平成24年、新年明けましておめでとうございます。今年も「老人タイムス」ご愛読よろしくお願いいたします。ここまでキーを叩いて一瞬僕は「平成」と「昭和」とが、ごっちゃになっている錯覚を覚えた。昭和天皇が崩御された後、当時の小渕恵三官房長官がテレビで”新しい年号は平成です”と紙を垂らして説明されたのが、つい昨日のように思えたが、あれからもう24年も経っているのだ。
戦前の「昭和」を知っている僕らの世代にとっては「昭和24年」というと、大東亜戦争を挟んで昭和のかなり長い歳月を感じる。しかし、考えてみると敗戦からまだ4年しか経っていなかったのだ。それなのに戦前の昭和と戦後の昭和とでは全く異質な時代で、長く長く感じる。不思議なものだ。
昭和24年1月1日、GHQ(連合軍最高司令部)は日本政府に対し、禁止されていた国旗「日の丸」の掲揚を許可した。当時僕は大学の予科1年生(18歳)だったが、全くこの発表を覚えていない。新聞も大きく報道しなかった様な気がする。占領政策にならされて、国旗とか国歌とかいった問題はあまり国民の関心事ではなくなっていたのかもしれない。この年の正月、僕は友人と日比谷劇場でボブ・ホープ主演の映画「凸凹二挺拳銃」をみた。映画の主題歌は戦後の日本で大ヒットした”バッテンボウ”(Button and Bow)のあの歌である。
昭和24年となると、食料事情は多少よくなってきたが、国民はまだ娯楽に飢えていた。テレビどころかラジオもNHKだけであった。僕ら若者は進駐軍放送(WVTR)から流れてくるジャズ音楽に夢中になった。大学の校庭の一角には進駐軍兵士の宿舎と同じカマボコ型のトタン屋根のバッラクが建ち地方からの学生寮に使われていた。
平成24年、我が家に届いた新年の新聞はどさりと重い。計ってみたら広告まで入れてだが2・7キロもあった。海外旅行の広告にはお二人で「20120円」といのもあった。景気が悪いといっても「平成24年」は「昭和24年」とは比べ物にはならない。
戦前の「昭和」を知っている僕らの世代にとっては「昭和24年」というと、大東亜戦争を挟んで昭和のかなり長い歳月を感じる。しかし、考えてみると敗戦からまだ4年しか経っていなかったのだ。それなのに戦前の昭和と戦後の昭和とでは全く異質な時代で、長く長く感じる。不思議なものだ。
昭和24年1月1日、GHQ(連合軍最高司令部)は日本政府に対し、禁止されていた国旗「日の丸」の掲揚を許可した。当時僕は大学の予科1年生(18歳)だったが、全くこの発表を覚えていない。新聞も大きく報道しなかった様な気がする。占領政策にならされて、国旗とか国歌とかいった問題はあまり国民の関心事ではなくなっていたのかもしれない。この年の正月、僕は友人と日比谷劇場でボブ・ホープ主演の映画「凸凹二挺拳銃」をみた。映画の主題歌は戦後の日本で大ヒットした”バッテンボウ”(Button and Bow)のあの歌である。
昭和24年となると、食料事情は多少よくなってきたが、国民はまだ娯楽に飢えていた。テレビどころかラジオもNHKだけであった。僕ら若者は進駐軍放送(WVTR)から流れてくるジャズ音楽に夢中になった。大学の校庭の一角には進駐軍兵士の宿舎と同じカマボコ型のトタン屋根のバッラクが建ち地方からの学生寮に使われていた。
平成24年、我が家に届いた新年の新聞はどさりと重い。計ってみたら広告まで入れてだが2・7キロもあった。海外旅行の広告にはお二人で「20120円」といのもあった。景気が悪いといっても「平成24年」は「昭和24年」とは比べ物にはならない。