毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

スピリチュアルな 教えと学びについて 考えた ~ その4

2015年11月04日 08時28分29秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


ここにも書いたように、私も 優れた人につき従うことで 高みに連れていってもらおうとして 挫折した時期がありました。

当初はそれはもう怒り心頭で、無私の愛とかなんとか言って、人からエネルギー盗ってたんじゃない、だまされた! くやしい! と怒り続け、あまりの殺伐とした空氣に いっしょにいた友人が 辟易して帰ってしまったほど

それが ずっとあとになって、そんな体験にも 大きな意味があった、決して失う一方なんかじゃなかったんだ、と 心底納得することになりました。




これも 以前からの繰り返しになりますが、無駄 ・ 無意味に起こることなど、なにひとつありません。

一時は だまされたと立腹しても、時間が経つと、もっと大きなものが見えてきます。

そこで思い出すんですね、どんなことにも プラスマイナス 相反する二面が同時に存在し、どちらでも好きに選べることを。




ただ、怒りを外に投影して 被害者の立場にあるあいだは、プラスの面に目を向けることができないのです。

どれほど腹の立つ相手でも、最初についていくと決めたのは 他ならない自分であることを 認められるようになるまでは。

基本 学びの道は 個人の道なのです。

学び手が受け入れると決めない限り、どんな教えも 導き手も 力にはなれないし、与えられた言葉や情報を 内に落とし込むのは、どうしたって 独力で行うほかないのですから。





「自分の選択だと認める」 という言葉に 強い抵抗や反発を感じるでしょうか?

感じるなら、たとえばそこで すかさず感覚フォーカス、なんていうのもありです

お氣の向く方は トライしてみてもいいかもしれません。

そんな氣になれないなら、今はまだ時期じゃないのかも、と 置いといて、怒り続けるのも もちろんあり。

ただ、いつかは 受け入れるときがやってきます。

そのときは、それまで 被害に遭った、奪われた、と思っていたものが、実は大きな糧になりうる (相手の意図とは関係なく) もので、失った以上の利を受け取れることを知っていただければ 幸いです。




繰り返しますが、起こることに無駄はなく、プラスマイナス表裏一体、どちらを選ぶかは その人次第。

そして、すべてが自分の選択であったことを 無理なく受け入れたときには、その体験から 余すところなく養分を取り込んで、足踏み状態から 再び動き出せるようになります。




スピリチュアルな道のりは、決して特別な人のものではなく、ある意味 ごく自然で当たり前なこと。

特別な才能や技術や環境がいるわけでもなく、望めば誰でも歩むことができます。

教え手であれ 学び手であれ、どんな間違いをしようと、いやな思いをしようと、マイナスをプラスにひっくり返して すべてはこのためにあったんだ、という喜びを味わうことが可能です。

痛い思いをしたからといって、すっかり背を向けたままにならず、時が来たら また歩みを進めていただければ 何よりかと思います (*^^*)




長文をお読みくださって ありがとうございました。