東京のド真ん中銀座がある中央区立泰明小学校で、この新学期から新「標準服」の着用が決まったようだ。イタリアの高級ブランド「アルマー二」のデザインによるもので、上着、ズボン(スカート)シャツ、帽子四点と、任意のセーターまで求めると、なんと8万円もするとう。いくら天下の銀座でも公立学校では高すぎると国会でも問題になった。
僕は昭和の10年代(12年―18年)、東京の区立国民学校(小学校)に通学したが、当時の子供たちの大半は「通学服」を着ていた。男の子は黒色の折り襟の長袖、半ズボン、夏の期間(6月―9月)は霜降りの同型、学帽は白い布で覆った。ほとんどが「通学服」は”いっちょうら”で、家で遊ぶときは普段着に着がえた。「通学服」がいくらしたか、判らないが、兄弟の多い時代である。下の子は上の子の”お古”を譲りうけていたところみると、それなりの値段だったのだろう。
この「通学服」も戦争が長引くにつれて配給でも入手できなくなり、小学校の名前が国民学校に変った16年頃にはセーターなど普段着で通学する子供が多くなった。17年に伊勢、奈良、京都へ修学旅行へ出かけているが、その時の記念写真を見ると、僕は級友が「通学服」なのに、母親の編んだセーターで写っている。
昭和18年4月、僕は旧制中学校に入学したが制服は、カーキ色(国防色)の軍服まがいのもの(写真)で戦闘帽、通学にはゲートル巻が強制された。これも衣料配給切符の点数内での購入だった。成長の速い少年時代である。すぐに制服が小さくなって困ったが、やがて軍需工場へ勤労動員され。制服を着る機会もなくなった。”欲しがりません 勝つまでは””質実剛健”の時代に育った世代には「アルマー二」は、まったく別世界の話だ。
僕は昭和の10年代(12年―18年)、東京の区立国民学校(小学校)に通学したが、当時の子供たちの大半は「通学服」を着ていた。男の子は黒色の折り襟の長袖、半ズボン、夏の期間(6月―9月)は霜降りの同型、学帽は白い布で覆った。ほとんどが「通学服」は”いっちょうら”で、家で遊ぶときは普段着に着がえた。「通学服」がいくらしたか、判らないが、兄弟の多い時代である。下の子は上の子の”お古”を譲りうけていたところみると、それなりの値段だったのだろう。
この「通学服」も戦争が長引くにつれて配給でも入手できなくなり、小学校の名前が国民学校に変った16年頃にはセーターなど普段着で通学する子供が多くなった。17年に伊勢、奈良、京都へ修学旅行へ出かけているが、その時の記念写真を見ると、僕は級友が「通学服」なのに、母親の編んだセーターで写っている。
昭和18年4月、僕は旧制中学校に入学したが制服は、カーキ色(国防色)の軍服まがいのもの(写真)で戦闘帽、通学にはゲートル巻が強制された。これも衣料配給切符の点数内での購入だった。成長の速い少年時代である。すぐに制服が小さくなって困ったが、やがて軍需工場へ勤労動員され。制服を着る機会もなくなった。”欲しがりません 勝つまでは””質実剛健”の時代に育った世代には「アルマー二」は、まったく別世界の話だ。