80歳以上の日本人なら皆パレンバンの名前を知っている。大東亜戦争の緒戦、日本陸軍の落下傘部隊が天降った地だ。”藍より青く大空に大空に”の歌は一躍神兵の名前を有名にした。南スマトラ一の大都会のパレンバンはムシ河を挟んで両側に分かれはしけで往き来していた。しかし、今は戦後の賠償引き当て援助でわが国が造ったアンペラ橋で自由に往来できるようになり、南スマトラの経済発展の中心地となっている。
それより、あまり知られていないが、パレンバンはインドネシアで数ある町の中でも歴史的に古い関係がある。足利時代の初期、四代将軍の時代(1405年)に福井県小浜市の中湊浜にパレンバンから象や孔雀などの贈呈品を積んだ華僑の舟が到着している。明史によると、この南蛮船は鄭和の時代に活躍したパレンバン在住の亜烈進卿という華僑のようだが詳しい事はわからない。
旅愁を味会うのなら小舟を雇ってムシ河を遡リ中の島の中国人の古刹を参詣することだ.。小舟の発着場近くにある露店で食べる蒲鉾に似たエンぺエンぺ(empek-empek )はパレンバン名物だけあって、ジャカルタとは一味違う。何故か華僑のことをエンぺエンぺと呼ぶそうだが、古い華僑の歴史が判って面白い。