「和楽」の記事を読みました。
問題になってる写真はこれですね。
これは信子妃が撮影しているのかしら?
この頃は三笠宮寛仁親王家の女一宮として大事にされていたわけですよね?
それから20年以上も本家とは繋がりなし。
能登の輪島塗で作ったジグソーパズルを贈られたとか。まあ、本当にさすが皇族としかいいようがないな。この贅沢さは誰にも真似できない。
なぜ繋がりな希薄だった本家と付き合いが復活したのかというと、恐らくは寛仁親王の病や信子妃の病気などがあり、三笠宮夫妻が孫達を不憫と思われたか、彬子女王がすり寄ったかのどちらかで。
以後、「後ろ盾は三笠宮家」と言う事で、好き放題な生活をして来たわけです。
それがわかるのが
「20歳ころまでそれほど交流が多くなかった不肖の孫である私を、これほどまでに慈しみ、導き、そして信頼してくださり、ご自身の人生の幕引きの責任者である喪主をお任せくださったことは、私にとって最高の誉れである。
この任務を全うすることがご恩返しの第一歩だと思い、精一杯お務めしたいと思っている」
つまり、「三笠宮家の後継ぎはあなたなのよ」と言われたがゆえに、寛仁親王も三笠宮夫妻もみな自分が「喪主」となったというわけですよね。
しかし、この文章の中には母は勿論、妹すら出てこないのです。
まるで一人っ子のような扱いで、一番「おばあちゃま」に接して来たのだと自慢しているように見えるのです。
しかし、寛仁親王家には瑤子女王という妹姫がおり、介護にしても葬儀にしても、本来なら妹と二人で頑張るべきだし、頑張ったと言える筈です。
今回は、瑤子女王は「他の親族」と同じ扱いになっており、完全に「他人」という感じ。
ここまで孤独になった原因は様々あるでしょう。
本当は、留守ばかりの彬子女王に代わって百合子妃を実質的に介護してきたのは瑤子女王であるとかね。瑤子女王は難聴もあるし姉宮程賢くないのは確かでしょうけど、だからこそ、家にあって老人と会話する事も多かったのではと推察します。
反論も出来ず、かといって母にすがる事も出来ない瑤子女王は気の毒だと。
眞子様と佳子様のような姉妹になれなかったのは気の毒なことですが、彬子女王がそこまで尊大でプライドが高い女性になると誰が想像したでしょうか。
儒教においては「親への孝」は絶対に守らなければならない掟です。
ゆえに中韓では未だに「親」という存在が大きすぎて、潰されていく子も多い。
民主主義で「親も友達と同じ」「産んでくれと誰が頼んだ」の日本ですから、夫のDVから逃げ出した母親を許せず自ら母を捨てる形になった事は容易にわかります。
しかし、もう40も過ぎたのですから本来は歩み寄りが必要な年齢です。
皇族は「孝」を態度で示してこその存在ではないのでしょうか?
信子妃には信子妃の言い分がある筈なんです。
なぜ娘二人を連れ出す事が出来なかったかとか、体調がどのように悪かったかとか。
そうは言っても10代で寛仁親王家に嫁ぎ、一途に宮妃としての務めをなさって来たことも事実。それをなかった事には出来ません。
このままでは、皇室の威信が落ちるばかりです。
大正天皇に繋がる宮家が女性だけでまだいると言う事も経済的に問題です。
今の日本は皇室というと何も言えなくなって、秋篠宮家にばかりバッシングが行きますが、正直秋篠宮家の方が三笠宮家、高円宮家より100倍以上大事なお家です。
皇位継承権を持たない女王だけの宮家は廃するべきですし、妃だけで十分です。
百合子妃の薨去によって、彬子女王の言いなりに予算を増やすようなことがあってはならないと私は思います。
彼女は東京か京都かどちらかを選ぶべきですし、妹と二人ひっそりと祭祀中心の生活をするのが本来のあり方であると思います。
喪中なのに鴨場接待させちゃう宮内庁の意識が理解出来ません。