「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

亡父が76年前作った写真で綴った自分史

2019-12-08 14:26:45 | 2012・1・1
断捨離―やっとの思いで亡父の遺品の一角の整理に掛かったら76年前の昭和18年(1943年)父が古アルバムを利用して作った、写真で綴る自分史が出てきた。題して「流ひょう影譜」(写真参照)-戦前漢文教育を受けた僕でも正しい読み方と意味は分からない。浮き草のような自分の半生の写真記録とでもいうのであろうか。

亡父は当時59歳、仕事を辞め還暦を前に徒然なるままにこんな記録を思い立ったのだろう。物資が欠乏しかけてきた時代である。古アルバムに自分の生れてからの写真にキャプションをつけて時代順に編集している。1ページの「揺籃」には生後1か月と24日(明治17年)に撮影した“おちんちん”丸出しの写真や祖母に抱かれた2歳時のもの、それに11歳時祖父と上野の写真館で撮影したものなど。

祖父(1831年ー99年)は幕末時の文久2年(62年)、横浜で撮ったサムライ姿の写真があり、小ブログでも紹介しているが、維新後明治32年死去するまでの写真はこれ1枚しかない。やはり、明治時代、とくに初期は珍しかったのだろう。

父はこの写真集の後、84歳まで長生きしているが続編は作っていない。死後の写真を整理して父の一生を記録として残すべきなのだろうが、怠けて出来ない。IT時代、新しい技術を駆使すれば、活字でなくとも残せる。知人からも勧められるのだが一向に進まない。





毎月8日は大詔奉戴日だった

2019-12-08 05:59:12 | 2012・1・1
昭和16年(1941年)12月8日”天祐を保有し万世一系の皇そを践むる大日本帝国天皇は”で始まる昭和天皇のご詔勅で、米英両国に対する戦争の火蓋は切られた。あれから78年の歳月が流れた。今や、ほとんどの日本人が戦後生まれで、安倍内閣の現閣僚21人のうち、ご詔勅前生まれなのは麻生太郎副総理と竹本直一大臣(IT担当)二人に過ぎない。

僕は国民学校(小学校)5年生だったが、朝のラジオの臨時ニュースで、これを聞き、子供ながらに大変なことになったと思った。寒い日だった。霜を踏みながら登校すると教室でも戦争の話で一杯だった。僕ら世代にとって「12月8日」忘れるに忘れない日である。13年前、僕は小ブログを書き始めたが、毎年、この日には一文、何か感想を書いている。

今年はまだ書かなかった「大詔奉戴日」について。「大詔奉戴日」は戦争が勃発して1か月後の17年1月8日、時の東條内閣が戦意向上を狙いに制定した記念日である。以来敗戦の年の20年8月7日まで3年8か月、日本全国で実施された。
♯ 大詔奉戴日の歌(尾崎喜八作詞 信時潔作曲)
 天の日の光と仰ぐおおみこと おし頂いて一億が
 手に手をとって感激の涙と共に 誓ったこの日が忘れまい

「大詔奉戴日」には僕ら小国民は学校で校長先生が読む天皇陛下の詔勅を聞き、日の丸を掲揚して、宮城を遥拝、この歌を斉唱した。この儀式に先立って、東京の僕らの学校では近所の神社を参拝し、皆で掃除をしたものだ。敗戦近く、動員先の軍需工場が焼けても「大詔奉戴日」はあり、僕らは戦争は最後には「神風」が吹いてわが国が勝利すると信じていた。

昭和20年8月15日、戦争は“朕深く世界の大勢と帝国との現状とを鑑み、非常な措置をとらざる”との天皇陛下の「玉音」詔勅で終わった。