初年兵教育が終わり内地勤務の歯科医師であった数名の仲間を残して、広東、海南港、仏印組に別れ宇治を出発したのは秋たけなわの9月末だった。(中略)仏印組の私の乗った輸送船は広東湾に入り、初めての異国である黄埔に着いた。港で陸揚げの荷物を担いで行く苦力の姿や犬を見つけ、犬の世界には国境がないので、ほっと胸をなでおろした。船内での約10日間、入浴もできず、下船して割り当てられた兵站宿舎で、暗闇の中でのドラム缶の風呂の加減は、地獄から天国にきたような心地であった。
翌朝、そのドラム缶を見たら、褐色なのにおどろいた。よくあんな不潔な湯に良い気持ちで入れたものだと思った。黄埔に1週間ほど待機していたが、ある日、広東に行った。駅前広場で中国の靴磨きの少年が敗戦の屈辱にめげず、日本の兵隊に敵愾心に満ちた鋭い眼差しを向けていたのが忘れれれなかった。
再び海路、当時の仏領インドシナといわれたハイフォン港に入り、今度はトラックで北上してランソンに向かった。ハイフォンの兵站宿舎は通過部隊やら私たちのような追及する兵隊の宿泊所で、どうも小学校の校舎らしかったが、天井に「ヤモリ」がぶる下がっているのが薄気味悪かった。ランソンのわが配属の本隊は郊外の小川のほとりにあった、第二防疫給水部という軍隊ではあまり聞きなれぬ名称で、この部隊に私が終戦の日までご厄介になろうとは思いもよらぬことであった。(後略)
翌朝、そのドラム缶を見たら、褐色なのにおどろいた。よくあんな不潔な湯に良い気持ちで入れたものだと思った。黄埔に1週間ほど待機していたが、ある日、広東に行った。駅前広場で中国の靴磨きの少年が敗戦の屈辱にめげず、日本の兵隊に敵愾心に満ちた鋭い眼差しを向けていたのが忘れれれなかった。
再び海路、当時の仏領インドシナといわれたハイフォン港に入り、今度はトラックで北上してランソンに向かった。ハイフォンの兵站宿舎は通過部隊やら私たちのような追及する兵隊の宿泊所で、どうも小学校の校舎らしかったが、天井に「ヤモリ」がぶる下がっているのが薄気味悪かった。ランソンのわが配属の本隊は郊外の小川のほとりにあった、第二防疫給水部という軍隊ではあまり聞きなれぬ名称で、この部隊に私が終戦の日までご厄介になろうとは思いもよらぬことであった。(後略)