「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

             交配種と郷土野菜ブーム

2012-01-23 07:41:16 | Weblog
京(京都)野菜ブームに触発された形で東京でも昔あった伝統野菜が見直されている。戦前僕ら子供だった頃でも練馬大根、亀戸大根、小松菜などの名前は聞いたことがあったが、僕が生まれた五反田周辺にも昔、品川大根、居木橋(大崎)南瓜があったという話を聞いた。これに関連して先週の土曜日出席したスペイン協会の文化の集い「Club Donquijote」で頂いた資料の中に滝野川の名がついた人参、ゴボウ,蕪が明治時代まであったことを知って驚いた。

スペイン協会と江戸特産野菜との話は場違いだが、この日の講師の話は、日本の野菜の種子を南米に提供することの是非についての話からであった。滝野川という地名は戦前、東京市が35区だった頃あった古い地名だが、今は警察署の名前ぐらいしか知られていない。その警察署の前に「一里塚」がる。江戸時代、ここが日本橋から数えて二つ目の一里塚だった、つまり江戸から8㌔ぐらいの郊外であった。おそらく農村地帯で、おいしい野菜がいっぱい獲れた地域だったのであろう。その影響で明治に入ってからも、中山道沿いのこのあたりには野菜の種子屋が沢山見られたという。

専門家の講師の話は知らないことばかりで面白かった。漬物で有名な野沢菜も広島菜も元は大阪の天王寺蕪がルーツだそうで、修行に来た僧侶が郷土に持ち帰り植えたところ、蕪より菜のほうがおいしく育ったのだという。今の日本の農業はそれに似て原種より、移植した地の土壌や気候にあってできた交配種(F-1)が多いとのこと。交配種は形がそろい、生育も早く、収穫後の日持ちがよいとのことだ。そういえば、日ごろスーパーで見受ける野菜は、確かに形はそろっているし、長持ちもする。

日本産の野菜の種子が南米大陸にわたり、どんな野菜ができるか楽しみだが、昔気質の僕は昔のように赤い茎の部分が多い、ホーレン草のほうがおいしいのだが、最近はみあたらないのは残念だ。

              中島慎三郎さんを偲ぶ会

2012-01-22 10:53:18 | Weblog
昨11月23日、アセアン・センター理事長の中島慎三郎さんが亡くなりました。享年92歳でした。ごく内々の方で葬儀は営まれましたが、かって中島さんと親交があった方、ご指導をいただいた方,相集まって故人を偲びたいと思います。下記の通り偲ぶ会を催しますので、ご出席賜りますよう、ご案内申し上げます。なお、ご案内が行きとどかないことも考えられるので、お知り合いの方々にお声かけいただければ幸いです。

◇ 日時 3月1日(木)午後6時(8時半まで)
◇ 場所 アルカディア市ヶ谷 私学会館 電話(03)3261-9921
     地下鉄 市ヶ谷駅 A1-1出口1分
◇ 会費 6千円
◇ 呼びかけ人
       桑木崇秀、西村真吾、イドリスノ・マジッド、加藤裕、阿羅健一、江崎道朗


ご出席の方は2月24日までにFAXでご連絡ください。FAX番号 03-5275-2355

         あるインドネシア料理店主の名誉の死

2012-01-22 08:06:33 | Weblog
70年前の昭和17年1月、日本軍はシンガポールを目指してマレー半島を南にむかって電撃作戦を展開中だった。「密林とゴム林が無限に続くただ一筋の舗装道路をわが機械化部隊は英軍をけちらしながら寸暇の休みもなく進撃した」(昭和18年度文部省国語教科書(8)「マライを進む」)。前年の12月8日、マレー半島上陸に成功した第25軍の第5、第18、近衛3師団は僅か55日でマレー半島を席巻、シンガポールを占領した。第5師団給水部隊の一兵卒、中島慎三郎上等兵もその一人だった。

中島慎三郎さんが昨年11月23日亡くなられた。92歳の高齢であった。中島さんは数年前まで新橋にあったインドネシア料理店「インドネシア・ラヤ」の店主だったが、もう一つ「アセアンセンター」(民間機関)の理事長の肩書を持っていた。日本会議研究員の江崎道朗氏によれば、中島さんは”大東亜戦争の理想を忘れず民間人でありながら福田赳夫元首相らのブレ―ンとして対アジア外交を担いインドネシアの共産化を阻止した人物であった”(別冊「正論」16号)

