ある日、突然胃部に急激あ痛みを覚え、その場にうずくまった。そして医務室で診断を受けたところ虫様突起炎であった。手術するかと問われ、どうせ一度は切らねばと思い、軍隊は費用がいらない覚悟を決め,トアルの第四野戦病院に入院手続をとって貰った。
野戦病院は椰子林の中にあった。ところが、手術予定日の前夜、オランダ機が友軍の高射砲弾軍で撃墜された。そのため飛行士数名が火ダルマになり同じ病室に収容された。軍医や衛生兵はその方へかかrきりになった。その興奮から覚めた頃、忘れものを思い出したように私は手術室に収容された。もう俎板の上の鯉同然である。(中略)
手術後の絶対安静時に、病室のアタップの屋根を震わして敵機がが低空飛行を試み、ままよと、くそ度胸で覚悟を決めたことが、しばしばあった。その手術後もなぜか原因不明の熱が続き夢の中で亡父や母、弟妹が交互に頭を氷で冷やしてくれた。肉親が私を守ってくれたのであろうか。(中略)退院してから後のことだが、フィリッピン攻防戦の最中に参謀長馬淵逸雄少将の訓示というよりも時局講演があった。”神州不滅”を信ずる私たちに、勝つとも負ける断言することはできないと熱弁を振るわれたが、声涙ともに下るショッキングな戦局の分析に観念的なところがなく客観情勢が解り、将校、兵の別なく祖国の危機に決然たる覚悟をあらたにした。(中略)
昭和20年7月末、ニューギニアと豪州の間に浮かぶケイ諸島のズラという懐かしい小寒村を後にした。焼玉エンジンの小舟艇に運命を任せて一行20数名は壮大なアラフラ海の珊瑚礁に消えやらず、椰子の葉風を受けながら、やがてシルエットの中の一点となって北西に船首を向け、セラム島のビルを目的地に目指したのであった。
その頃、豪北派遣軍の戦況は、前年の19年3月下旬には、北部ニューギニアのアイタベ、4月にはホーランジャ、5月にはサルミがマッカーサ―元帥率いるアメリカ軍によって攻略され、5月27日にはビアク島に上陸され、7月初旬1万の将兵が壮烈な玉砕を遂げている。(中略)
野戦病院は椰子林の中にあった。ところが、手術予定日の前夜、オランダ機が友軍の高射砲弾軍で撃墜された。そのため飛行士数名が火ダルマになり同じ病室に収容された。軍医や衛生兵はその方へかかrきりになった。その興奮から覚めた頃、忘れものを思い出したように私は手術室に収容された。もう俎板の上の鯉同然である。(中略)
手術後の絶対安静時に、病室のアタップの屋根を震わして敵機がが低空飛行を試み、ままよと、くそ度胸で覚悟を決めたことが、しばしばあった。その手術後もなぜか原因不明の熱が続き夢の中で亡父や母、弟妹が交互に頭を氷で冷やしてくれた。肉親が私を守ってくれたのであろうか。(中略)退院してから後のことだが、フィリッピン攻防戦の最中に参謀長馬淵逸雄少将の訓示というよりも時局講演があった。”神州不滅”を信ずる私たちに、勝つとも負ける断言することはできないと熱弁を振るわれたが、声涙ともに下るショッキングな戦局の分析に観念的なところがなく客観情勢が解り、将校、兵の別なく祖国の危機に決然たる覚悟をあらたにした。(中略)
昭和20年7月末、ニューギニアと豪州の間に浮かぶケイ諸島のズラという懐かしい小寒村を後にした。焼玉エンジンの小舟艇に運命を任せて一行20数名は壮大なアラフラ海の珊瑚礁に消えやらず、椰子の葉風を受けながら、やがてシルエットの中の一点となって北西に船首を向け、セラム島のビルを目的地に目指したのであった。
その頃、豪北派遣軍の戦況は、前年の19年3月下旬には、北部ニューギニアのアイタベ、4月にはホーランジャ、5月にはサルミがマッカーサ―元帥率いるアメリカ軍によって攻略され、5月27日にはビアク島に上陸され、7月初旬1万の将兵が壮烈な玉砕を遂げている。(中略)