毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

今ここに どんな世界を創るのか

2015年11月15日 08時02分54秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


フランスで いろいろあったようですね。

テレビや新聞を見なくても、ツイッターのタイムラインや ブログ欄外のニュースタイトルメモなどに現れる文言から その動揺の大きさが伝わってきます。




ただ。

事件そのものは、もう終わったこと。

もちろん さまざまな影響はあるだろうし、捜査や検証も続くでしょうが、外から遠巻きに見つめる私たちにとっては、すでに 「過去」 なのです。




私は 自分のことをよく、幼いころの刷り込みがもとで ほとんど半世紀に渡って 怖れや怒りにさいなまれながら生きる羽目になったと書いていますが、実際のところ、刷り込み自体は 過去のある一点での出来事に過ぎず、そこから先の怖れや怒りの体験は、その出来事の記憶から 自らえんえんと再創造してきたものだと、今ではよくわかっています。

だからこそ、からだの感覚を通して その成り立ちのおおもとを見つめることで、すべては記憶でしかなく 今ここで再現しなくてもいいのだと腑に落ちると、悪夢から解放されるんですね。




事件に実際に遭われた方々には、これほどまでに暴力的な出来事から受けた痛みや辛さが あとあとまで尾を引くのは 無理なからぬこと。

でも、私たちは ニュースを通して 他者の表現を見聞きしているに過ぎません。




言葉であれ 映像であれ、「全体から分け出されたもの」 には、どうしても “ズレ” がつきまといます。

分け出されなかった要素が落ちたまま 伝わってしまうからです。

さらにそこに、伝える側 ・ 受け取る側双方のフィルターがかかるので、多くの人の手を経るほど その “ズレ” が大きくなります。




分け出される前の 「全体」 は、五感を超えたところで感じるしかない。

そして、感じる世界は、つねに 今 ここ なのです。




私たちは、過去の記憶から再創造した 「今 ここ」 を生きることもできるし、いのちの源を感じながら 「今 ここ」 を生きることもできます。

このような悲しい出来事を これ以上増やしたくないと願う人は、どのような選択をするのか。

答えは 人の数だけあるのでしょうね。




不安や怒りを手放した “空き地” に 新しく何を立ち上げるかが、この秋の私のテーマのひとつ。

もうこれ以上 負の記憶の再生産は、ノーサンキュー

解放され 風通しのよくなった心から、もっと楽しくて 手応えのあるものを たくさんたくさん創っていきたいです




きょう15日は、地元中学校の文化祭。

小学生のときは ちょくちょく顔を合わせていた子どもたちも、中学校に上がると とたんに疎遠になってしまうので、久々に 彼らの成長ぶりを見せてもらうのが楽しみ (^^)

若々しいエネルギーを いっぱいに浴びてきます