僕は中島さんと20年来の知己だが、驚いたのは彼の流暢なインドネシア語は学校で学んだものではない。戦争中、中島さんは当時豪北と呼ばれていたアンボン、セラム島に駐屯していたが、彼はその地で現地の人から学んだものだという。インドネシアから復員してきた兵隊さんの中には片言のインドネシア語をしゃべる人はいるが、中島さんのは本格派であった。

中島さんは戦後昭和22年に復員してきたが、当時の東京はまだ焼跡が残っていた。職のない中島さんは奥さんの家の花屋を手伝い、奥さんと一緒に花をリヤカーに載せて繁華街を売り歩いた。そして稼いだおカネを元手に小さなインドネシア料理店を開いた。店の手伝いには戦争中日本に留学にきて戦後の混乱で帰国できなかったインドネシア人が当たった。平成9年、僕はメダンでその当時の留学生の一人と知りあったが、彼はくれぐれも中島さんによろしくと言っていた。昨年11月、僕が中部ジャワのテマングンでお世話になった元ジャワ義勇軍士(86)も中島さんのことをよく知っていた。

戦前の日本には、中国やアジアの独立運動を支持して私財を顧みなかった志士がいたが、中島さんはある意味では、その最後の志士であった。


            スキーブームとバブルの崩壊

2012-01-21 07:35:24 | Weblog
東京は昨日初雪をみた。例年より17日より遅いそうだ。といっても都心では積るほどには至らないみぞれである。東京生まれ東京育ちの僕だが勤めの関係で10年間の札幌生活をはじめ長野、郡山と何故か雪国の勤務が多かった。にもかかわらず。ウィンタースポーツにはまったく縁がない。札幌ではスキーならぬもっぱらウィスキーの毎日であった。

今年は日本にスキーが伝来して百年である。たまたまだが亡父が残した原稿を整理していたら、明治45年2月11日、オーストリアのテオドール・レルヒ少佐が新潟県高田(現在の上越市)で日本初のスキークラブの発会式を催したとき、亡父は東京の新聞社から特派され取材していた。残念ながら、亡父はスキーのことより式に列席していた乃木希典・学習院院長が女子学習院の火災で帰京したことに重点を置いて書いていた。

戦中戦後の物のない時代に育った僕らの世代は、あまりスキーは出来ないが、今から20年ほど前、1980年代後半から90年代のバブル期にかけて異常なスキーブームがあったことを覚えている。「私をスキーに連れてって」という映画に触発されて1993年の最盛期には1,860人のスキー人口があったそうだ。ちょうど僕らの子供の青春時代だが、JRがスキーの臨時電車を出したり週末には特別バスがでるなど大賑わいであった。

このスキーブームはバブルの崩壊とともにいつか去り、この10年間は最盛期の三分の一程度のスキー人口だという。そういえば大学生の孫がスキーに行きたいという話を聞いたことがない。雪国は別として都会からスキーに行こうと思えば相当なおカネがいる。スキーがバブルの崩壊とともにブームが去ったのもわかる気がする。

        イタリア豪華客船船長と軍神広瀬武夫中佐

2012-01-20 07:20:25 | Weblog
イタリア中部ジリオ島沖で大型豪華客船が座礁沈没した事故でイタリア人船長が乗客への避難指示もろくにせず逃げ出したので問題になっている。この話を聞いて僕ら昭和1ケタ生まれの世代は、戦争中の軍神広瀬武夫中佐を思い出したに違いない。日露戦争の旅順港閉塞作戦中、部下の杉野孫七兵曹長が行方不明となり、最後まで兵曹長を捜索中に敵弾に当たり戦死した武将の話である。

                   ◇ 小学校唱歌「広瀬中佐」
       轟く砲音(つつおと)飛びくる弾丸  荒波洗うデッキの上に闇をつらぬく中佐の叫び
       杉野はいずこ 杉野は居ずや

