ふくい、Tokyo、ヒロシマ、百島物語

100% pure モノクロの故郷に、百彩の花が咲いて、朝に夕に、日に月に、涼やかな雨風が吹いて、彩り豊かな光景が甦る。

君はヒロシマを見たか

2011年08月06日 | 千伝。
今日は、8月6日。

あの日から66年。

先日、NHKのアーカイブで、終戦37年後の昭和57年(1982年)8月6日に放送された「君はヒロシマを見たか」を観ました。

この番組の中で、原爆の悲惨さを証言された方々は、当時13~17歳ぐらいの学徒動員の方々でした。

全く母と同年代で同じ体験を持つ被爆者の方々でした。

あの日、原爆1個が落ちて・・

それが一瞬でさえ、4000度から6000度の熱を浴びると、人間は溶けるか、真っ黒こげの即死。

即死をまぬがれても、急激な気圧な変化で、目ん玉が飛び出て、口が裂けて、瞬く間の死が襲ってきます。

爆心地から少し離れて生き残った人たちは皮膚は垂れ下がり、髪の毛は逆立ち、男か女かも判らないお化けのような様相。

さらに、爆心地から半径3KM内を、木っ端微塵に粉粉にした強烈な爆風とその猛烈な吹き返し。

煤まみれのような黒くなった体中に、ガラスや木っ端が無数に突き刺さり、「助けてください。水をください」と阿鼻叫喚の生き地獄。

さらに、大量の放射能物質を含んだ黒い雨に濡れて、その後、頭髪は抜け、黒い爪が生えた。

昭和20年あの夏、ヒロシマの生き地獄、生死の淵を覗いた人達は、昭和57年当時、何か穏やかな強さのある人間に映りました。

放映された昭和57年当時、50歳前後の方々です。

「平和が、いちばん、ええんです・・」

アメリカが、ヒロシマ、ナガサキへ原爆を落としたことは、絶対許すべきものではありません。

核兵器の投下は、いかなる報復理由、平和の為の戦争終結の大義名分があれども、それは人間の情感が行う、人間の理念に対する大虐殺です。

世界で唯一核兵器を使用したアメリカに謝罪と核兵器の破棄を求めるのは当然の権利だと思います。

今年は、終戦後66年経ちますが、今からでも遅くないと思います。

そして、中国、韓国、周辺の隣国及びアジア諸国に対しても、世界唯一の核被爆国、日本として語りかけるべきだと思います。

私も、あの放映された当時の方々と同年代に達しましたが、あの被爆者の方々のように・・淡々と、自分の事、人生観を語ることは、到底できません。

そして、まだまだ無駄も多く、未熟で何も生きていないように思えました。

人生の折り返しを過ぎて、あと何年生きられるのか・・判りませんが、何でもやってみることだと痛感しました。

福井で、福島の桃を食べながら、広島を思う今日一日です。

愚または寓話

2011年08月05日 | 千伝。
「足るを知り、道を楽しむ」

その・・孔子曰く。

益者三友あり。

損者三友あり。

率直で正直な友、誠実で表裏なき友、博学多識の友は、益者な友。
 
体裁屋で実のない友、ニコニコして人あたりが良いが信実のない友、口先だけが達者な者は、損者の友。

幼い時に、謙虚に学ぶことをせず、成長してからも傍若無人に振る舞い、非礼な事、非常識な事をして、自己の存在を世に知らしめようとするタイプ。

これは・・孔子の最も嫌う下愚(かぐ)である。

だが、現代における資本主義社会では、下愚も、また特別な客となる。

特別な客には、見えないところで、ハナを持たせる。

心理学が算盤に練り込まれていれば、また行きたいというリピーター客を生む。

さもなければ、益者の友は去り、損者の友には不愉快を与える事になる。

地上での僅か二週間の蝉の命の一唱は、何の為にある?

♪money, money, money・・カネ、カネ、カネの・・人の一生は何の為にある?

下寓が、幼い時に、蝉が鳴き絶えて、その蝉を動物病院に連れていた。

そして、蝉の命乞いを求めた。

大人は、蝉に注射をして、幼な子に、治療費を請求したとか?

しなかったとか?

あすなろう

2011年08月03日 | 千伝。
あすなろの木のように、明日は、檜になろうとして・・

人間の肉体は弱い。

ゴム毬より弱い。

弱いから・・それぞれの鎧兜を身につける。

鎧兜をつけると戦いのさい、最強の防具となる。

が、平和時につけると、これほど邪魔なものはない。

肉体の一番弱いところを病気にするようである。

仕事は、年がら年中してはいけない。

仕事が終わったら、すぐに鎧兜を脱ぎ捨て、リラックス。

これをイメージすれば健康そのものでしょう。

例えば、剣道。

小手面胴の防具をつけて、稽古。

終わって面をはずしたときの爽快感は、経験した者しか分かりません。

仕事のときは、防具をつけましょう。

終われば脱ぎましょう。

イメージだけでも。

そう、あすなろうの木も、檜舞台へ。

氏神さまのおまけ

2011年08月01日 | 百伝。
人間は、行きたい場所と行きたくない場所がある。

それは、行くとプラスアルファがあるか、何にもないかの違いだと思う。

昔、ゴルフ練習場があって気楽に行っていたが、近くに美味しい串カツ定食屋さんがあったので足しげく通ったという思い出がある。

つまり、おまけ嗜好があったように思うのである。

結局、人は子供の頃と同じように、おまけが好きなのである。

キャラメルの箱の上についていた、小さなオモチャのおまけ。

飴玉よりそのオモチャを目的に買っていた向きもあった。

形と質は多少違っても、人間は大人になっても、おまけが好きなのは、基本的に変わらない。

故郷の百島に、何か・・おまけ嗜好があれば、人は集まるはずである。

例えば、小豆島の「二十四の瞳」のように。

例えば、高島の「宝当神社」のようにである。

百島の氏神さまにも頑張ってもらわないと!

ご利益も「おまけ」である。