緩やかに死はその身を覆ひぬ
正気も奪ひぬ
死は紛ふことなく
ただ訪れぬ
あちらの魂ふわり こちらの魂袋に入れて
死神は仕事する
かくして人は多く夜に死ぬ
夜・・・その店の看板は電球が切れかかっているのか ちらちら点滅しており ふらふら歩いてきた男の気をひいた
地下へ延びる階段を降りて行く
黒い扉を押して入る
正面にカウンター 奥にボックス席がある
カウンターの中にはバーテン姿の美女がいた
白いシャツ 黒いネクタイ
何故か蝶ネクタイではなかった
ベストもズボンも黒
「いらっしゃいませ」
カウンターに座り 出されたオシボリを使う
スライスしたレモンに小さく切ったオレンジが出てくる
「ドライマティーニ」
男の言葉にバーテンは滑らかに動き ほどなくグラスがカウンターに置かれる
ひと口つけて 男は ほうっと吐息をもらした
「クセになる味だ」客のいない店内を不思議そうに見渡す
「客足は遅いのかな」
バーテンはくすりと笑い「見つかりにくい場所にあるものですから」と答えた
言われて振り返れば 男も何処をどう歩いてここに辿り着いたか覚えていない
迷宮・・・
「では これは初めてのお客様へのサービスです どうぞ」
グラスにはコーヒーに似た色の液体が入っている
「これの名は何と?」
「ダークファンタジー 当店バージョンです」
何が入っているかはバーテンは答えなかった
ひと口飲んで男は納得した
それには思い出が入っていたのだ
最初の記憶
歩いている小さな自分
あれは母か 何か持って笑っている
ああ父だ
むきになってボ―ルの投げ方を教えてくれた
しょっちゅう喧嘩していた幼友達
優しかった近所のお姉さん
生意気だけど気になった少女
童貞を捨てた相手
諦めた結婚
様々な人生の一コマ一コマが 流れる
溢れ出す
左遷
定年まで本社に戻ることはない
最果ての地に小さな支社の子会社についてきてくれ―とは言えない
それが今夜飲んでいる 飲み過ぎている理由だった
彼は悩んでいた
故郷に帰り 両親の家の近くで仕事を捜すか田畑を継ぐか
いずれにしろ 定かではない収入
結婚しようなどとは言い出せず
待ってくれとも言えない
「親孝行は良いことだし 気持ちを正しく伝えるのも悪いことではありません
その為に 言葉があるのですから」
眠りこみながら 男はバーテンの言葉を聞いていた
暫くして目覚めると閉店準備をしているバーテンの姿
「あ すみません 」
謝る男にバーテンは不思議な言葉をかけた
「正義は必ず報われます」
階段を上がり それにしても奇妙な店だったなと振り返ると もうその店は見つからなかった
看板もしまってしまったのか
彼は前に向かって歩き出し―人生を進んでいく
男の左遷の原因は女子社員に執拗にセクハラしていた上司を殴り倒した為だった
男が左遷されたと知った女子社員は一致団結し 上司の事を訴えた
男は思い直し 郷里に帰る前 好きな女性に 自分の思いと事情を伝えた
会社は 男に事情を確認し 骨のある人間が退社して 始めようとしていること
その夢を知った
安心できる食事に繋がる農業 その経営
会社は条件つきで 資本を提供
男は働いて働いて 追いかけてきた恋女房と 生まれてきた子供と
出資してくれた会社には利益を
半世紀が流れた
ふと思い出す
あの不思議な店
もう一度行きたいと思いながら 機会は無く
霧の中 男は歩く
彼は再び見つける
あの地下へ降りていく階段
黒い扉を開けると美しいバーテンが待っている
「お久し振りです」軽く頭を下げる
「どうぞ―幸福な夢―です」
グラスの中には薔薇色の液体
男はゆっくり味わった
「君は―」
「今度こそ あなたをお迎えに参りました」
男は納得した
―ああ そうか ここは そういう店か なるほど―
男は永遠の眠りにつき 死神は魂を掬いとり送る
静かに幕
夜 ひそやかに死神は魂を集める
時に厳しく残酷に
時に優しく夢のように