

今沢さんの自伝「徳弧ならず」によると、旧制中学卒業後、書店の店員をしながら、当時の青年の多くが心酔した橋本欣五郎氏(戦前の2,26事件などに関与した右翼活動家。戦後の市ヶ谷裁判で終身刑)の運動に参加、今沢さんはその研究家としても知られている。しかし、その経歴から連想されるような方ではなく、今沢さんは物静かな温厚な紳士であった。
戦後、今沢さんは池袋のキリスト教会にあった東南アジア文化友好協会で事務局長をされていた。この協会は戦争中、インドネシアのアンボンで従軍牧師であった加藤亮一氏(故人)が”今は償いの時”(氏の著書名)として、東南アジアから戦争の犠牲になった孤児たちを集め、寮生活をさせながら留学の面倒を見ていた。数年前、僕は今沢さんの紹介で、シンガポールの虐殺で犠牲になった孤児の一人にあったが、留学中に親切に世話になった今沢さんに感謝していた。また、今沢さんは戦後、インドネシアに残留、独立戦争に参加した元日本兵の組織作りにも尽力された。
ご遺族からの挨拶書面によると、今沢さんは”南方戦地にて病気入退院を繰り返しも内地へ送還されず命拾い40代に肺結核、99歳で再発、最近も2年間で3度の誤えん性肺炎で入退院していましたが病弱な父の生命力、衰えなかった手足、目、耳、毛髪に驚いています”とあった。改めて、大正生まれ、102歳の国の防人の生きざまに、心から合掌。弔辞にさせていただきたい。
(写真は今沢さんの白寿の御祝い。(左)が今沢さん(中)戦友の山下さん(故人)(右)在日インドネシア人回教指導者、イドリスノ師)