「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

勤労動員 モッコ担ぎの日々

2006-06-10 06:18:01 | Weblog
きのう東京も梅雨明け宣言された。いつもこの季節になると想い出
されるのは、敗戦まじかい六月、千葉県梅郷(現・流山市)の江戸
川口での運河掘削工事だ。梅雨空の下、当時中学三年生だった僕ら
は、空腹を抱えて連日モッコを担がされた。
すでに学校も動員先の工場も空襲で焼けてしまったため、こんどは
近づく本土決戦を控えこの掘削工事へ動員されてきたわけである。

運河は江戸川と利根川とを結ぶ延長7・8キロ、明治時代の初期、オ
ランダ人のお雇い技師が建設したもので、当初は一日百隻もの舟が
往来したそうだが、鉄道の発達で当時すでに水運としての役目は終って
いた。僕らの動員目的は、運河をさらに掘削して軍の舟艇を自由に往来
させようというものだった。

暁2942部隊という陸軍船舶部隊に配属された僕らは軍隊なみの生活
を強いられた。食事は一汁一菜、それを与えられた孟宗竹の食器にいれ
て食べたが、育ち盛りだから絶えず空腹に苛まされ、農家の青梅や畑の
人参を盗んで食べた。

一か月後、僕らは焦土の東京に帰宅できた。多分、病人が続出したため
学校側が動員解除を軍に懇請したのかも知れない。しかし、僕らには
次の動員先が待っていて、それから暫らくして敗戦となった。戦争が
終った喜びは忘れられない。






高齢者 が "きれる”のは当たり前 ?

2006-06-09 06:11:17 | Weblog
きのうの夕方たまたまつけたテレビで「"きれる"高齢者急増」という
番組をやっていた。最初からみていたわけではないから、誤解があったら
謝りますが、骨子は、70歳の老人(男性)がコンビニで雑誌の立読みを
していたのを店員に注意された。怒った老人は外に出て、所持していた
チェーン・ソーで店員に殴りかかったーというもの。

画面に登場させた”犯人"(顔はシェードしていたが)は田舎のどこにでも
いるような小柄な老人。画面に向かって謝罪したあといった言葉は「店員が
私の襟元をつかんで外につまみ出したもので、ついカッとなって・・」
老人だって誇りがある。野良犬みたいにつまみ出されれば”きれる"のは
当たり前である。

番組は「急増する"きれる”高齢者」現象を脳の断面図まで使って"科学的”に
立証していた(老人になると感情を掌る部分が矮小化し感情の抑制が効かなく
なるそうだ)しかし、どうだろうかー。”きれる"老人が増えてきたのはそんな
ことだけはないと思う。かって日本人みんながもっていた、お年寄りへの尊敬
いたわりの心が失われてきたからだと思う。戦前修身教育で敬老心をたたき
こまれた今の老人にとって、杖をついた老婆をがいても席を譲らない若者に
一言注意するのは当たり前だ。これを”きれ”現象とみられてはたまらない。


枇杷、イチゴ、夏みかん

2006-06-08 05:27:26 | Weblog
きのう散歩の途中、たわわに実った枇杷の古木を見つけた。皇太子妃
雅子さまの実家の近くである。このあたりは昭和の初めに住宅地として
開発された地域だが、まだむかしの農家が古民家として保存されたり
している。枇杷の実は僕を少年時代の記憶に呼び戻した。

僕の生まれた昭和の初期,山手線の内側でも、むかし農家だった広い
敷地の屋敷があった。僕の母方の本家もそうで、広い敷地内には、
いろんな果物の樹があり勝手にもいで食べられた。枇杷もその一つ
で素朴な味が忘れられない。

ハウス栽培以前、6月は果物の端境期だった。店頭には枇杷、イチゴ
夏みかんぐらいしかなかった。どれも露地栽培、むかしはこの季節
だけしか収穫できなかった。いまはハウス栽培で、ものによっては
1年中食べられるものさえある。完全に季節感の喪失である。品種の
改良で味も形もとても良くなったが、年寄りの郷愁なのだろう。口が
まがるほど酸っぱかった夏みかんに、重曹や塩をかけて食べた味も
おいしかった。

日本遺族会会長の暴言

2006-06-07 05:42:49 | Weblog
古賀誠日本遺族会会長がまたもや暴言をはいた。極東軍事裁判で刑死
され、靖国神社に合祀されている方々を分祀すべきだ。分祀は国益に
つながる現実的な方法だというのである。明らかに政教分離に反した
発言である。乱暴な言い方をすれば、神,聖霊、キリストの三位一体は
おかしい、キリストを教義からはずせ、というようなものだ。

