あれは いつだったろう
この家に越してきて・・・
確か桜の花が 舞い散る桜の花びらが圧倒されるほど美しかった
僕はぽかんと口を開けて眺めていたように思う
その家は道路に平行するようにして駐車場があり 道路に面した北側の一角に大きな蔵があった
駐車場を割るように少し出ている門を潜れば 屋敷を取り囲むような桜たち
ところどころに果樹が植えてあり
その実がなる頃には とても楽しみだった
家はカタカナのコ形に近く ほぼどの部屋からも桜を眺められたっけ
その一室で廊下の窓も開けて母が大正琴を弾いていた
ララシ ララシ・・・
667 667
さくら さくら・・・
母は着物を着ていることが多い人だった
その時も着物を着ていたように思う
ふと気づけば横に黒の詰襟の学生服の少年がいた
まだ小さかった僕は生意気にも言ったものだ
「他人の家に勝手に入ってきちゃいけないんだよ」
その少年はびっくりしたような顔になる
「君 僕が見えるの」
「だって そこに居るんだもの」
「まいったなあ 油断した」学生服の少年は笑った
そして こう続けた
「僕はね ずっとこの桜の樹の中に居るんだよ」
たぶん僕は目を真ん丸にしたのだろう
「おかあさんには内緒だよ」少年はそう続けると消えてしまった
いつか僕は夢でも見たのだろう思い込んでいた
母がどうしてずっと住んでいた家を離れて この家を買ったのか知ったのは少し大きくなってからだ
その頃には母は北側にあった蔵を改造してそこで書道を教えていた
教えに行っていた場所が潰れたのだ
そのお稽古センターは手をひろげすぎて失敗したそうな
父が事故で亡くなり賠償金やら生命保険のお金はあったけれど それには手をつけたくなかった
子育てでどれほどお金がかかるかわからないし 何があるかわからないから お金は残しておきたかった
母はそう思っていたらしい
そんな時 家が区画整理で立ち退かなきゃいけなくなり そこそこのお金が入った
しかし早急に住む家が必要だ
あれやこれやの手続きで久しぶりにバスに乗ると・・・
「通学するバスの窓から見えて ちょっと憧れていた家が売り家になっていたの」
春には桜の花が一面にー
学生時代の母は毎年 見惚れていたのだと
不動産会社の人に案内してもらって 現金で支払うからと多少は まけていただいた
玄関と水回りは少々いじり
「不思議よね この家で暮らせる日がくるなんて 思ってもみなかった」
その不思議を解いてくれたのは 桜咲く季節に見ること多い学生服の少年
「そりゃあ 僕が呼んだから」
ー僕は君のお母さんが好きだったんだ
小学校が同じだったんだよ
君のお母さんは中学からは女子校に進んだから 僕は通学バスでしか姿を見ることができなくなったけど
君のお母さんは本を読むのが好きな人で バスの中でもずっと何かしら本を読んでいた
この家の前をバスが通る時だけ 本を読むのをやめて窓の外を眺めるんだ
僕はあんなふうに 君のお母さんに見てほしいなって思ったよ
僕の心臓は生まれた時からポンコツでね
高校生になってから手術して 手術は成功したんだけど
その後で駄目になった
うん僕は死んだんだ
目を閉じたのは病室で
次に気付いた時は もうここに居たんだよ
桜の花がまだ咲いていたな
お爺さんがいてね
「この場所を譲るー」
そう言われたんだ
「好きなように 好きなやりかたでここを護りなさい」
好きにしていいと言われたから 僕はここに住む人間を選ぶことにした
そうして君のお父さんが死んでしまった
それから区画整理で 君のお母さんは家が必要になった
僕はチャンスだと思った
君のお母さんが売り家の看板に気付いてくれたら
まあ この家を見に来た他の客の邪魔はしたけどね
幾人かはここがお化け屋敷だと思っていると思うよ
そうした曰く付きの噂が立てばー売り値も安くなるから一石二鳥ー
学生服の少年は心なしか得意げな表情になった
ーそれで君のお母さんがこの家に住んでくれることになって 僕は嬉しかった
うんとね
うっかり姿を見られた君も僕を気味悪がらなかったしー
学生時代の母を好きだった少年が守る家
母ごと護ってくれている家
そんな話 誰が信じるだろう
だけど妙なことに 僕は安心だった
就職し家を離れて暮らすようになった時にも
学生服の少年が居てくれているー
遠く家から離れた街で暮らす僕はそこで結婚し
時々家族で実家に泊まり
妻も子供達も
櫻屋敷と呼んで気にいってくれたようだった
時々手直しをしながら母はその家で一人で暮らし
