烏森公園の古めかしい遊具 2011-05-16 | 藤沢 烏森皇大神宮の裏手にある烏森公園です。 ここは隠れた桜の名所ですが、この日は公園の中を通り抜けただけです。 公園の遊具が、最近のものと大分違うのが気になりました。 鉛筆のようにも見えますが、大砲のようにも見えます。 これも塹壕のように見えますが、ひょっとすると鉛筆削りかも知れません。 なんとなく由来のありそうな遊具です。
中華・コウシュウサイテン 2011-05-15 | 藤沢 鵠沼神明の上村バス停の近くで面白い店看板に出会いました。 店の側面に「中華 コウシュウサイテン」と縦長に書いてありました。 店の正面で看板を見上げると、「広州菜店」とあったので納得しました。 店の入り口に、かなり年季の入った新聞記事が貼ってあったので、この辺りでは老舗のようです。
鵠沼墓地管理委員会の墓地 2011-05-14 | 藤沢 新緑のイチョウを眺めながら、鵠沼神明の万福寺の境内を散策し、 本堂の左手から裏側の道に抜けました。 そこに、鵠沼墓地管理委員会の石碑を発見しました。 太平洋戦争が激化する時代、日本精工の増産体制のため、周辺の土地が工場になり、そこにあった墓地が強制的に移動させられたようです。 そこにある墓地は、万福寺の墓地ではなく、鵠沼墓地管理委員会の墓地でした。 当時移動させられた墓地は、鵠沼神明の旧家だったので、ここにある墓地はそれぞれ歴史を感じさせる大型の墓地ばかりでした。 鵠沼にはこんな歴史もあったのです。 画面左手奥に見える建物は、日本精工の社員寮です。
鵠沼神明・空乗寺の慈照堂 2011-05-13 | 藤沢 鵠沼神明にある空乗寺の境内でお堂を発見しました。 近づいて見ると、慈照堂という額が掲げてありました。 格子戸の奥を覗くと遺骨が沢山並んでいました。このお堂はペットの供養のための施設でした。 空乗寺の左隣には動物病院があるので、亡くなったペットの遺骨を安置する場所が必要になったのでしょう。 それにしても、慈照堂の中が遺骨で一杯なのに驚きました。
新林公園・薪のある風景 2011-05-12 | 藤沢 新林公園の保存家屋小池家の裏手の風景です。 囲炉裏や竈のための薪が沢山用意されています。 子どもの頃の飯炊き、風呂焚きの記憶が蘇ってきて、懐かしい思いがしました。
新林公園・新緑のカツラ 2011-05-11 | 藤沢 新林公園に新緑のカツラを見に行きました。 入口のケヤキ並木を進むと、右手にカツラとケヤキが混ぜて植えてある場所があります。 木の下は子供たちの遊び場にもなっています。 その中で一番のカツラです。
ナニワイバラが元気になった 2011-05-10 | 小さな庭 昨年思い切ってナニワイバラの大剪定を行いました。 古くなった枝を切り捨て、新しい枝が育つように風通しも考えました。 期待通り、ナニワイバラが元気に咲きました。 「さて、今年はどうしたものか?」、目下思案中です。
鵠沼神明・女性が建てた庚申塔? 2011-05-09 | 藤沢 新しくなった首塚の左に祠があり、その中に庚申塔があります。 嘉永元年(1848)11月13日建立の青面金剛像の浮彫ですが、風化が激しくかなり崩れています。 足元に注目すると、2人の女性の名前が彫ってありました。 「小林ヤエ」と「岩田サト」です。この2名の女性が施主なのでしょうか?