部下を思い最後まで艦を離れず勇敢に戦った広瀬中佐は、時の政府によって軍神と讃えられ、上記のように小学校唱歌にもなった。戦前東京の省電(JR)秋葉原と御茶ノ水駅の間にあった「万世橋」駅前には、この広瀬中佐と杉野兵曹長の話をモデルにした銅像があった。銃後の小国民だった僕らは、これも「万世橋」駅ガード下にあった鉄道博物館に行くと必ず、この軍神の銅像を仰いだものだった。が、残念ながら戦後の昭和22年”進駐軍の命により”銅像は撤去されてしまった。

銅像だけではない。実は行方不明になった杉野兵曹長は生きていて敵の捕虜になっていたという話もある。杉野兵曹長は艦が沈没したあと海中を遊泳中、中国の漁船に助けられ戦後も生存していたというのである。当時の海軍もそれを承知していたが、広瀬中佐が軍神に奉賛されたあとなので、公表しなかったとのことだ。真偽は判らないが、広瀬中佐が部下を思い、勇敢に最後まで艦を離れなかったのは事実である。この話は永遠に残したいものだ。

        ”無人”が”有人”になった自由が丘の野菜スタンド

2012-01-19 07:34:51 | Weblog
東京は暮の16日から連続34日雨がなくカラカラ天気が続いている。思わぬ帯状疱疹からスポーツクラブ通いができなくなった僕は、運動不足気味で体重がまたリバウンドする心配が出てきた。そこで昨日久しぶりに自転車で1㌔ほど離れた自由が丘の無人スタンドへ野菜を買いに行ったところ、スタンドが道端から消え、農家の敷地の軒下に移動していた。

農家の主人(90)に尋ねたところ、昨年3月の震災のあと急にスタンドの空き缶にカネを入れず野菜を持ち去る人間が増えてきたのだという。とても商売にならない額なので、思い切って家の敷地内に移したのだという。無人スタンドは世界に冠たる日本人の美徳の上にたつ商売だと思っていたのに残念でたまらない。震災を機に野菜をタダで持ち去るほど急に貧乏人が増えてきたとは思えない。一部にせよ、いつからここまで日本人はセコくなってしまったのであろうか。

店のあるあたりは戦前荏原郡碑衾(ひぶすま)村といった東京の郊外農村だったが、昭和15年の幻の東京五輪の頃から都市化されたが、電車の駅から遠いこともあって、今でも開発されず昔のような農家が散在し残っている。坪に換算すれば数百万円もする土地で農業してもと思うのだが、やはり先祖代々の土地を守るという思いもあるのだろう。もともと出来た新鮮な野菜を近所の人におすそ分けするつもりだったのかもしれないが、今の世の中、慈善事業をするほどゆとりはない。この農家のほかにも特製のコイン式のスタンドを作って野菜を売っている店もある。

自由が丘の駅から少し離れているとはいえ、目黒通りに近い都内でも高級住宅街である。百円や二百円が払えない住人が住む街ではない。無人スタンドは中学校の副読本にもなっているそうだが、先生も”汝盗むなかれ”の道徳の基本に立ち返って教えなくてはならない時代になってきたのかもしれない。

            入歯か人工歯(インプラント)か

2012-01-18 07:50:58 | Weblog
新しく総入歯を作ることになり昨日から歯科医院へ通い始めた。すでに男性の平均寿命をこえており、今さら新調するのは勿体ない気もしたが、生きている限りそうもゆくまい。調べてみると、現在の入歯はすでに10年近く愛用しており、お医者さんの言うとおり全体にガタがきており、昨年11月、外国旅行の前にも一本がポロリと取れてしまったことがあった。

戦中戦後の混乱時代が成長期だった昭和1ケタ世代は歯の悪い人間が多い。戦争中は若い医師が徴兵されて歯医者さんが少なかったのも原因しているのかもしれない。歯の日頃の手入れも歯磨き粉の不足から塩で代用したりした。。何より歯を大切にしようという意識が欠けていて、たいがいの日本人は朝一回歯磨きしただけだった。また、戦後の経済成長期のモーレツ時代には、歯が痛んでも医者に行かないサラリーマンも多かった。僕もその一人だった気がする。

この10年ぐらい入歯に代わって人工歯(インプラント)が流行していると聞いた。顎に人工歯を埋め込むのだが、入歯に比べてはるかに噛み方が自然だが、費用が手術代を含めて数十万円もすると聞いていた。だから僕は最初から人口歯にする気持ちはなく、医師も僕には勧めなかった。ところが、まったく偶然なのだが、昨夜NHKのラジオを聞いてていたら、NHKの調査で全国各地の歯学部のある大学病院でインプラント不具合を訴える患者が2908人もいたことが判明したという。何が原因かとの質問にたいしては、事前の医師と患者との間のコミュニケーション不足がなんと97%もあった。

