戦後石原慎太郎の「太陽の季節」で一躍、湘南の海が有名になったが、逗子の海岸は筆者にとっても太陽の季節であった。終戦時中学3年であった筆者は、戦後すぐの時代、夏休みになると東京からすし詰めの横須賀線に乗って逗子へ海水浴へ出かけた。友人の兄が「海の家」をやっており、その手伝いをしながら、真っ黒に日焼けするまで泳いだ。
当時の逗子海岸は一部進駐軍の占領下にあり、海浜にあった「なぎさホテル」は兵士の専用の宿舎になっていた。その砂浜には「浪子不動]の方向に向かってロープが張られ、日本人は遊泳禁止になっていた。「浪子不動」はもともとは「波切不動」と言って地元の漁師の信仰を集めているお不動さんだったが、明治j時代の文豪,徳富蘆花の作品「不如帰」のヒロイン「浪子」の舞台になって以来、「浪子不動」と呼ばれるようになった.。
逗子といえば百年ほど前の明治43年1月、七里ガ浜沖で旧制逗子開成t中学校のボート部員12人が悪天候の中遭難死し、その悲劇は真白き富士の根、緑の江の島ー全国的に知られ歌にまで歌われている。