九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

女の子の好まれる名前    らくせき

2009年12月08日 18時29分32秒 | Weblog
先日、子どもにつける名前が記事になっていました。

男の子の名前の「トップ10」には、「羽ばたく」という意味を持つ
「翔」が入った名前が三つもランクインした。
「大翔」(ひろと)が1位、「翔太」(しょうた)が2位、
「翔」(しょう)が10位だった。
このうち、「大翔」は4年連続で1位となった。
また、「はてしない」「ゆったりした」という意味の「悠」という
漢字を使った名前も、三つがトップ10入り。

女の子の名前も、「たくましい」「りりしい」という意味の「凜」と
いう漢字が入った名前が1位となった。
また、花にちなんだ意味を持つ名前も依然として人気が高かった。

男女ともに、年を追うごとに世知辛くなる社会環境の中で
強く生き抜いてほしい、という親たちの願いを込めて
名前を付ける傾向があるとのこと。

  

競争が激しくなる時代にあって、名前も強そうなものにする
風潮にあるという解釈はホントウでしょうか。
もともと男の子には強そうな名前が選ばれていました。
興味深いのは女の子の方かな。
花にちなんだものより、独立した人格を思わせる
「凛」などが好まれるのは、やはり時代の変化でしょうか。


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創価学会の研究を読んで    落石

2009年12月08日 13時56分46秒 | Weblog
玉野和志さんの「創価学会の研究」を読みました。
とても面白かったので、紹介します。
どこまで読めたのか?自信がないので、ちょっと
混乱した投稿になってしまいました。

一回目は、中間層の反乱。
二回目が、創価学会の行方。

では一回目、コイズミ政治とは何だったのか?から
お話しが始まります。

多国籍化した大企業と組織労働者。
その周辺で高給を得ている専門職のホワイトカラー。
そして官僚。これらの層からなるエリート層。
(これがずっと日本の政治を牛耳ってきた。)

そして、その下に数多くの中間層がいる。
中間層とは、中小企業のオーナー、その下で働く労働者。
商店主。自営業者など。
(農村から都会へ出てきた人々とその子どもたち。)

自民党はこのエリート層と中間層がケンカしながらも
土建政策を軸に、資源を中間層(地方)に再配分することによって
政権を維持することに成功してきた。

しかし土建国家は、もはや成り立たなくなり、国民に否定された。
新しいグローバル経済に対応できなくなったため。
しがたって、ふたつの勢力からなる自民党は内部分裂をせざるを得ない。

自民党をぶっつぶすというコイズミ政治は
エリート層がしかけた罠だった。
エリート層が、グローバル化に対応するために
これまで中間層に配分されていた資源を独占しようとしたもの。

政治的には田中派の徹底的な排除。
経済的には大企業優先、お金持ち優先の政策。
法人税などの優遇、労働力の流動性を高める派遣法の制定など。
格差社会のワクグミが作られた。

この時、かっての田中派の役割(中間層の政権への協力)を担ったのが、
公明党であった。
自民党の公明党の連立は、こうした土台があったから成功してきた。

しかし、世界不況をきっかけに矛盾は拡大していく。
中小企業の倒産が増え、派遣労働者は解雇された。
日本の豊かさの象徴だった中間層は貧困化していった。

選挙では、中間層の反乱、地方の反乱が起こった。
自公政権は崩壊した。

では、新しい政権は、どういうワクグミをつくろうとしているのか?

民主党の行動を見ると、生活優先というマニフェストから
中間層を救済しようという考えが読み取れるが、
救う具体的な有効策は見えてこない。

いま行っている、これまでの利権にメスを入れる作業が終ると
なにが提示されるのか?
雇用など、先の根本的な解決策を持っているようには見えない。
これは世界的にみても、有効な政策を実施している国はないから、
仕方が無いことかも。

しばらくは、試行錯誤と混乱がつづくのでは?

