「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

  (付録)わが大君に召されなば(7)今沢栄三郎

2013-04-26 15:47:17 | Weblog
一難去ってまた一難、あとで考えたことだが、こんな行程も地形的関係から無理を承知で作ったのであろうと思ったのだが。緊張感も緩んで冗談の一つも口からでるようになって進んでゆくと、俄然行けども行けどもジャングル地帯のぬかるみである。歩きにくいことおびただしい。比較的歩きよい道に出たと思うとまたしても湿地,ブツブツと軍靴が沈む。もうそろそろ青空の見える所に出てもよいのえはないかと心の隅であせりも出てくる。しかし、だれでもが疲労して声もなく何を考えているのだろう。引き返すこともならず、ただ進むことのみによって活路を求めた。「おおい海に出たぞ」と誰かが叫んだ。(中略)
ジャワ島に集結する陸軍部隊の輸送には海軍の艦艇があてられるそうだ。この噂は私どもを十二分に元気ずけた。いま海軍とても艦艇は足らない悪条件下に置荒れているのに、俺たちの生命を大切にしてくれて、それで沈没したら、また何をいわんやだ。
集結地ビルを目前に控え、いよいよ遺棄軒昂としてマカリキという小に入る前日の事であった。行軍中の炊事班長を命じられていたいた私は主計曹長とと相談して虎の子の砂糖と小豆を使ってお汁粉を作ることにした。行軍中にお汁粉は意外だったらしい。僅かな心づくしが、荒れ果てている兵隊の神経を和らげことになったのに私は満足した。(中略)
最後の日程は思いもかけず、舟艇(ダイハツ)によって輸送され、行軍とは違い落であった。離島間の兵員輸送に行動したのは船舶工兵隊であった。海軍ではなく暁部隊の秘匿名で大東亜戦争中、隠れた功績でその功績は素晴らしいものであった。勇気ある船舶兵に操縦され暁雲をついてマカリキの椰子の浜辺にグーンと乗り入れた。潮風にかざして星明かりで見た腕時計の針は、運命の日より半か月前の8月1日午前4時15分を指していた。

           白寿のお祝いに90代の戦友が3人も参加

2013-04-26 07:37:31 | Weblog

小ブログで連載中の「大君に召されなば」の今沢栄三郎さんの99歳白寿をお祝いする会が昨日、目黒のインドネシア料理店「せでるはな」で催された。今沢さんの長年の日本インドネシア友好を反映して両国の友人知人30人が集まった。驚いたのは93歳、94歳の戦友3人も元気な顔を見せてくれた。
99歳白寿のお祝いなど昔は稀有だった。僕が子供だった戦前の昭和の頃流行した「村の船頭さん」の歌詞には”村の渡しの船頭さんは今年60の御爺さん、齢はとってもお船を漕ぐとき元気いっぱい櫓がしなる”とある。60歳でも御爺さんだったのである。
お祝いを仕切ってくれたのは、お父さんが元軍人で戦後インドネシアに残留したTさんの長女で、今は日本人と結婚して東京に住んでいる。今沢さんはTさんのような残留二世の団体にも関係しているので、昨日も3人が参加した。このほかインドネシアの元新聞記者で、在日30年、イスラム関係の日本語新聞を出しているM氏も参加してくれた。
会場では在京のインドネシア人女性が北スマトラの珍しいマレーの踊りも披露してくれた。90代の戦友の一人は戦争中、この北スマトラのアサハンでオランダの民間人収容所の所長だったために危うく戦犯になるところだったが、オランダ人への扱いが良かったため、逆に収容者からの釈放陳情で戦犯にならず無事帰国できたという経歴の持ち主だ。この従軍世代は皆大正、昭和、平成と三代、激動の時代をたくましく生きてきた先輩である。80代の僕なんか足元にもおよばない。