会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

十日市に出かけて その二

2014-01-11 07:34:34 | Weblog
2014年1月11日(土)雪 1.2℃~-3.6℃

 昨日は十日市に出かけて久しぶりにゆっくりと街中散策をした。
 
 ここ数年は神明通りを往復するだけだったが、大町通りまで足を伸ばし,田中稲荷神社で塩俵(火伏)を買い、昔ながらの店構えの漆器店をのぞき町方伝承館に入った。店内には赤べこ、八重の桜関係品、会津木綿など土産が並び大勢の人が品選びし買い求めていた。福島一の記念スタンプ(B5版)があった。絵柄が印刷されている紙にぴったり合うようにスタンプを押すのだがうまくいかなかった。2階では8日から10日まで会津とゆかりの地観光物産展が開催されていた。最終日なのでほとんどの産品はなくなってっていたが、むつ市の海産物があったので買い求めた。




ゆかりの地として北海道の稚内市、青森のむつ市、長野の伊那市、徳島の鳴門市だった。
皆さんは会津との関係がお分りですか。当然ご存知でしょうが・・・・。
 稚内市では会津藩士がロシアに対する北境沿岸警備にあたっていた。旅行した時藩士の墓にお参りした。
 むつ市は会津藩の士女子が移住し斗南藩で苦労したところ。現在子孫の方々は各界で活躍されている。
 伊那市は会津松平藩の始祖保科正之公の出身地高遠藩。現在の会津に食文化をはじめいろいろな文化が伝承されている。
 鳴門市は松江豊寿と久留米俘虜収容所、ベートーベンの第九でしょう。 

 『1917年に丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、合計約1000名の捕虜が収容された。収容所長は松江豊寿陸軍中佐(1917年以後同大佐)。松江は捕虜らの自主活動を奨励した。今日に至るまで日本で最も有名な俘虜収容所であり、捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行ったとして知られている。板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人捕虜と日本人との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促したとも評価されている。板東俘虜収容所の生み出した“神話”は、その後20年余りの日独関係の友好化に寄与した。』

 まだ会津とのゆかりの地は横須賀(会津をまとめた葦名氏の出身地)、京都(京都守護職)などがある。来年は・・。

町方伝承館を出て大町通りを野口英世青春通りに戻った。少し疲れたので喫茶店に入って一休みした。喫茶店があるのは分かっていたが入ったことがなかった。中合デパートがなくなり店の前は広い空地。狭い通りにあった時とは雰囲気が違う。妻と二人でコーヒータイム。

もう一度神明通りに戻り、歴史春秋社の店で本を買う。毎年数冊買い求める。この日だけ定価の半額。
 ロータリの店では「漬物がサービスですよ」の呼び込みでつきたての餅を買った。漬物サービスとは大根漬け一切れでした。(笑)