当然のことながら、僕の総入歯は健康保適用内の安いものだ。今の総入歯だって10年近く使っても具合の良いことはすでに保証ずみだ。何より先生とのコミュニケーションは良い。末期高齢者は、わざわざ痛い思いして人工歯を作るより昔ながらの入歯で充分だ。

        貞観(じょうかん)大地震と富士山の爆発

2012-01-17 07:14:09 | Weblog
テレビの番組で貞観の三陸大地震(869年)と富士山の噴火(861年)との相関関係を取り上げていた。素人の僕には地震と噴火との間に因果関係があるのかどうか解らないが、改めて調べてみると貞観時代(859-874年)の16年間は大変な時代であった。貞観は平安時代初期、清和天皇の御世だが、時代的に追っていくと3年には直方に隕石が落下、6年には富士山が噴火大爆発、青木が原に大溶岩が流れ出した。そして10年には播磨の国を中心に群発地震が発生、11年には三陸地方に大地震と大津波が襲っており、さらに16年には開聞岳が噴火爆発している。これだけ短期間に自然災害にあい、世の無常を感じられた清和天皇は30歳で譲位して仏門に入っている。

30万人という大犠牲者を出した2004年12月のスマトラ沖大地震(M9・1)は、まだ僕らの記憶に新しいが、この大地震から一昨年までの5年間にスマトラではM7・2以上の地震が7回も起きている。そして同時に05年には西スマトラのタラン火山が爆発、06年には西ジャワのタンクバンプラフが、またさらには中部ジャワのムラピ火山が大噴火して大きな被害が出ている。明治の三陸大津波(1896年)の時も、これに先立つ8年前の1890年に会津磐梯山が大爆発している。

鹿児島桜島の爆発噴火の回数がこのところ増え、すでに今年になってすでに100回を越えた。これは昭和30年観測開始以来最速だという。近くの宮崎県境の新燃岳も昨年2月噴火している。日本列島全体が火山の活動期に入ったのかもしれない。ここに住む僕らの宿命かもしれないが、昨年の大震災を教訓に想定外も想定に入れて自然災害に備える必要があるのかもしれない。

          64年前の大学入試の頃の想い出

2012-01-16 07:00:01 | Weblog
今年の大学入試センター試験は英語リスニング・テスト試験用の器材遅れや社会問題の配布ミスなどがあって一部で混乱したが、とにかく昨日で2日間の日程を終了した。傘寿を過ぎた僕だが、毎年この時期になると64年前の大学入試を想い出す。当時は戦後の混乱期だったが、国立大学志願者には「アチーブメント・テスト」が課せられていた。記憶が正しければ、このテストは学科ごとのテストではなく、一種の知能テストだったような気がする。僕のような文系志望者には不利であった。

新聞に大学入試センター試験問題と解答が載っていた。僕は大学で英文学を専攻、一応英語の教員資格があるのだが、最近の英語の出題には戸惑うことが多い。毎年、出題を見ると、必ず発音やアクセントを問う問題があるが、昔の英語教育は読み書きが中心で、発音やアクセントなどまったく問題にしていなかった。試験問題は戦前から受験生にとって”バイブル”視されていた”オノケイ”(小野圭次郎先生)の英文解釈的な英文和訳の問題であった。

たいがいの旧制高校や大学予科の英語試験にはリスニング・テストはなかったが、何故か僕の大学ではヒヤリング・テストがあった。ヒヤーリング・テストは外国人教師が読む簡単な英文を聞き取り、書きこむだけのものだったが、”オノケイ”的受験勉強をしていた受験生にとってはこれまた戸惑いだった。今年の英語試験を見ると、例文の英語は”オノケイ”時代のような難文ではなく、簡単な日常会話が多い。僕の世代は英語力はあると思うのだが、海外旅行へ出かけてもホテルの対応一つできない人が多い。要するに昔の英語教育は読み書きが中心だから、話したり聞いたりすることが、からきしダメなのである。実用という意味では英語教育は格段よくなったようである。