「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「コタコタ,インドネシア」(1)パレンバン 神兵の降下した町

2020-06-07 09:01:28 | 2012・1・1

80歳以上の日本人なら皆パレンバンの名前を知っている。大東亜戦争の緒戦、日本陸軍の落下傘部隊が天降った地だ。”藍より青く大空に大空に”の歌は一躍神兵の名前を有名にした。南スマトラ一の大都会のパレンバンはムシ河を挟んで両側に分かれはしけで往き来していた。しかし、今は戦後の賠償引き当て援助でわが国が造ったアンペラ橋で自由に往来できるようになり、南スマトラの経済発展の中心地となっている。

それより、あまり知られていないが、パレンバンはインドネシアで数ある町の中でも歴史的に古い関係がある。足利時代の初期、四代将軍の時代(1405年)に福井県小浜市の中湊浜にパレンバンから象や孔雀などの贈呈品を積んだ華僑の舟が到着している。明史によると、この南蛮船は鄭和の時代に活躍したパレンバン在住の亜烈進卿という華僑のようだが詳しい事はわからない。

旅愁を味会うのなら小舟を雇ってムシ河を遡リ中の島の中国人の古刹を参詣することだ.。小舟の発着場近くにある露店で食べる蒲鉾に似たエンぺエンぺ(empek-empek )はパレンバン名物だけあって、ジャカルタとは一味違う。何故か華僑のことをエンぺエンぺと呼ぶそうだが、古い華僑の歴史が判って面白い。

 


半世紀間に訪れたインドネシアの町々を連載で紹介

2020-06-07 06:03:49 | 2012・1・1

緊急事態宣言で”新しい日常生活”が打ちだされ、テレワークやローテーション勤務がが定着してきたためか、小ブログの訪問者や閲覧者にもわずかだが変化がみられ、ランキングが低下してきた。ブログを見て頂く時間や場所が原因しているのかもしれない。発信する側も毎日がコロナウィルスに絡む話では面白くない。テレビも新聞も”新しい日常生活”に入った後過去のレピート物が目につく。そこで僕もそれにならってコロナとは無関係な過去に書きだめしていた「コタコタ.インドネシア」(一部インドネシア協会機関誌所載)を折りを見ながら連載したい。

コタコタ(KOTA KOTA)とはインドネシア語で町々といった意である。僕とインドネシアとの関係は54年前の昭和41年3月から42年6月までのスカルノ(初代大統領)からスハルト(同二代)への政変移行期を新聞社の特派員として取材したのが初めてだ。その後民間テレビへ職業変えしてインドネシアとは縁が遠かったが、昭和56年フリ―となり、50歳の時,初手習いでインドネシア語を学んだのが転機で、以来平成24年まで30数年間、52回に渡ってインドネシアの地を訪れている。

フリ―の記者として、僕は大東亜戦争占領下であったインドネシアの地を軍政面から旅して歩いた関係からいわゆる観光ガイド書ではないが、半世紀間の歴史を感じてもらえれば有難い。