僕は就職した会社が 吸収合併を繰り返して
僕が生まれた街にも支社を持つこととなり そこを任された
再び櫻屋敷で母と暮らすこととなり 何故か一番喜んだのは妻だった
「だって憧れていたんですもの」と妻は言う
蜜柑 柿 金柑 酢橘 柚子 梅 桃 林檎 姫林檎 アーモンド 花梨 柘榴
金木犀に沈丁花
紫陽花
指折り数えて「好きな花ばかり」と妻が笑う
おばあちゃんとの暮らしを子供たちも楽しそうだ
で 長男に聞かれた「学生服の人 誰?」
屋敷の護り手は またうっかり姿を見られたらしい
大人になって僕は彼を見ることができなくなっていたけれど
彼はいまも居るのだった
母は病気で亡くなってー
子育てが一段落した妻は 母が書道教室にしていた場所でパン屋を始めたいと言い出した
妻はパン屋の娘で 独身時代 ひとり暮らしの僕はパンを買いにいって妻と知り合ったのだ
結婚してからも パンを作ってくれていた妻
「あなたが定年退職したらーお暇でしょうから雇ってあげる」
そう笑うのだ
桜の花が咲く季節 僕も笑うしかない
ああ そうだね
そんなふうに年を重ねていくのも悪くない
庭に降りて桜の花を眺めていたら 声がした
「そうだねえ」
学生服の少年が変わらぬ姿でそこに居た
僕は彼に伝えなくてはいけないことがあった
「病室で母が亡くなる少し前に こんな事を言ったんだ
もしかしたら偶にね 黒い学生服の少年を見ても気味悪がらないで
あのコはお母さんの子供の頃のお友達だったの
どうやらねお母さんのことを心配してくれているみたいなの
だからもし見ることがあれば 有難うって言ってちょうだい
護ってくれて有難う
わたしが そう言っていたとー」
僕の言葉を聞いて学生服の少年は泣いたよ
「そうか 見えていたんだ 気付いてくれていた 見てもくれていたんだ」
それから
それから
僕は死ぬまで 学生服の少年の姿を見ることは無かった
誰しも自分が死ぬ順番がやって来る
とうとう僕も死んで
死んで桜の花の中にいた
同じ場所に あの黒い学生服の少年
彼はこう言った
「じゃあ 僕はいくよ 次は君に任せる」
おぼろな霧のように少年は消えてしまった
そうして残った僕は
未亡人となった妻と子供達を この家を暫く見守ることとなった
桜に取り囲まれてあるこの家を
この家に越してきて・・・
確か桜の花が 舞い散る桜の花びらが圧倒されるほど美しかった
僕はぽかんと口を開けて眺めていたように思う
その家は道路に平行するようにして駐車場があり 道路に面した北側の一角に大きな蔵があった
駐車場を割るように少し出ている門を潜れば 屋敷を取り囲むような桜たち
ところどころに果樹が植えてあり
その実がなる頃には とても楽しみだった
家はカタカナのコ形に近く ほぼどの部屋からも桜を眺められたっけ
その一室で廊下の窓も開けて母が大正琴を弾いていた
ララシ ララシ・・・
667 667
さくら さくら・・・
母は着物を着ていることが多い人だった
その時も着物を着ていたように思う
ふと気づけば横に黒の詰襟の学生服の少年がいた
まだ小さかった僕は生意気にも言ったものだ
「他人の家に勝手に入ってきちゃいけないんだよ」
その少年はびっくりしたような顔になる
「君 僕が見えるの」
「だって そこに居るんだもの」
「まいったなあ 油断した」学生服の少年は笑った
そして こう続けた
「僕はね ずっとこの桜の樹の中に居るんだよ」
たぶん僕は目を真ん丸にしたのだろう
「おかあさんには内緒だよ」少年はそう続けると消えてしまった
いつか僕は夢でも見たのだろう思い込んでいた
母がどうしてずっと住んでいた家を離れて この家を買ったのか知ったのは少し大きくなってからだ
その頃には母は北側にあった蔵を改造してそこで書道を教えていた
教えに行っていた場所が潰れたのだ
そのお稽古センターは手をひろげすぎて失敗したそうな
父が事故で亡くなり賠償金やら生命保険のお金はあったけれど それには手をつけたくなかった
子育てでどれほどお金がかかるかわからないし 何があるかわからないから お金は残しておきたかった
母はそう思っていたらしい
そんな時 家が区画整理で立ち退かなきゃいけなくなり そこそこのお金が入った
しかし早急に住む家が必要だ
あれやこれやの手続きで久しぶりにバスに乗ると・・・
「通学するバスの窓から見えて ちょっと憧れていた家が売り家になっていたの」
春には桜の花が一面にー
学生時代の母は毎年 見惚れていたのだと
