「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

            昭和10年代の東京の正月

2012-01-03 07:12:38 | Weblog
テレビで箱根駅伝をほろ酔い気分でみていたら無性に、昔子供だった頃の東京の正月が恋しくなった。確か10数年前、ワープロに戦前の正月風景を書き保存していたと思い、フロッピーを探し出したが肝心の機器本体がない。数年前、不燃ごみとして捨ててしまっていた。しかも原文は予備をコピーしていなかったから、文字が薄れてしまってやっと読める状態だったが再読はできた。

わが家は戦前サラリーマンのごく普通の家庭だったが、家には仏壇と神棚があった。明治17年生まれの父親はそれほど信心深いとは思わなかったが、毎月1日と15日には時間をかけて仏壇と神棚をお参りしていた。しかし、元旦には何故か参拝しなかった。元旦には、几帳面だった母親も家の中の掃除をしなかった。多分、元旦には静かに新年を迎えようという習慣があったのであろう。母親は朝9時頃、一番先に起きて消し炭で火をおこし、それを木炭に移して十能を置き、その上の金網でお雑煮用の餅を焼いた。

10時頃一家そろって新年の祝膳につき、お屠蘇を祝ったが、なぜかその順番は歳の一番下からであった。料理は母が暮れのうちに用意しておいたおせち料理だが、わが家では特に鮭とか鰤(ぶり)は使わなかった。”おめでとうございます”の挨拶のあとお年玉を貰ったが、小学生だった僕は50銭銀貨一枚だった記憶がある。当時子供が日常駄菓子屋で使うお小遣いは1銭だったから、かなり子供にとっては大金であった。

門ごとに建てられた松竹とともに日の丸が掲げられた。元旦は商店も休みで町は静まりかえっていたが、三が日は”お屠蘇気分”の年始参りの人々でにぎわった。男の子は、当時東京にもまだあった”広っぱ”へ行きタコあげをしたり、女の子は路地で羽根つきに夢中になった。駄菓子屋にはお年玉をもらった子供たちがたむろし、くじ引きで大きなキンカ糖でできた鯛を当てるのが楽しみだった。

家庭内での遊びも盛んだった。”福笑い””双六“”いろはカルタ””百人一首”などなど。寒い凍てついた夜”百人一首”の読み人の独特のふしまわしの声が明るい電燈の下から漏れてきた。女性の華やかな日本髪の振袖姿とともに正月の風物詩だったが、今はない。