「腑に落ちる」 って すごい言葉だと思います。
「腑」 とは、調べてみると 「はらわた。内臓。転じて 心、心の底。心根。」 とあります。
「腑に落ちる」 とは、頭や心に留まっていた知識や情報が、からだ全体に すとーんと落とし込まれること。
理屈をすっ飛ばして 得心がいくこと。
外からの知識や情報が、消化され切って 自分の智恵や力に変わる瞬間。
昔の人の言葉の感覚って、ほんと鋭い、と感服させられます。
最近腑に落ちた、「どんな自分でもいい」 。
素直にそう受け入れられるようになったといっても、それで負の感情が きれいさっぱりなくなるわけではないようです。
過去の記憶や思考パターンは そのまま残っているわけだしね☆
肯定的なイメージが 勝手にどんどん湧いてくるからといって、空想を先走らせて 浮かれ過ぎると、反動で沈み込む瞬間が あとから必ずやってきます (^_^;)
ただ、そういった心の動きすべてが 二極世界ではごく自然な現象であるとわかっていれば、それ以上騒ぐ必要もなく、ただ静かに感じて味わっていればいいだけのこと。
いずれは離れてゆくものとわかっていれば、恐れたり嫌ったりする必要もないわけですね。
「二極を越える」 というあり方に氣づいたからといって、このからだを持ち 二極世界に生きている以上、対立する二極間の行き来がなくなるわけではない。
でも、それに振り回されることがないとわかっていれば、むしろ そのギャップを積極的に利用して 楽しむことだってできるわけです。
荘子の 「胡蝶の夢」 というお話は、「夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話 (Wikipediaの解説より) 」 。
で、荘子は思うわけですね、「どっちだっていい」 と。
自分が蝶だと思えば 蝶である自分を味わい、人だと思えば 人である自分を味わえばいい。
外側がどう変わろうと、内から感じる自分に変わりはないのだから。
浮いたり沈んだり、高鳴ったり落ち込んだり、という二極世界ならではの体験がしたくて この世界にやってきた私たち、そしてそれを味わっている現在 (present) こそ 最高の贈り物 (present) 。
渦の真っ只中でもがいているときは 「そんなこと言われても~」 ですが、ちょっと引いたところから眺めれば、もがくという体験さえ、ああ これがしたくてこの世にやってきたんだなぁ、と なんだかいとおしいものに思えてくるのです (^^)