  

この混乱で、さまざまな政治勢力が試されるが、
この本は、創価学会について、次のように論じている。

                 (つづく)
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自民党、存在感がまったくない。   らくせき

2009年12月08日 13時00分01秒 | Weblog
このところ、民主党が右の国民新党、左の社民党との
連立政治を上手に展開している。

いずれ破綻する時がくるけれども、現状では
連立は100点にちかい状態、
どんな成績をあげられるか?が注目されている。

これでは自民党には、まったく出る幕がない。

決断しない?鳩山さんが、どこまで上手に
お御輿にのっていられるのか?

「優柔不断」などといわれているが、案外
しぶといかも・・・

自民党はどういう対抗軸を打ち出すのか?

官僚を叩かれては、財界も組む相手がなく
いまのことろ民主の失投待ち。
自民に頼るより、民主に近づいたほうが良いかも。

そうしたら実質、大連立の状態かも・・・

それは、ねぇ、ちょっと・・・

ガンバレ自民党。




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今日は十二月八日    只今

2009年12月08日 06時12分42秒 | Weblog
 かっての新聞俳壇には、「十二月八日真白な花活けて」「十二月八日の米を掴み磨ぐ」「打楽器で明けて十二月八日」といった句が並んだが、やがて、何かせねばと思うも「十二月八日と思ひ暮れにけり」となり、ついには「十二月八日ころりと忘れいし」ということになってしまった私たち。
 
 そして今日、一言も告げることない朝のラジオ。致し方ないかと新聞を見ると、『毎日』の〈余録〉は、68年前の新宿の様子を再現してこう締めていた。
 【満州事変から日中戦争を経てこの日に至る日本の指導者の世界認識の狂いは、なぜ日増しに大きくなったのか。この問いはもちろん新聞にはねかえってくる。では今、私たちは世界の現実を正しく伝えているのか、新聞にたづさわる者の自問である】
 
 『朝日』の〈天声人語〉は、【今日が何の日か知らない若い世代が、ずいぶん増えていると聞く。わが身も含めて4人に3人が戦後生まれになった今、風化はいっそう容赦ない。伝える言葉に力を宿らせたいと、かって破滅への道を踏み出した日米開戦の日に思う】
 〈余録〉氏に比べると、第三者的ゆとりがみられるのは、〈天声人語〉氏が戦後生まれの故だろうか。
 
 『産経』の〈正論〉は、井上寿一(学習院大教授)氏。
 【①先の大戦は日本の自主的決定によるものであり、②開戦へと向かわせたのは大衆民主主義であり、東条ではなく、③戦略構想不在故の開戦であった。
 この教訓が示すものは、戦略構想の重要性であり、その基本国策は、国民の人気を得られなくとも推進しなくてはならないということである】
 これ「産経・正論」グループの現在の視点と、注目しておきたい。
 
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随筆 不整脈ランナーの手記(6)   文科系

2009年12月08日 05時56分05秒 | 文芸作品
 随筆 不整脈ランナーの手記(6) 1時間9キロ! 身体に「質的変化」 

 18日の最悪の不整脈から再々出発をした。以下すべては、正式マラソン記録以外はウォームアップ歩行を入れての1時間の距離だが、23日7.1キロ、26日8.3キロと回復してきた。以上のことは、前回に述べている。

 それから1昨日6日まで、好調に来ている。30日8.55キロ、3日8.62キロ、そして6日が8.99キロになった。再々出発前の11日8・8キロを超えられて、3月の9.3キロにまた近づいた。こういう日々、ジムを出る時など、とても気分がよい。「今日も1時間走れた!」「この年でもまだまだ回復できるのだなー!」 そんな充実感、高揚感のようなものとあいまって、ちょっと冷たくなってきた夕風が気持ちよいこと。高校時代の部活帰りの状況、気分をそっくり繰り返し、味わい直している感じだ。70歳近くになって、こんなものが味わえるなんて! 腹が減ることまでが、同じなのである。今は連れ合いと2人で通うジムであるが、夕食がそのまま外食になり、ビールも含めて殊更の味になる。

