「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

      今沢栄三郎さんの白寿のお祝いと話を聞く会

2013-04-21 17:15:18 | Weblog
人生の大先輩、今沢栄三郎さん(大正3年生まれ)の白寿のお祝いとお話を聞く会を開きます
▽ 日時 2013年4月25日(木)午後1時から3時
▽ 場所 品川区上大崎Ⅲ-5-4 インドネシア料理店「せでるはな」
                 電話 03-3473-0354
▽ 会費 3,000円(飲み物別)

▽ どなたでもご参加希望の方は事前に直接「せでるはな」へ電話で申し込みください。

       (号外)わが大君に召されなば(3)-(3)今沢栄三郎

2013-04-21 15:10:53 | Weblog
闇をついてシンガポール島上陸の行動が開始された。一列縦隊になり渡河点に集結のため前進する。前夜来の雨も上がったようだ。道を間違えないように曲り角には、足元を照らすだけの小田原提灯の光がゆらいでいた。歩兵部隊の中で私たち4人は不気味なほど沈黙し粛々と動く隊列の中で、前を行く戦友を見失わないよう神経を集中していた。
上陸作戦の成否を決する舟艇に無言で手招きされ、員数の中になんとなく入りこんでいた。深い闇を縫って水の上を走っているようだが、それも長い航路の終りの旅のようにも感じられた。 再び無言で舟艇から降り、シンガポール島の土に軍靴の跡を印したのだが、なんだか嘘のような気持ちだ。もう後戻りはできない。静かに静かに前に進む。敵軍からの反撃はまだ全くなかった。砂浜がつきると崖である。独りでは登れなかった。先に登っていた高木中尉が軍刀を差し出して、私たちを次々にあげてくれた。目当てもなく、前の兵隊の歩いている方向に従って行く。突如、至近弾が炸裂してあたりが明るくなった。
日本軍の上陸に気づいた敵が海岸線めがけて撃ちこんできたのだ。迫撃砲だと誰かが囁いでいた。ヤシの大木が目のまえにあった。そこに自然と兵隊の影が集まってゆく。私もつられて、その場所へ吸い込まれていった、”かたまってはいけない”と先任らしい下士官がどなる。前へ前と進む。それは本能的なもので、後方から日本軍の砲撃に足が前へ押し出されるように黒い集団の列に加わっていた。僚友とは既に別れ別れになっていて、私は顔も知らない他の分隊の中に紛れ込んでいた。
シンガポール島のガソリンタンクが炎上して黒い雨を降らしていた。それがシャツを通し臍の穴にまで浸みこんでいるのに気が搗いた。一服していたら思い出したように迫撃砲のお見舞を受けた。散発的なのだが、せっかくここまで生命があったのだから、生きるだけ生きたい気持ちだった。(中略)
ブキテマ三叉路を目標にして、シンガポールを死守する英豪軍の反撃が開始された。紀元節にシンガポール突入の夢ヲ打ち砕かれ私たち日本兵は遮蔽物を求めて散開下。どの防空壕もいっぱいで、闇の中にただうろうろするだけであった。辛うじて英濠軍が構築した防空壕を借用してホット一息ついた。壕内に入った瞬間、粗末なタル木の天井から泥が崩れ、蝋燭の光が消えかけた。もうこれまでと瞑目し恥ずかしい次第だが神仏に念じるほかはなかった。(中略)
2月15日昼ごろ、ブキテマ三叉路の近くで白旗を掲げた英軍の軍使を見た。その夜はテニスコートらしい庭に全身を横たえ星空を眺めながら、戦いの終わった喜びをしみじみと満喫した。それは2週間あまりの戦いだったのに、深い旅路を終えた安堵感にも似たような心境であった。














      (号外)わが大君に召されなば(3)-(2)今沢栄三郎 

2013-04-21 13:17:13 | Weblog
ハジャイ、クローゲン、サダオ等々を難なく突破し国境を越えた。(中略)マレー戦の最初の関門であったジットラには3万の精強な英軍が堅固な防衛陣を敷いていた。これを突破したのは佐伯中佐の指揮する軽戦車隊であった。(中略)部隊は町から町へと南下し、町へ入ると、まず薬店を探し蚊取り線香と消毒薬など部隊の必要とする医薬品を徴発した。何のことはない。泥棒である。(中略)アロースターは、マレーの国境を越えてからみる初めての町らしい繁華街並みであった。中国大陸以来、徴発や略奪になれている下士官や古参兵らが表通りの商店に侵入し、他のものには目もくれず、金庫の扉を壊している姿には呆然と立ちつくした。(中略)
マレー作戦でもそうだったが、日本軍の徴発という名の戦地における常套行為は黙認であった。私も原住民(マレー人)以外の英国人や華僑の家から徴発を上官許可されたことがある。クアラルンプールでは華僑の家の引きだしを開け「英華ポケット辞典」を、工科大学では研究室から無断で切手帖を無断で持ち出している。カンパルの町では、米屋の店頭に立って、民衆を並ばせ避難民たちに義賊ぶって米お配給をやってのけた。(中略)
クアラルンプールはマレー連邦の首都であるが、一瀉千里の勢いで突入した。ここで国産の自動車を兵器廠に返納して、イギリス軍から押収したシボレーなどの機能の優秀な自動車によって編成が整えられた。私たちの部隊に新しい任務が与えられたのはこの時であった。(中略)

               TPP参加と戦前の日蘭会商  

2013-04-21 07:40:53 | Weblog
スラバヤで行われたTPP(環太平洋経済提携会議)の閣僚会議でで日本のTPP参加について各国の了承が得られた。早ければ7月下旬までに正式な加盟が決定する見通しだが、これからが正念場だ。スラバヤ会議に出席していた甘利経済担当相がいみじくも”交渉事とはいかに難しいかを実感した”という意味のことを述べていたそうだが、大東亜戦争勃発の一因となった日蘭会商も当時蘭印と言われたこの地で一次二次と都合4年に渡って行われたが、結局決裂したのを思い出す。

新聞の活字でスラバヤ発の原稿はめったにない。しかし、日本とスラバヤとの関係は古い。戦前はバタビアと言われたジャカルタよりスラバヤの方が在留邦人が多かった。今はあるかどうかわからないが、街の中心を流れるカリマス川には「日本橋」(jumbatan Jepang)がかかり、日本の銀行、商社があった地区のことを「日本の花」(kembang Jepang)と呼んだ時代もあった。「日本の花」とは明治のじめスラバヤで興行した日本の女軽業師がのことで、花のように美しかったことから来ているとものの本に書いてある。

先年亡くなられた「ブンガワンソロ」のゲサンには「赤い橋」(jumbatan mera)という作品がある。日本占領下の昭和18年「ビンタン.スラバヤ」という歌劇団の一員だったゲサンが興行主の頼みで、ほとんど即興的に作った歌だが、今ではスラバヤでは独立戦争を象徴する歌としてむしろ有名になっている。昭和20年、スラバヤ市民が銃をとり、上陸していた和蘭軍との間に、この「赤い橋」の近くで市街戦を展開勝利している。この戦闘には多くの日本人も参加している。

日蘭会商は戦前、第一次が昭和9年から12年まで当時蘭印といわれたインドネシアへの日本製品(主として綿製品)の過剰輸出をめぐって行われたが、和蘭側の強硬な態度で難航した。第二次は昭和15年、米国の対日石油禁止に基づき日本側からの申し出で開かれたが、いわゆるABCDラインに阻まれ会商は決裂、、大東亜戦争突入への一因となった。たまたまTPP参加がスラバヤの地だったので、昔のことを思い出すままに。