小泉総理が心の問題として靖国に参拝するのには反対ではない。だが、
彼が紋付袴でことさら"国家”を意識する態度で参拝し、一部の取巻き
が「総理と一緒に参拝を」とけしかけるのには反対だ。戦争中、子供の
ころ都電で靖国神社の前を通ると乗客は強制的にお辞儀をさせられた。
その時のことを想いだす。

さきの戦争で数百万人の方々が亡くなった。この方々の霊を祀り、参拝
するのは日本人として当然だ。遺族会の会長が政治的な発言で,合祀、分
祀などと教義に立ち入るべきではない。政治家が「靖国」問題に関与すれば、
"それみたことだ”と近隣諸国の思う壺だ。靖国神社側も他国の鼻息を
覗う小ざかしい政治家の発言は断固拒否すべきだ。


「靖国」は心の問題である。神社は修学旅行の生徒も参拝できるように
環境を整備して貰いたい。



”村上ファンド氏”の頭の下げ方

2006-06-06 05:03:27 | Weblog
テレビで不愉快な画面がある。何か犯罪を起こした関係者が一斉に
頭を下げて謝罪する場面である。人のはげ頭を見るのも不快だが、
それ以上に彼らの態度の空々しさだ。テレビの現場の”やらせ”の
シーンなのだろうか。謝罪のあと舌を出しているように見えてならない。
(実際はそんなことはないと思いたいが)

村上ファンド容疑者も記者会見のあと、定番どおり二度頭を下げた。
その謝罪の仕方は、彼がはげ頭でなかったせいもあって、余計、
空々しさを絵に描いたように映った。その通り謝罪したあといった
言葉は「僕がみんなから憎まれているのは、僕が儲けすぎたからだ」
ーだった。ホリエモンをはじめ彼らの自分本位のマネーゲームで
犠牲になった人がごまんといるというのに。

小学生のころから株取引をやっていたこの道のプロだと容疑者は
豪語していた。しかし、この人物は「他人様に迷惑をかけてはいけ
ない」という人の道を学んでこなかったようだ。プロ野球の元監督が
「天罰が下る」といっているのは、彼の儲けすぎをねたんで言って
いるのではないのだ。ホリエモン,民主党の偽メール元議員、この
容疑者三人ともそろって東大出身である。


駐車場整備が先ではないか

2006-06-05 05:43:24 | Weblog
違法駐車対策として6月1日から全国各地に民間駐車監視員が登場した。
今のところ賛否両論あって、車の免許を持たない年寄りには正直いって
良いのか悪いのか判らない。たしかに街がすっきり蘇ったのは嬉しい。
でも、この裏には仕事が不便になり泣いている人も多いに違いない。

もともと日本の道路はモータリゼーション以前に造られたものが多い。
とくに城下町の道は狭くて曲がりくねっている。その上駐車場が少なく
あっても料金が割高ときている。そこへきて今度の違法駐車対策である。
法の改正の前に関係者は駐車場整備を考えるべきであった。

例えばである。旅行でよく行くインドネシアでは、どこの盛り場でも
車道の一部を駐車場として上手に使っているようにみえる。駐車料金は
日本円にして20円から30円と安い。制服を着た若者が常駐していて
手際よく車を誘導してくれる。料金が安いから利用者も抵抗なく利用
している。もちろん国情も違うからそのまま真似はできないが、日本
は日本なりの駐車場整備が出来ると思うのだが。

参宮旅行だった修学旅行

2006-06-04 05:28:11 | Weblog
中三の孫がけさ二泊三日の修学旅行へ旅立った。京都,奈良へ往復新幹線、
名跡めぐりはタクシー使用可という豪華版である。今どき当たり前の話かも
しれないが、われわれ旧世代には、ただ驚きだ。

戦前東京では小学六年のときに伊勢、奈良、京都へ修学旅行へ出かけたもの
だが、戦争が始まり一時中止になっていた。ところが昭和17年だけ幸運な
ことに復活、われわれはこの恩恵に浴した。この年は緒戦の勝利で国中が喜びに
沸立っていた。多分銃後の小国民にもこの喜びを分け与えようという政府の
”親心”だったのだろう。

しかし修学旅行ではなく「参宮旅行」であった。伊勢と奈良にそれぞれ一泊、
往復列車泊という旅であった。伊勢では内外宮、奈良では春日大社、橿原神宮
京都では平安神宮を参拝するなど文字通りの「参宮旅行」であった。でも、
こんな国策の旅であっても、旅館での枕ぶつけ、京都駅前で食べた昼食の
コロッケの美味だったことなど想い出は一杯。これが修学旅行なのだろう。