 さて、3月の1時間9・3キロはもう明日にでも越えられるだろう。これを超えれば、これ以上の記録はもう07年3月29日の9・5キロしか残っていない。このちょっと前1月21日の北名古屋市10キロマラソンで、正式タイム54分18秒(時速に直すと11キロちょっとになる)を記録しているその直後のことだ。以降3年近くは、激しくなった心房細動を怖がって、それ以上の挑戦を避けてきたということである。対するに現在は、この2年半のいろんな試行錯誤、努力が創意工夫の力になって、ここまで来られた。さて、今からはこのマラソン記録にどれだけ近づけるかということになる。
 現況を観るとこれからはスピード練習が必要になるが、これがどこまでできるかである。今日はこんな感じだった。脚自身はこの2年半なかったように、非常な軽さを感じた。体内で何か質的変化が起こったような、そんな感じさえあった。足が何の無理もなく、どこまでも乱れのない同調子で、すたすたと無限に前へ前へと出て行く感じ。それが地面に落ちるときに生じる音もほとんど生じないのである。こんな時は、1時間の終わりに近づいても、何の疲れも感じない。スピードもこの2年ほどは確かなかった時速10キロまであげたのだが、やはり同じである。息も乱れないのだから、自重してスピードを抑えるのに苦労した。
 けれどそれにしても、2年半前に比べれば最高速度を時速10キロまでという遅いスピードしか出していないのである。今後はこのスピードを上げながら以前の記録にどれだけ近づいていけるかだ。例えば、1時間走る中で、時速10・4でどれだけ走れるか、10・6キロではどうかというように。今の感じでは10・5キロ時でも30分は軽い感じが今日してきたが、それだけ楽しみが増えてきた。わくわくすると言っても良い。ただし、このスピードだと現在なら心拍数165を超えるだろう。無理はできないから、そこでさてどうなるだろうかというところ。
(続く)

 お読みいただいている方々へ

 こんなものを連載していると、大いにこんな誤解を受けそうだ。自慢しているとか、ナルシズムであるとか。そんなことを思って、今日は、一言、追加を。

 昔の人々は、同じ地域社会の老人たちが、あるいは初老の人に、あるいは壮年の人に、「老い、老人ってこんなもんだよ」「こんなことが、やがて備えになるんだよ」「あいつは、こんな事で『人生の体調管理』を失敗したのだと思う」などなどいっぱい話し、語りあってきたはずだ。しかも、地域で幼いころから観てきた先輩たちの老いていく様子などから代々受け継がれてきたようなことを。それに比べて今の都会の大人、特に男は、何と孤独に老いを迎えることか。積極的な知恵は随分少ないなとか、時代を反映しているのか病気対策ばかりだなとか、僕はそんな気がして仕方なかった。本、テレビなど老いの情報は巷に溢れているはずなのに、そういう知恵が実際の知恵には全くなっていないような。結果として、「老い、その諸現象に対して茫然自失。同じく茫然自失と死んでいく」そんな人も多いのではないか。こんな表現も浮かんで来る。

「マスコミに老い情報溢れ、それに対して個人個人が自由闊達に向きあっているというと格好良いけれど、実は、何にも生かされていない。多面的に人々が話し合うということがないから、多分刺激もないのだろう。60歳の人の話を40歳の人が話しあうことなんかもなかなかないのだし。知識の多くはみんな手遅れ。マスコミは金が要るが、会話は金は不要なのに。」

 こんなわけで、こんな気がしている。政治談話も良いけれど、上のようなこんな話、会話とか、趣味の話とかの方が人生にとって、その幸せにとって遙かに実は重要なのではないか。人は「必要」の話、「困難からの脱出」の話だけでなく、文化の話、楽しさの話もしないと、若い人に良くないとも。各人、たった一度の人生なのだから。

コメント (5)
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