毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

受け持ち

2015年11月06日 23時32分11秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前にもちらっと書いた (私たちをコントロールし 搾取する存在がいるという) 「陰謀説」、前世のこと、地球に手を貸してくれる宇宙人の言動、あと 歴史はほんとうはこうだったんだよ、今知られているものは 時の権力者に都合よく改ざんされてきたんだよ、みたいな話。

いずれもありだと思います。

むしろ 一歩進んで きっとほんとうなんだろうな、ぐらいに思います。

なのに、意識がまるでいかない。




たびたびお話している 木内鶴彦さんの講演会でも、木内さんが 心臓停止しているあいだに見てきたという 宇宙や歴史のお話など、大きくうなずきながら 熱心に聴いている・・・・はずなのですが、なぜか ほとんど記憶に残らない (^_^;)




どうもこれは、「受け持ちじゃない」 ということのようです。

こういった分野と 今生で私がすることとは、少なくとも今のところは 大きな接点がない。

だから、興味にまかせて あちこちに首を突っ込んで、“本業” がおろそかになるのを防ぐために、関心がいかないように あらかじめ制御されているのかな、と。

宇宙&魂の采配、完璧なようです




じゃあ、貴秋の受け持ちはなにか、というと、今はまだ 特殊な世界のイメージが強い、「心」 とか 「魂」 とか 「五感を超えた世界」 とかにまつわる情報を、もっと下世話な日常に持ってくること。

誰だって、見えない世界に支えられて、見える世界を生きているんだよ、という 「当たり前」 な感覚が広まるのに 尽力すること。




20~30年ほど前、五感を超えた世界に関する情報は少なかったそうです。

宗教的なものか 自己啓発的なものから探すしかなかったと。

それが今は、スピリチュアルというジャンルが確立され、書店にもしっかり専用コーナーが設けられ、なかなかの盛況ぶり。

こうなったのも、先人たちの活躍のおかげ。




私がぱっと思いつくのは、やはりご著書経由でさんざんお世話になった 本田健さんとか ニール ・ ドナルド ・ ウォルシュさんとかだけれど、他にもいろいろな方がおられることでしょう。

とにかく、こういう方々は 身も魂も とても強かったのだと思います。

まだスピリチュアルがメジャーとはいえなかったころに、ご自身の波乱万丈の体験を糧に 身につけた智恵を、ひとつ間違えば トンデモ扱いになりかねないところを 皆のためによいこと ・ 必要なことだからと 誤解を恐れず 果敢に公表されて。

本を読んで感銘を受けた人たちからの尊敬や憧れを集めたのも当然のこと。

で、こういった方々を先達とし、彼らの後に続けと 裾野が広がりだしたことで、スピリチュアルという名称が確立し、五感を超えた世界が 徐々に存在感を増し始めたのは 素晴らしいことなのですが。




ただ、その内容上 すっと入れる人と入れない人に分かれるのも 無理なからぬことで、スピリチュアルと名づけられた新世界は、外から見ると ちょっと特殊な人たちの集まりとして、その位置を占めているように思えます。

でも、スピリチュアルは 決して特殊でも特別でもない。

植物にみな根っこがあるように、知らなくても 信じられなくても、私たちが 見えないなにかに その生を支えられているのは 事実。

誰だって、自分の意思の及ばない もっと大きな力によって 日夜心臓を動かされて 生きているのだから。

その当たり前の事実を 当たり前のこととして 誰もが感じながら生きていけるようになるには、今度は “スピリチュアルという特殊な世界” の看板を 地道にこつこつと解体することになります。




自分の役目は どうもその辺りにあるらしいと思いつつ、きょうもこんなブログをちまちま書き続けております (^^ゞ

漬物のコツと 五感を超えた世界の話題が 同列に語られる日が、相変わらず楽しみな貴秋なのです♪






















伝える ・ 伝わる

2015年11月06日 01時05分06秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


“スピリチュアル”   “心”   “神”   “おおいなるひとつ”   “本質”   “真実”

さんざん使わせてもらっておきながらなんなんですが、自分の中で ひどく据わりの悪い言葉。

黒板キーっと引っかく音を聞いたときみたいに 歯が浮くというか (笑)

なにより伝えたい 表したいことなのに、どうにも落ち着きどころが見つからないというか。




言葉は、「現地と地図」 の 「地図」 に例えることができます。

現地を指し示す記号みたいなもので、現地そのものではない。

現地の情報の一部を表すに過ぎない。




現地を持たない言葉というのもあります。

ただ決まり言葉を 反射的に投げるだけ、形を取り繕うだけの、いのちのこもらない 空回りする言葉。

表面だけのお世辞、紋切り型のせりふ、テンション高く 上滑りするはしゃぎよう、ほんとうの喜びを呼び起こさない言葉の数々。




それでも、現地が五感で確かめられるもののときには まだいいのですね。

言葉で伝わらないなら、いざとなれば 直接触れてもらうという手があるから。

しかし、これが 五感の及ばない世界のこととなると、正直お手上げ ( ̄  ̄;)

言葉で伝え切れるものじゃない。




そうわかっていても、なお伝えたい。

とても大切なことだという氣がするから、感じるものがあまりにも大きいから。

だから、ムリを承知で あえて言葉で語る。




言葉そのものを受け渡ししても始まらない。

でも、言葉を介して 伝わる “なにか” は あるのかもしれません。

現地を感じながら表現するときは、言葉に乗る “なにか” がある。

それが 相手の中のスイッチを押す。

言語としての言葉だけじゃなく、絵 ・ 映像 ・ 音 ・ 香り ・ 味 ・ 感触 など いろいろと。




まだまだテレパシーは普及していないけれど、私たちには 言語以外にも やり取りしているものが いっぱいあります。

感じる力を 少しずつでも取り戻してゆく中で、あらゆるものとの関わりが、つながりが、そして 世界が、大きく変わっていきます (^^)