人っきりの静かな夜に入って、「オニはそと~~」「福はウチ~~」小袋入りの豆をまく。
恵方と言われる、「古くは正月の神様が来臨する方角。その年の歳徳神のいる方角」に向かって、太巻ずしにかぶりつく。
この時ばかりは、自身のそして、互いの無病息災を願って・・・。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「如月スタート」

2016年02月01日 | つれづれ噺

                               

 早くもカレンダーを1枚破って、如月(きさらぎ)2月に入った。
ついこの前まで、なんとなく正月気分が抜けないまま、まあもう少しゆっくりしてから本腰を入れよう、などと思っていたのに。
確実に分を刻み、時は流れていく、それも思いのほか早く。

1月から2月への変わり目。
立春目前ではあるがまだ寒の最中。つい身も心も縮こまり勝ち。背筋がシャンと伸びてないなーと思うことしばしば。
新たな歳を重ねたことだし、身近にチャレンジ出来る目新しいことは何かないか、周囲を見渡してみる。
格別なこともないような、結構あれこれやってきているな~などと、自分の視野の狭さに気付かないでいる。

久しぶりに体重計に乗った。なんと、知らないうちに体重アップ。それも自己記録を大幅に更新、我が人生の体重新記録ではないか。
昨年秋の定期健康診断では、昨年一昨年に比べて確かに1kgは増えていた。
ところが、正月餅の食べ過ぎか、運動不足のなれの果てか、2ヶ月そこそこで2kg近く確実に増えて、記録更新となっている。

スキーのジャンプ距離や、マラソンのタイムの自己記録更新は、本人の目標とするところであり、それは「進化」である。
ところが、歳を重ねて運動不足による体重の更新は、まさに「退化」以外の何物でもない。
「今年も健康増進をを目指して・・・」などと大きな口を叩く資格などありはしない、と不摂生と飽くなき食欲を恥じる。
健康保険センターからは、「腹囲の矯正」「糖尿病予防」の講習を受けませんかと案内状が来た。

これじゃぁいけん。かつては工場従業員1800人の健康管理の職場で働いた貴重な体験を自ら反故にすることになる。
ましてや、周囲の人や同級生に「健康に気を付けようや」などと言えなくなるではないか。
よーし・・・ということで、、本格的に写真の如き体重削減努力を始めてみようか・・・と。
今のところ確定ではない。先ずは講習を受けて、「自分にもできる」という感触を得ることからスタートである。

ここにこうしてあらかじめ宣言しておくのは、ダラダラ~っと止めてしまいそうな弱い自分に喝を入れるため、と思召せ。
そして、半年先の体重測定値を、乞うご期待!!

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横幅を広げる

一行の文字数を増やしたい