毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

童話や昔話に見る 「インセプション」 ~ その2

2015年11月02日 09時07分44秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


まずそもそも 「悪」 ってなんなのよ、という話になりますが、これもまた 細かく見れば 人の数だけ解釈がありそうなテーマで、多くの場合、自分の側が善で 対極にあるのが悪、となりそうな氣がします。

ただ、そんな個人個人の分け方を越えて 最大公約数的に 誰が見ても許されないでしょう、という 「悪」 が存在する、という見方もありますね。

殺したら悪、奪ったら悪、だましたら悪、というような。

古くからある童話や物語には、こういう誰もが悪と認める敵役が 善良な主人公に害をなし、犯した罪の報いを受ける、というパターンが数多く見られます。

悪を倒して、めでたしめでたし。




このブログで すでに繰り返し書かせていただいていますが、私は、もうこの勧善懲悪の視点のみでは、今の そしてこれからの安らかな暮らしは 成り立たないと思っています。

勧善懲悪が悪いとかいうことではありません。

ただ、この視点一辺倒では、問題を解決することも 問題を生まないことも不可能だと思うのです。

善 ・ 悪と分けた時点で 対立は避けられず、悪から目を背けようと 善を強化しようと、悪もまた強くなるのは 自然の成り行きなのですから。




今 そしてこれからの世界は、二極の対比をうまく活かしつつ、それを越えた答えを見出すときに来ています。

特に、これから成人して 私たちの後を引き継いでくれる子どもたちには、せひとも確かな智恵や力を身につけさせたいもの。

そんな子どもたちを、頭も心もやわらかいうちから、鬼は退治されたよ、悪いオオカミはやっつけたよ、キミたちは こんな悪者になっちゃダメよ、悪い者をやっつける 正しい大人になりなさい、というメッセージ満載のお話に親しませて 大丈夫なのでしょうか。




子どもだって 腹が立つこともあるし、それを抑えつけられれば 怒りを溜め込みもします。

反動で、悪いとわかっていても、乱暴をはたらくこともあります。

そこで 頭ごなしに叱りつけられでもしようものなら、ますます怒りが膨らむ一方で、そんな自分を悪いやつ、ダメなやつと責める思いも起こり、怒りと自責に引き裂かれ、深く傷つくことになります。




溜め込んだ怒りや 傷の痛みをどうにかしようとする衝動は、思いのほか強いもの。

バランスをとろうとしての暴力的言動は、抑え込もうとすれば 隠れてでもやろうとします。

最近のいじめや 青少年の犯罪が どんどん激しさと陰湿さを増しているのは、それこそ悪を排除しようとするばかりで、一番根っこのところに目を向ける ・ 向けさせるケアが まだまだ少ないからではないでしょうか。




童話や昔話を、短絡的にいじめや犯罪に結びつけるつもりはありません。

でも、もはや勧善懲悪の精神のみでは 今の子どもたちの悩みや混乱を押し留めようがないという事実を見逃して、童話だからおとぎ話だからと そういう精神の植えつけにつながる物語を 安易に与え続ける大人のありかたは、そのまま 悩める子どもたちを救い切れない現状につながっているような氣がしてならないのも、また事実。




もう少し続きます。