鵠沼神明・新しくなった首塚の碑 2011-05-08 | 藤沢 鵠沼神明の宮ノ前公民館前にある「首塚の碑」が新しくなりました。 古い石碑は風化が激しく、石碑の文字は読むことが出来ませんでした。 新しい石碑は、しっかりと首塚の由来が読み取れます。 しかし、碑文は王朝文学スタイルなので、ひらがなでも簡単ではありません。 側を通った地元の方が笑顔で「昨日落成式をやりました」と教えてくれました。 2009年12月14日にこのブログで取り上げたので、その時の写真とコメントを再録します。 ・・・・・・・・・・ 首塚の碑は、明治12年にここにあった小塚を掘ったところ、 2人分の遺骨がでたので改葬して碑を建てたと伝わっています。 戦国時代の武将の遺骨といわれていますが、詳細は不明のようです。 改葬の経緯が碑文に記されているようですが判読できません。 ・・・・・・・・・・ 明治12年(1879)4月の建立ですが、彫り易い根府川石だったため、風化が進みやすかったようです。
本鵠沼・明るくなった藤森稲荷 2011-05-07 | 藤沢 久し振りに、本鵠沼の普門寺の北側にある藤森稲荷を訪ねました。 以前は、社殿の周りにタブなどの大木が茂り、木陰の稲荷という印象でした。 先日、東海道線の車窓から眺めていて、木が切られて明るくなった社殿に気がつきました。 社殿は今までと同じですが、急に日向に出てきたので、まだ落ち着いていません。 社殿の格子戸に「カラスが来るので、供え物は持ち帰るように」とありました。 由来を説明する掲示も新しくなったようです。 旧家の土地にある鵠沼最古の稲荷社なので、維持にも苦労がありそうです。
「畑中の道」が無くなる 2011-05-06 | 藤沢 その昔、鵠沼で川袋と言われた地区を通り抜ける道です。 つい数年前までは、道の両側に畑が広がり、個人的には「畑中の道」と呼んでいました。 急速に宅地化が進み始め、間もなく畑が消える気配がします。 子どもの通学路、ぶらぶら散歩道、いろいろ思いはありますが、時代が流れてゆきます。
打戻・少年の森 2011-05-05 | 藤沢 以前から気なっていた打戻地区の「少年の森」を訪ねました。 国際児童記念事業として1980年5月5日に開設された公園です。 入口の案内板によると、キャンプ、宿泊研修、アスレチックコース、芝生広場があります。 入口の正面にあった大きなケヤキです。幹の周りにも、アスレチック風な仕掛けがありました。 アスレチックコースでは元気な少女がチャレンジしていました。 芝生広場の池の周辺では、少年達が遊んでいました。 開設から30年経過した少年少女のための公園です。
用田・寒川神社 2011-05-04 | 藤沢 葛原ぶらぶら散歩の帰り、用田の寒川神社に寄りました。 高座郡寒川町に立派な寒川神社があるのに、用田に寒川神社があるのは不思議でした。 資料によると、武田信玄が小田原北条氏と戦った時、寒川神社の「御霊」を宮原と用田に移した、とあります。 信玄はその後、寒川神社に火を放って、かがり火に使ったようです。 用田の寒川神社の社殿には「寒川神社」の額が見えませんでした。 用田の辻に向かって22号線を横切る交差点の名前は「用田神社交差点」とありました。 実質的に「用田神社」なのでしょう。
葛原から用田へ歩く 2011-05-03 | 藤沢 乗福寺から下滝谷戸の地蔵までぶらぶら散歩です。 道沿いの、芽吹いたばかりの雑木林です。 しばらく行くと、葛原から用田への境を越えました。 境い目には立派な木立があり、境目に沿った用田側に女坂スポーツセンターがありました。 用田に入ると、大きな柿の畑があり、新緑がまぶしいくらいでした。 下滝谷戸の地蔵に着きました。 以前は女坂の辻にあった六地蔵(享保7年銘)の名残の地蔵のようです。 何故か左手に消火器がありました。 今回の葛原散歩はここを終点にしました。
葛原・曹洞宗乗福寺 2011-05-02 | 藤沢 しばらく緑を楽しみながら進むと、曹洞宗乗福寺の山門前に着きました。 創立は長元年間(1028-37)で以前は真言宗でしたが、遠藤の宝泉寺6世が再興した時、曹洞宗になったようです。 快晴の下、広い境内は明るく輝いていました。 境内の左手に八重桜が満開で、手前の柿の新緑と一緒に青空に映えていました。 乗福寺の左にある緑の広場の奥には、大きなケヤキが新緑を誇っていました。