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奈良県生駒郡平群町の椿井城跡へ
南副郭跡は海抜217m、南郭群跡が標高220m、北に主郭跡があるが進入禁止となっている
「 道の駅 大和路へぐり 」 の第2駐車場に車を停めて歩く
電柱等に案内板があり迷うことはない
途中の路傍に町指定文化財の 笠石仏如来像
~ ~ 集落内の坂道を登ってゆく
椿井井戸
現地説明版によれば、いまも清水が湧出する古井戸で、聖徳太子と平群神手将軍の逸話が伝えられている とのこと。
この井戸のすぐ上が城跡への登山口
左近君が歓迎してくれる
登山口には簡単な案内図
入り口から いきなり急坂の道で ~ かなりの坂道が続く、太い竹の生えた山道を進む
途中には古墳もある
振り返れば、登山道は山の斜面に張り付いている
この坂道を登り切ったら緩い坂の尾根になる
南副郭跡・海抜217m
左後方には生駒山が見える
南副郭跡には まだ新しい説明版
眼下に 「 道の駅 大和路へぐり 」
南方面
写真の真ん中には大和川、後方の山の左あたりに王寺町の 明神山 がある
手前は平群町・右の方は三郷町だろう
曲がって流れる大和川を もう少し大きく撮る
南副郭跡から南郭群跡への間には、急な下り坂~急斜面の上り坂でロープが張ってある
標高220mの南郭群跡、後方の山は生駒山
大きな 「椿井城跡」の旗が風にはためいている
2時間余の山城跡散策、昔を忍び & まあまあ適度な運動になりました。
《 参 考 》
矢田丘陵の稜線上に築かれた山城跡。南北が300mもある細長い城で、多くの曲輪や深い切り通し堀、土塁が残っておりごく一部に石垣も見られる。
中央部がやや低く、城域が南北に別れ、高い北側部分が中心の主郭にあたる。
西側山裾と主郭部との比高差が180mもあり、西側の平群谷への見通しが常に良く、谷の南半を抑える要衝に位置し、西側が城の防御正面と考えられる。
城主は当初椿井氏が築城し後に嶋氏が取って変わったと考えられ、戦国末には筒井傘下の嶋左近と信貴山城に入った松永久秀との間で幾度もの争奪戦が繰り広げれられたと考えられる。
天正8年(1580)織田信長が筒井順慶に命じ、郡山城を残して大和の諸城を破却させており、本城もこの時に放棄されたとみられる。
・・・・ 平群町観光ホームページより
奈良県生駒郡平群町の椿井城跡へ
南副郭跡は海抜217m、南郭群跡が標高220m、北に主郭跡があるが進入禁止となっている
「 道の駅 大和路へぐり 」 の第2駐車場に車を停めて歩く
電柱等に案内板があり迷うことはない
途中の路傍に町指定文化財の 笠石仏如来像
~ ~ 集落内の坂道を登ってゆく
椿井井戸
現地説明版によれば、いまも清水が湧出する古井戸で、聖徳太子と平群神手将軍の逸話が伝えられている とのこと。
この井戸のすぐ上が城跡への登山口
左近君が歓迎してくれる
登山口には簡単な案内図
入り口から いきなり急坂の道で ~ かなりの坂道が続く、太い竹の生えた山道を進む
途中には古墳もある
振り返れば、登山道は山の斜面に張り付いている
この坂道を登り切ったら緩い坂の尾根になる
南副郭跡・海抜217m
左後方には生駒山が見える
南副郭跡には まだ新しい説明版
眼下に 「 道の駅 大和路へぐり 」
南方面
写真の真ん中には大和川、後方の山の左あたりに王寺町の 明神山 がある
手前は平群町・右の方は三郷町だろう
曲がって流れる大和川を もう少し大きく撮る
南副郭跡から南郭群跡への間には、急な下り坂~急斜面の上り坂でロープが張ってある
標高220mの南郭群跡、後方の山は生駒山
大きな 「椿井城跡」の旗が風にはためいている
2時間余の山城跡散策、昔を忍び & まあまあ適度な運動になりました。
《 参 考 》
矢田丘陵の稜線上に築かれた山城跡。南北が300mもある細長い城で、多くの曲輪や深い切り通し堀、土塁が残っておりごく一部に石垣も見られる。
中央部がやや低く、城域が南北に別れ、高い北側部分が中心の主郭にあたる。
西側山裾と主郭部との比高差が180mもあり、西側の平群谷への見通しが常に良く、谷の南半を抑える要衝に位置し、西側が城の防御正面と考えられる。
城主は当初椿井氏が築城し後に嶋氏が取って変わったと考えられ、戦国末には筒井傘下の嶋左近と信貴山城に入った松永久秀との間で幾度もの争奪戦が繰り広げれられたと考えられる。
天正8年(1580)織田信長が筒井順慶に命じ、郡山城を残して大和の諸城を破却させており、本城もこの時に放棄されたとみられる。
・・・・ 平群町観光ホームページより