不動産会社の人に案内してもらって 現金で支払うからと多少は まけていただいた
玄関と水回りは少々いじり
「不思議よね この家で暮らせる日がくるなんて 思ってもみなかった」
その不思議を解いてくれたのは 桜咲く季節に見ること多い学生服の少年
「そりゃあ 僕が呼んだから」
ー僕は君のお母さんが好きだったんだ
小学校が同じだったんだよ
君のお母さんは中学からは女子校に進んだから 僕は通学バスでしか姿を見ることができなくなったけど
君のお母さんは本を読むのが好きな人で バスの中でもずっと何かしら本を読んでいた
この家の前をバスが通る時だけ 本を読むのをやめて窓の外を眺めるんだ
僕はあんなふうに 君のお母さんに見てほしいなって思ったよ
僕の心臓は生まれた時からポンコツでね
高校生になってから手術して 手術は成功したんだけど
その後で駄目になった
うん僕は死んだんだ
目を閉じたのは病室で
次に気付いた時は もうここに居たんだよ
桜の花がまだ咲いていたな
お爺さんがいてね
「この場所を譲るー」
そう言われたんだ
「好きなように 好きなやりかたでここを護りなさい」
好きにしていいと言われたから 僕はここに住む人間を選ぶことにした
そうして君のお父さんが死んでしまった
それから区画整理で 君のお母さんは家が必要になった
僕はチャンスだと思った
君のお母さんが売り家の看板に気付いてくれたら
まあ この家を見に来た他の客の邪魔はしたけどね
幾人かはここがお化け屋敷だと思っていると思うよ
そうした曰く付きの噂が立てばー売り値も安くなるから一石二鳥ー
学生服の少年は心なしか得意げな表情になった
ーそれで君のお母さんがこの家に住んでくれることになって 僕は嬉しかった
うんとね
うっかり姿を見られた君も僕を気味悪がらなかったしー
学生時代の母を好きだった少年が守る家
母ごと護ってくれている家
そんな話 誰が信じるだろう
だけど妙なことに 僕は安心だった
就職し家を離れて暮らすようになった時にも
学生服の少年が居てくれているー
遠く家から離れた街で暮らす僕はそこで結婚し
時々家族で実家に泊まり
妻も子供達も
櫻屋敷と呼んで気にいってくれたようだった
時々手直しをしながら母はその家で一人で暮らし
僕は就職した会社が 吸収合併を繰り返して
僕が生まれた街にも支社を持つこととなり そこを任された
再び櫻屋敷で母と暮らすこととなり 何故か一番喜んだのは妻だった
「だって憧れていたんですもの」と妻は言う
蜜柑 柿 金柑 酢橘 柚子 梅 桃 林檎 姫林檎 アーモンド 花梨 柘榴
金木犀に沈丁花
紫陽花
指折り数えて「好きな花ばかり」と妻が笑う
おばあちゃんとの暮らしを子供たちも楽しそうだ
で 長男に聞かれた「学生服の人 誰?」
屋敷の護り手は またうっかり姿を見られたらしい
大人になって僕は彼を見ることができなくなっていたけれど
彼はいまも居るのだった
母は病気で亡くなってー
子育てが一段落した妻は 母が書道教室にしていた場所でパン屋を始めたいと言い出した
妻はパン屋の娘で 独身時代 ひとり暮らしの僕はパンを買いにいって妻と知り合ったのだ
結婚してからも パンを作ってくれていた妻
「あなたが定年退職したらーお暇でしょうから雇ってあげる」
そう笑うのだ
桜の花が咲く季節 僕も笑うしかない
ああ そうだね
そんなふうに年を重ねていくのも悪くない
庭に降りて桜の花を眺めていたら 声がした
「そうだねえ」
学生服の少年が変わらぬ姿でそこに居た
僕は彼に伝えなくてはいけないことがあった
「病室で母が亡くなる少し前に こんな事を言ったんだ
もしかしたら偶にね 黒い学生服の少年を見ても気味悪がらないで
あのコはお母さんの子供の頃のお友達だったの
どうやらねお母さんのことを心配してくれているみたいなの
だからもし見ることがあれば 有難うって言ってちょうだい
護ってくれて有難う
わたしが そう言っていたとー」
僕の言葉を聞いて学生服の少年は泣いたよ
「そうか 見えていたんだ 気付いてくれていた 見てもくれていたんだ」
それから
それから
僕は死ぬまで 学生服の少年の姿を見ることは無かった
誰しも自分が死ぬ順番がやって来る
とうとう僕も死んで
死んで桜の花の中にいた
同じ場所に あの黒い学生服の少年
彼はこう言った
「じゃあ 僕はいくよ 次は君に任せる」
おぼろな霧のように少年は消えてしまった
そうして残った僕は
未亡人となった妻と子供達を この家を暫く見守ることとなった
桜に取り囲まれてあるこの家を