ついに、新国立競技場は白紙から再検討になりました。
しかし、片や自分の意思を通して強行手段に出たかと思うと、あっさりと白紙へ戻したりして、いささか支離滅裂な人物像が透けて見えました。
「私は最初からあんなデザインは気に入らなかった」と言い放った方もいましたが、「わしはこんな所へ来とうはなかった」と言った子供と比較して全く可愛げがないなと感じました。
昨日、今日の決定発表のための地ならしとして、新国立競技場のデザインを審査した審査委員長が記者会見しました。
あれも、一応お前の責任ではないから、弁明の機会を与えるからねと言った感じなのでしょうね。
実は、あの審査員長が設計した建物が私の地域に二棟あります、一つは図書館、一つは中学校です。
図書館は良く利用しますが、審査員長があそこまで言い訳をされたので、私も言いたいことがあります。
図書館としての使い勝手はともかく、強く言いたいのはトイレのドアです。
図書館のトイレに入るには、鉄製の大きなドアを開けないと駄目なんです。
小さい子供も、力の弱ったお年寄りも利用する公共施設なのに、なんでこんなドアを設置したのか、図書館ができた時から大きな不満を感じていました。
中学校も人づての話ですが、恐ろしく使い勝手が悪くて、良い評判は聞きません。
だけど、建築を生業とする方には凄いらしく、時々図書館で建物見学ツアーの人たちを見ます。
この手の設計者が、どこまで細部の設計に関与しているのかは不明なので、一方的に批判するのはフェアではないとは思っています。
公共の建物というのは、エジプトのピラミッドの様に古い時代から権力者が権力の象徴として作り続けてきました。
今は、その権力者を私達有権者が選択するのですから、最終的な責任は選挙民だと言われればぐうの音も出ませんが。
権力者は、選挙民の選択を映し出しているかも知れません、コジツケですが湖面に映るハスの花のように。
だけと、たががトイレのドア、されどトイレのドアで、図書館でトイレを使う度にむかっ腹が立っています。