シンガポールに隣接するバタム島(リアウ州)の中心にNagoyaという町がある。なぜナゴヤなのか。大東亜戦争中ここに駐屯していた名古屋出身の日本兵が郷愁からつけたという説。いや、そうではない。1870年代、この地で開発プロジェクトに従事していた日本の商社マンが住民から頼まれ命名したという話まで地元でも諸説フンプンだ。しかし、直接僕は命名者からそのいわれを聞いている。
その人は戦前ジャワ島生れの通称中島パンジャン氏.。1M80cmを越す長身から仲間内からパンジャン(インドネシア議で長い)という意であだ名されているが、戦争中はインドネシア郷土義勇軍(PETA)の日本語通訳をされていた。戦後は大成建設に入社、各地の現場責任者をされていた。僕も戦友会を通じて中島パンジャンさんに親しくさせ頂いたが、直接彼から聞いた話だ。
バタム島はスハルト(第二代大統領)時代に入って開発が進んだが、その拠点がナゴヤ地域だった。しかし、当時名前はなく地元の有力者から中島さんから相談を受けた。中島さんは郷里の町の名前を提案したが、もっと大きな市の名前にしてほしいということからナゴヤに決まったそうだ。
バタム島は今、敗戦直後、日本の南方軍兵士が復員までの数か月飢えの状態で収容された孤島、,レンパン、ガラムを橋で結びさらに開発が進んでいる。レンパン、ガラムには当時軍が使用した三船港がMifuneの名前で残っている。地名一つにも歴史をかんじる。