マレーシア国歌「Negalaku」(わが祖国)は1890年、当時英国の植民地だったペラ首長国の第28代サルタンだったイドリス,シャー一世が、首長国国歌として制定、これが1957年、マレーシア独立のさい数ある候補のなかから国歌に採用された。ところが、このメロディは、戦前マレーシアだけでなく、インドネシアを含む広くマレー世界で歌われていた「Toerang Bulan」(月の灯り)が元歌だというのが定説になっている。
「Toerang Bulan」については、すでに小ブログ「マレーシア国歌の起源はシャンソンか」(2012年3月14日)で触れたが、その起源に関してはシャンソン説など諸説紛々あって定かではない。ところが、小ブログを見た秋田在住の「音顧値針」氏からコメントを頂き”起源はフィリッピン.ミンダナオ島ではないか”と指摘があった。「音顧値針」氏は南方音楽の一つであるクロンチョンの権威で、中でもその一つである「Toerang Bulan」についての造詣が深い。わざわざマレーシアのペラ州の首都クアラカンサーの博物館まで行き調べられている。
昨日僕は「音顧値針」氏と東京のインドネシア料理店「せでるはな」で会いお話を聞いたが、クアラカンサ―の博物館には1904年ミンダナオで録音した「Toerang Bulan」の元歌が残っており、これがCDに収められているという。「音顧値針」氏によると「Toerang Bulan 」はミンダナオからセレベス(スラウェシ)-セラム、アンボン―フロレス―ジャワ―スマトラ(いずれもインドネシア)を経てぺナン―ぺラ(マレーシア)に渡ってきたのではないかと推測している。
「Toerang Buulan」は大東亜戦争で南方に従軍した日本軍兵士によって広く愛好され、銃後の日本でも昭和18年、灰田勝彦が歌ってレコード化されている。当時小学生だった僕は、母校の吹奏楽団が「Toerang Bulan」を東京の日比谷野外音楽堂で演奏したのを聞いている。
(「音顧値針」氏から昭和12年に「toerang Bulan 」を歌ったインドネシア人女性歌手、Miss Roekjaが98歳の高齢で中部ジャワで健在なことを知った。氏は今月中旬、商用をかねてソロへ出かけMiss Roekjaと再会する予定のこと。僕は数年前知人から頂いたMiss RoekjaのSP盤から録音したテープを氏に託した。ブログが取り持つ縁かいなである)
「Toerang Bulan」については、すでに小ブログ「マレーシア国歌の起源はシャンソンか」(2012年3月14日)で触れたが、その起源に関してはシャンソン説など諸説紛々あって定かではない。ところが、小ブログを見た秋田在住の「音顧値針」氏からコメントを頂き”起源はフィリッピン.ミンダナオ島ではないか”と指摘があった。「音顧値針」氏は南方音楽の一つであるクロンチョンの権威で、中でもその一つである「Toerang Bulan」についての造詣が深い。わざわざマレーシアのペラ州の首都クアラカンサーの博物館まで行き調べられている。
昨日僕は「音顧値針」氏と東京のインドネシア料理店「せでるはな」で会いお話を聞いたが、クアラカンサ―の博物館には1904年ミンダナオで録音した「Toerang Bulan」の元歌が残っており、これがCDに収められているという。「音顧値針」氏によると「Toerang Bulan 」はミンダナオからセレベス(スラウェシ)-セラム、アンボン―フロレス―ジャワ―スマトラ(いずれもインドネシア)を経てぺナン―ぺラ(マレーシア)に渡ってきたのではないかと推測している。
「Toerang Buulan」は大東亜戦争で南方に従軍した日本軍兵士によって広く愛好され、銃後の日本でも昭和18年、灰田勝彦が歌ってレコード化されている。当時小学生だった僕は、母校の吹奏楽団が「Toerang Bulan」を東京の日比谷野外音楽堂で演奏したのを聞いている。
(「音顧値針」氏から昭和12年に「toerang Bulan 」を歌ったインドネシア人女性歌手、Miss Roekjaが98歳の高齢で中部ジャワで健在なことを知った。氏は今月中旬、商用をかねてソロへ出かけMiss Roekjaと再会する予定のこと。僕は数年前知人から頂いたMiss RoekjaのSP盤から録音したテープを氏に託した。ブログが取り持つ縁かいなである)