久し振りに 伊勢の海を見に行こう……と思って、CBRで出かける。
西名阪自動車道の香芝ICから乗って針TRSへ~大内ICで降りて少し休憩~関IC~鈴鹿サーキット前~白子港へ
右側…石のモニュメントが 〔 刻の軌跡 〕
左の黒っぽい御影石…〔大黒屋光太夫の碑〕には次のように刻まれていた
大黒屋光太夫・讃
ここ、新装となった鈴鹿市白子港は、十八世紀末、神昌丸船頭、大黒屋光太夫が、容易ならぬ運命を荷って、東洋史の重要な一ページの中に入って行った、その難多き航海に於ける乗船、出航の地である。
日本とロシアを、江戸とレニングラードを、鈴鹿とイルクーツクを、異国に於ける光太夫・十年の歳月は結んだが、その数々の悲劇を鏤めた異国日誌の大きな展開は、ここ白子港を起点とし、終点としている。
そうした光太夫を船頭とする神昌丸出航の日も、白子港は今日となに一つ変わりなく、蒼穹の下に、美しく波立ち、騒ぐ、白い波濤の絨毯を大きく拡げていたであろうか。
井上靖
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大黒屋光太夫の波乱に満ちた人生を綴った、井上靖著の「おろしや国酔夢譚」は、かなり昔に映画化され、つい最近、近所のTUTAYAでもレンタルDVDが置いていた
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白子の漁港
光太夫達が出航した日も、このような穏やかな海だったのだろうか?
白子漁港の南隣では、若者たちがジェットスキーを楽しんでいた
1783年12月に この地を出航し、ロシアで艱難辛苦、北海道の根室に帰れたのが10年後の1792年、その後江戸で幽閉され 故郷の伊勢若松に帰郷が許された。
出航後20年の歳月が流れ 1802年だったという・・・・
そんな悲しい物語の舞台となった白子の浜は、穏やかに打ち寄せる波と 白い雲を浮かべ、何事もなかったように 夏の終わりの景色を見せていた・・・・・
西名阪自動車道の香芝ICから乗って針TRSへ~大内ICで降りて少し休憩~関IC~鈴鹿サーキット前~白子港へ
右側…石のモニュメントが 〔 刻の軌跡 〕
左の黒っぽい御影石…〔大黒屋光太夫の碑〕には次のように刻まれていた
大黒屋光太夫・讃
ここ、新装となった鈴鹿市白子港は、十八世紀末、神昌丸船頭、大黒屋光太夫が、容易ならぬ運命を荷って、東洋史の重要な一ページの中に入って行った、その難多き航海に於ける乗船、出航の地である。
日本とロシアを、江戸とレニングラードを、鈴鹿とイルクーツクを、異国に於ける光太夫・十年の歳月は結んだが、その数々の悲劇を鏤めた異国日誌の大きな展開は、ここ白子港を起点とし、終点としている。
そうした光太夫を船頭とする神昌丸出航の日も、白子港は今日となに一つ変わりなく、蒼穹の下に、美しく波立ち、騒ぐ、白い波濤の絨毯を大きく拡げていたであろうか。
井上靖
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大黒屋光太夫の波乱に満ちた人生を綴った、井上靖著の「おろしや国酔夢譚」は、かなり昔に映画化され、つい最近、近所のTUTAYAでもレンタルDVDが置いていた
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白子の漁港
光太夫達が出航した日も、このような穏やかな海だったのだろうか?
白子漁港の南隣では、若者たちがジェットスキーを楽しんでいた
1783年12月に この地を出航し、ロシアで艱難辛苦、北海道の根室に帰れたのが10年後の1792年、その後江戸で幽閉され 故郷の伊勢若松に帰郷が許された。
出航後20年の歳月が流れ 1802年だったという・・・・
そんな悲しい物語の舞台となった白子の浜は、穏やかに打ち寄せる波と 白い雲を浮かべ、何事もなかったように 夏の終わりの景色を見せていた・・・・・