人間誰しも、多かれ少なかれ 未熟なもの。
だからこそ、もっと学びたい、成長したいという意欲も起こるのですが。
前記事にも書いたように、内なる氣づきへの感動から 人にも伝えたくなるのは 自然なことではありますが、それを言葉の力だけで行おうとすると、これほどの苦行もないような氣がします (-_-; )
私たちが生きている この世界は、互いに相反する二要素が 同時に成立するという、矛盾に満ちた世界でもあります。
毎度同じ例えで申し訳ないですが、岩が 動かないものであると同時に、絶えず動き続ける微粒子の集合でもある、というように。
およそ理屈では割り切れない世界です。
伝える側が、自分ではその素晴らしさが感じ取れるので、ものすごく伝えたい、伝えたいんだけれど、いざ言葉にしようとすると 四苦八苦する羽目に陥る。。。。のが この世界。
ついつい私の言うことが正しいんだー!信じてついてくればいいんだー! とやってしまう氣持ちも、ことの始まりがが真摯で純粋な思いから出ているだけに わからなくはないのですが、これをやってしまうと まずいことになります。
そもそも 人の数だけ 答えはあるのだし、個別に分け出される前の “ひとつであるもの” にたどりつけば、そこはもう 言葉での説明など及ばない世界なのだから。
そこへもってきて、これまた前記事に書いたように、魂の学びにゴールはないので、伝える側も 絶えず学び続けることにもなり、以前口にしたことの 不完全さや矛盾を認めざるを得ないときが、必ずやってきます。
ここで 面倒が起こるのが、伝える側が 「教える自分」 「人より知っている自分」 に 存在価値の拠りどころを置いているとき。
いったん自分を権威づけてしまうと、まずいとわかっていても 引くに引けなくなったりするのですね。
そこに 金銭が絡んだりすると、なおのこと。
とても人間くさい、見ようによっては可愛くさえある弱点なのですが、信頼してついてきた側からすれば これは反感を覚えるのも 無理はありません。
以前の記事に書いた、「心に満たされないものがあると、せっかくの智恵や力を 人からエネルギーを奪う手段として使ってしまう」 という警告は、こういうことだったんだと、今ならよくわかります。
あのころの私は まさに中途半端な知識と 満ち足りない心の持ち主、ひとつ間違えば、私自身が そういう指導者の立場になっていても 不思議はなかったのです。
最初はたしかに善意からなのだけれど、満たされない心を通すと 微妙に変わってしまう・・・・大切なことを伝える側には、つねにそういうリスクがつきまとうものなのかもしれません。
おそらく 一番初めは、単純に幸せになりたいという思いから始まったであろう スピリチュアルな道のりが、心休まらない戦いの場と化してしまうとしたら、残念なこと。
でも、それさえも 学びの道のうちなのですね。
ひとつの記事のつもりで書き始めたもので、連投ごめんなさい m(__)m
あと1回で終わると思います。