1988年、韓国でのソウルオリンピック以前の話である。
ソウルの街を歩けば「日本人の方ですか?いい娘いますよ」と声をかけられる。
とても品のいい格好をしているわけではない。
Gパンに白のジャケットを羽織っているだけなのに日本人だと判るのである。
うんざりしている頃、とても純朴そうな青年が、巧い日本語で話かけてきた。
「わたしは、日本語を勉強しています。もしよろしければ日本語の勉強のためにソウルの街の観光案内をさせてください」
時間を持て余していた自分にとっては、好都合だった。
彼は、「安上がりだからバスに乗って街を見学しましょう」と提案してきた。
勿論、ぼくも同意した。
やってきた巡回バスに乗り込むと、何故か彼の友人が乗っている。
彼は、素早く「日本語を勉強している友人の一人です」と紹介するのである。
「何か変だなぁ・・」と思いながらも、彼ら二人は、ぼくに面白おかしく建物の由来やら韓国の生活習慣を話してくれた。
夕暮れ時、「一緒に食事しませんか?楽しいお店があります。もし良かったら日本語を勉強している女友達も呼んでいいですか?」ときたもんだ。
「これはボラレル」と気づいた。
でも、気づいた時には遅いのである。(笑)
笑顔を装いながら、ぼくは答えた。
「日本人は、ぼくだけですか?見ての通り、ぼくは金も無いですし、今日レストランで食事をしたら明日から水だけの生活です。ぼくは、ソウルに遊びに来たわけではありません。今日は、このぐらいで・・」
しばらく、彼は、ぼくの顔を覗きこむように考えていた。
「わかりました。よろしければ、明日、またご一緒にお供をさせてください」と彼は聞いてきた。
その顔と声の凄みは、すでに純朴な青年のものでは無く、断れば、今すぐにでも「鋭利なナイフでおまえを刺す」というような威圧感である。
まずいかなと思いながら、彼にソウルの滞在先の安ホテルと部屋番号を教えた。
「翌朝10時に迎えに行く」と一言残して、彼は去った。
その晩、いろんな事を想定しながら「彼」の人物像を想像した。
翌朝、彼は、時間通りにホテルの部屋までやってきた。
狭い部屋を一通り見渡すと、以前の純朴そうな青年の笑顔に戻っていた。
彼は、「お願いがあります。今日一日だけ、わたしの友達になってもらえないでしょうか?」と、ぼくが考えもつかなかったことを切り出してきた。
彼の計画は、こうである。
ソウルで愛人を囲う日本人から搾取する。
愛人の親戚友人と名乗り出て、日本に帰っても仲間がいることを知らしめる偽装の役割が、ぼくなのである。
ぼくは、「今日限り」だという条件を出した。
まずは、ソウルの超高級ホテルに向かった。
相手は、当時かなり手広く地上げをしていた日本の不動産屋の会長だった。
彼は、その会長に「将来は、日本に行って日本語を勉強したいです。その時はよろしくお願いします」と、きちんと畳み掛ける挨拶をした。
その礼儀正しさに、会長は、「ステーキを食べろ」と札束を投げ出したのだ。
これには、驚いた。
つまり彼は、会長の愛人と初めから共謀しており、貧乏で真面目な韓国青年を演じていたのである。
困ったことがあった。任侠道の会長が、ぼくを胡散臭そうにする質問攻めである。
妙なことを口走れば見破られる。
下手な事をすると両方から殺される。
こういう場合は、正直さが勝つ。
「昨日、彼と偶然街で会って意気投合した友達です。日本人です」とだけ、しっかり答え、あとは黙した。
夜が来た。
今度の相手は、日本のオリンピック競技使用のメインがテニスボールを作っているスポーツメーカのオーナーだった。
愛人が日本語を喋べれないので、彼が愛人の気持ちを日本語に通訳して、パトロンの日本人に伝える役目である。
彼は、それはそれは熱心に「いかに彼女が、あなたのことを愛しているか・・」延々と喋ったのである。
感無量の日本人は、ぼくたちを連れて何軒もの高級クラブをはしごをした。
ホテルに戻ったのは、夜明け前だった。
一日ぐっすり寝て、韓国を離れる前日に彼から連絡を貰った。
「自宅に招待したい」と言う。
彼の家は、建設中だったオリンピックスタジアムに割合近いところにあった。
韓国人の家庭の中に入るのも、食するのも全部初めての経験である。
散歩しながら、彼は、日本と韓国の違いを噛み砕くように話した。
「一人対一人ならば、韓国人は、絶対に日本人に負けません。でも集団になると、日本人は強くて優雅です。桜の木のようにです・・。知っていますか? 韓国の国の花は、無窮花です」
「日本人が桜の花のようだと考えたこともないし、ごめん。韓国の国花も知らない・・。」
彼は、翌日キンポ空港まで見送ってくれた。
「朝鮮」の語源は、朝に鮮やかに花が咲く「ムクゲ」の花だという説もあります。