クリスマスまであと1週間、わが家の四方100メートルは今写真のように電飾の花盛りだ。僕のカメラと技術ではあまり迫力はないが、実物はもっと素晴らしい。ラジオの深夜便を聞いていたら、この季節、都内には70数か所、イルミネーションで飾られた名所があり、若者で賑わっているそうだ。しかし、住宅街の一角で、こんなに電飾が集中している所も少ないのでは.よい時代である。
70年前、昭和21年12月25日の亡父の日記。「大正天皇祭。いつ降ったのか屋根の上にうっすらと白きものあり、うすら寒き日なり、午前コッペパンの配給(一人二個)。今日もまた停電。ローソクの灯の下で、米つき作業」。ちょっと、注釈を加えれば、この時期、東京では遅配ながら配給米は一日二合五勺に増配になったが、ほとんどが代替品で、お米は玄米のまま家庭で一升ビンの中に入れ、棒で精米していた。都市ガスのあり家は少なく、ほとんどの家では薪が日常的の燃料で、木炭はなく、自分の家でヤミの炭の粉で豆炭や練炭を作り炬燵で暖をとっていた。
クリスマスの電飾など、ようやく見られるようになったアメリカ映画の夢の世界だった。戦前18貫(約68キロ)あった亡父の体重は12貫に激減したと日記の欄外に記している。電飾を楽しむ余裕などなかった。