【余禄】:「三・一一神はゐないかとても小さい」…
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【余禄】:「三・一一神はゐないかとても小さい」…
「三・一一神はゐないかとても小さい」。岩手県釜石市で被災した照井翠(てるい・みどり)さんの句は、震災3日後に避難所から初めてがれきの街を歩いた時の実感という。津波は人の心のよりどころを根こそぎ奪い去った▲子を守るため、介護する老親のために逃げ遅れた人々の話が胸を詰まらせた当時だ。人々を避難させようと職務に殉じた人々も涙を誘った。家族への愛情も、職務への献身も、人の世の宝をこともなげに流し去った津波の惨禍であった▲人の情理をあざ笑うような災害の魔に、「神はいるのか」と不遜(ふそん)な問いが胸をよぎったりもした。だが列島各地で被災地で避難所で、人々のいたわり合いや助け合い、責務への献身が人の心に宿る「神」を感じさせた惨禍の日々だった▲それから10年の歳月が流れた。巨額の国費を投じた復興事業で岩手県と宮城県の沿岸部は姿を一変させた。ハード面の復興はほぼ終わりを迎えつつあるともいう。では震災当時、人々が分かち合った「被災」は消え去ったのだろうか▲「三月の君は何処(どこ)にもゐないがゐる」は照井さんの最新句集「泥天使」から。喪失の悲しみを胸に沈めて前へ進んだ方もいれば、終わらない喪(も)を生きる方もいる。「被災」が個別化して社会の表面から見えなくなった災後10年である▲復興住宅での孤独死がくり返されている。見えない「被災」に共感のネットワークをつなぎ、またいつか列島を襲う惨害の魔から人の世を守るには何をなすべきか。災後と災前のはざまを生きる私たちである。
元稿:毎日新聞社 東京朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【余録】 2021年03月11日 02:04:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。