文禰麻呂の墓である
文禰麻呂は、『日本書紀』、『続日本紀』 にも登場する人物で、壬申の乱(672年)では、大海皇人皇子(のちの天武天皇)の軍で活躍した将軍の一人である。
天保2年(1831年)に偶然発見され、その出土品から慶雲4年(707年)に亡くなった文禰麻呂の墓であることが明らかになった、、、らしい
場所は 奈良県宇陀市榛原区八滝
針TRSからR369号を南へ ~ サクラで有名な仏隆寺への入口を過ぎてすぐの信号・赤埴のバス停を右折する ~ 集落を抜けて山の中へ向かう、要所要所に看板があり、わかり易かった
国道から3Kmほどで墓についた
ちょっと狭い道だが整備された舗装路だった、次第に杉の枯れ落ち葉が増えて、坂道になってくる
ここに文禰麻呂さんは眠っているのだ
墓から東方を望む
傍には万葉歌碑が・・・
さを鹿の きたち鳴く野の 秋はぎは
つゆ霜おひて 散りにしものを
文禰麻呂の子の馬養(うまかい)という人が詠んだ歌らしい
墓の横に 「沢城跡」 の案内板があったので歩いて行ってみる
5分ほどは軽四で通れる舗装の林道だったが、それからは登山道になる
こんな杉木立の中を登ってゆく、20分余で城跡に到着
今から600年余前に宇陀の沢氏の本城として造られ、2百数十年で廃城となる。
ポルトガル人の宣教師ルイス=フロイスの 「日本史」 にも書かれている、、と説明に書いてあった
出の丸跡である
下草は刈ってあるが、今ではすっかり杉林となっている
説明板には本丸・二の丸・三の丸も書いてあったのだが木が生い茂って分からなかった
城跡の説明板がなかったら全く分からない山の中であった、昔の城を偲びつつ少し休憩して引き返す
こんな山郷に600年余前の城跡、そして1300年余前のお墓、、、、当時はどんなところだったのだろうか?
国道に出て針TRSへ戻ったら、高校生が7~8人並んで 東北地方太平洋沖地震の募金をやっていた。 … せめて募金ででもお手伝いをしようと思って、少しだが募金箱へ、協力して帰った。
文禰麻呂は、『日本書紀』、『続日本紀』 にも登場する人物で、壬申の乱(672年)では、大海皇人皇子(のちの天武天皇)の軍で活躍した将軍の一人である。
天保2年(1831年)に偶然発見され、その出土品から慶雲4年(707年)に亡くなった文禰麻呂の墓であることが明らかになった、、、らしい
場所は 奈良県宇陀市榛原区八滝
針TRSからR369号を南へ ~ サクラで有名な仏隆寺への入口を過ぎてすぐの信号・赤埴のバス停を右折する ~ 集落を抜けて山の中へ向かう、要所要所に看板があり、わかり易かった
国道から3Kmほどで墓についた
ちょっと狭い道だが整備された舗装路だった、次第に杉の枯れ落ち葉が増えて、坂道になってくる
ここに文禰麻呂さんは眠っているのだ
墓から東方を望む
傍には万葉歌碑が・・・
さを鹿の きたち鳴く野の 秋はぎは
つゆ霜おひて 散りにしものを
文禰麻呂の子の馬養(うまかい)という人が詠んだ歌らしい
墓の横に 「沢城跡」 の案内板があったので歩いて行ってみる
5分ほどは軽四で通れる舗装の林道だったが、それからは登山道になる
こんな杉木立の中を登ってゆく、20分余で城跡に到着
今から600年余前に宇陀の沢氏の本城として造られ、2百数十年で廃城となる。
ポルトガル人の宣教師ルイス=フロイスの 「日本史」 にも書かれている、、と説明に書いてあった
出の丸跡である
下草は刈ってあるが、今ではすっかり杉林となっている
説明板には本丸・二の丸・三の丸も書いてあったのだが木が生い茂って分からなかった
城跡の説明板がなかったら全く分からない山の中であった、昔の城を偲びつつ少し休憩して引き返す
こんな山郷に600年余前の城跡、そして1300年余前のお墓、、、、当時はどんなところだったのだろうか?
国道に出て針TRSへ戻ったら、高校生が7~8人並んで 東北地方太平洋沖地震の募金をやっていた。 … せめて募金ででもお手伝いをしようと思って、少しだが募金箱へ、協力して帰った。