
パレンバン落下傘部隊は昭和17年2月14日午前、すでに占領下にあった馬来のカハン飛行場から梯団を組んんで発進したが、降下地は、すでに新穂少佐らの事前調査で飛行場近くの草地が選ばれていた。しかし、2月は雨季で、約500人の将兵たちは湿地化していた土地に足を取られ、34人もの方が蘭印軍との戦闘で犠牲になっている。
奇襲作戦であったかどうかは別として、パレンバンに降下した2月14日、南方での戦闘はシンガポール作戦が最終段階に来ていた。(15日英国軍全面降伏)しかし、蘭印軍が、日本の落下傘部隊の飛来をまったく想定していなかったわけではない。(写真)はセレベス島メナドに飛来した日本の落下傘部隊を想定して地元住民に警戒を呼び掛け配布されていたビラである。
戦争緒戦、わが国はパレンバンのほかメナド(海軍)西チモール(海軍)の三回、落下傘部隊が降下しているが、それぞれに尊い犠牲者が出ていたことも忘れてはいけない。