ちなみに現在東京ー新大阪間は「のぞみ」で2時間30分前後、戦前の特急
「つばめ」は8時間。われわれの「参宮旅行」はもちろん東海道線の電化以前
SLの旅だった。




三峰講 江戸庶民のレク

2006-06-03 05:28:33 | Weblog
三代続いてかろうじて江戸っ子といえるわが家にもまだ時々江戸時代庶民
の慣習が残っている。妻が昨日から一泊旅行で参加している三峰講もその
一つだ。もともとは秩父の山岳信仰だったのが、江戸時代中期、三峰神社
参拝は災難除けになるという民間信仰に変った。そして町内毎にあるいは
職能単位で講をつくり出かけるようになった。

家の近くに「大山みち」という小さな道標が残っている。落語で有名な「大山
まいり」のころの名残である。大山講も秩父講と同じ江戸庶民の民間信仰、
神奈川の大山に登り、六根清浄,身も心も清めようというものだ。江戸時代
には、富士登山講とならんで,この三つが人気だったようだ。

僕も一回だけ三峰講に参加、大山の御師(先導師)の家にも一泊したことが
ある。山頂の神社に詣で,お祓いを受ける趣向は同じ。参加者が一緒に酒を
飲み、ご馳走を食べ大騒ぎするのも同じ。落語「大山まいり」の世界、つまり
江戸庶民の厄除けに名を借りたレクリエーションだったのである。

平成の衣更え クールビズ

2006-06-02 06:05:19 | Weblog
クールビズも定着したかにみえる。小泉総理はさすが政治家。基地問題で
迷惑をかけている沖縄に恩返しのつもりなのだろう。知事からプレゼント
されたビズでTV画面に登場、沖縄のPRにこれ勤めた。結構なことである。
コメンテーターの話だと、今年のビズは傾向としてよりカラフルになった
という。かって”どぶねずみ”と酷評された日本人の色彩感覚も小泉改革で
"改革”されたのかもしれない。

戦争中、ときの政府の号令で国民服を強制された。色は国防色(カーキ色)
わずかな選択肢は襟の形で,「甲」は詰襟「乙」はネクタイが着用できる
襟だったが、圧倒的に「乙」に人気があったようだ。戦時下とはいえタイ
で多少おしゃれをしたいという男心があったのだろう。もっとも、そのころ
若い男性は、ほとんど軍服を着て戦地へ赴いていたが。


高温多湿の日本の夏、平安の昔から衣更えという風習がわが国にはあった。
明治、大正、昭和のはじめまでは夏の衣更えの日、6月1日には学生から
警官、鉄道員などの制服がいっせいに変った。それがある種の季節感に
なっていて、それを知る世代には郷愁を呼ぶ。平成の衣更えはクールビズ
である。政府の音頭どりで始まったとはいえ、国民服になっては困るが。



体験的「餃子」起源考

2006-06-01 06:06:20 | Weblog
東京蒲田の駅近くに”餃子&喫茶”中国大衆料理「歓迎」という店がある。
ここの餃子は安くてうまい。なんでも帰国中国”孤児”が関係している店
だそうだ。だから大陸の本物の味がして、客から”歓迎”されている。

戦前、日本の食卓には餃子はなかった。戦後、大陸満州(中国東北部)から
大勢の日本人が引揚げてきたとき、もたらされたというのが通説だ。引揚者が
生活難と戦いながら屋台や小さな店で餃子を作り売った。これが次第に家庭の
食卓にも上るようになってきた。

僕が餃子を始めて食べたのは昭和28年、学校を出て最初の勤務地長野であった。
当時、善光寺の下に「憩いの街」という二階建ての飲食街があった。市が
引揚者用に造ったものだが、その二階の一角に美人のママが餃子を売り物に
店を開いていた。ママは敗戦でご主人をなくし、お子さんをつれて満州から
引揚げてきたばかり、いかにも素人の商売という感じだった。ママの子息が
著名な劇作家になっているのを後年知ったが、ママの作る水餃子はまさに
絶品、今でもその味が忘れられない。

昭和30年代、渋谷の井の頭線ガード下に「眠眠」という店があった。当時
ここで売る餃子は、まだ一般には珍しく度の強い中国酒、パイカルとともに、、
名物であった。そのころは、餃子が今のようにこんなに庶民に好まれ、食べ
られるようになるとは想像も出来なかった。