毎日がしあわせ日和

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童話や昔話に見る 「インセプション」 ~ その1

2015年11月01日 16時32分41秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


「インセプション」 などと、お氣に入り映画固有の用語を ブログ内で公然と使わせてもらっていますが、要は 後付けで情報を植えつけること、いわゆる 「刷り込み」 のことです。

特に、脳の回路が未完成の幼いころに刷り込まれたものは、後付けと氣づかないまま がっちり根づいて 自身の観念として育つので、後年ややこしいことになるんですね。




で、最近にわかに氣になりだしたのが、童話や昔話。

「二極世界と それを越える視点」 がテーマとなったこの秋、なにを見ても なにを聞いても、金太郎飴のごとく このテーマが切り口として覆いかぶさってくるのですが、小さいころより慣れ親しんだ おなじみのお話の世界が、意外と この二極世界思考のもととなる インセプションの一端を担っている氣がしだしたのです。




童話や昔話には、洋の東西を越えて ある程度の定型パターンがありますが、そのひとつが、勧善懲悪もの。

鬼ややまんば、悪い王様に魔女、なぜか悪者扱いが多いオオカミなど、正義の鉄槌を受けて懲らしめられる悪役も いろいろですが、悪がそのまま見逃されることはない、というメッセージは たしかに大切でしょう。

一方で いささか氣になるのが、貧しいが心は清らかな主人公と 悪辣な金持ちの隣人の組み合わせ、シンデレラのような 継子イジメもの、そして この二つを含め おしまいに悪役が死ぬか、悲惨な末路をたどるお話。

とりようによっては、こういう物語の中に、今の世の中の生きにくさ ・ 生きづらさを助長するようなメッセージが、子ども向けというオブラートに包まれて さりげなく内在しているのではないかという氣がするのです。




つい先日のこと、「どんな自分であっても、欠点だらけでも できないことだらけでも、愛されていいんだ」 とわかって、思わず泣いてしまったことがありました。

「アナ雪」 のところで書いたように、自分の至らなさに氣づくたび 「今はそういう自分でいい」 と ひとつひとつ受け入れてきましたが、そこから大きく発展して、どんなダメダメな自分でも 宇宙は受け入れ 愛してくれるんだ、だから ダメなところを不安がったり隠そうとしたり、罰を恐れたりすることなく、そのまんまで堂々と生きていいんだ、と 突然腑に落ちたのです。

しばらくその温もりと安堵感に浸っていましたが、その後不意にぱっと脳裏に浮かんだのが、なぜか 子どものころよく読んだ 「舌切り雀」 の絵本。




幼いころからずっと、いい子の優等生でいることを 存在の拠りどころとしてきた私。

その思い込みに、何氣なく読んでいた こういう昔話や童話の教訓が 一役買っていたと、そのとき氣づいたのでした。

悪とは 憎まれ 罰され、ときには命を奪われても 文句を言えない存在。

悪い者であってはならない、いい子でなければ愛されない、受け入れてもらえない。




まさか こんなところに 「条件つきの愛」 という観念の刷り込み元があったとは。

そういう目でたどっていくと、善と悪が対立し、善が勝利を収めるという構図を持つお話って、ちょっと注意する必要があるんじゃないかという氣がしてきました。




続きは 次に。